SS詳細
星降る丘に、いちよう
登場人物一覧
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その日、幻想の街は朝から快晴であった。
勢いを増す炎陽から逃げるように、冒険者用のコートに身を包んだ炎と活動的な洋服を着たシェルピンク、小柄な影が二人分、大通り沿いのカフェへと飛び込む。
白を基調とした店内は空調が効いていて過ごしやすい。メニュー表を差し出される前に、二人は季節限定の果実水を注文した。
アイスクリームや夏の果物がたっぷり乗せられたフロートが供される。店の前にある黒板に描かれていたフロートは、二人が避難場所としてこのカフェを選ぶ決定打であった。
エドワード・S・アリゼとスクラッチは今まで会えなかった時間を埋めるように笑い、互いに尽きる事のない話題を喋り合った。
久しぶりに会った仲の良い友人というものは得てしてそうなるものだ。
柄の長いスプーンで丸いバニラアイスを崩しながら、エドワードは今まで見てきた景色の話をした。
それは遠い遠い異国の話であったり、胸躍る冒険の話であったり、時として不思議な生き物の話であったりもした。
「いいなぁ、エドは。色んなところに行って。猫もエドと一緒におでかけしたいです」
シロップに漬けられたサクランボを口に含みながら話を聞いていたスクラッチであったが、種を出すついでにポロリと心の中身もこぼしてしまった。
「おっ、いいぜ。どこ行く?」
「いいの?」
さらりと告げられたエドワードの言葉に、スクラッチは桜色の猫耳をぴんと立てた。夏の朝焼け色を映しとったスクラッチの大きな瞳が一番星のように輝いている。
「当ったり前だろ。折角だし遠出してみるか?」
エドワードは夏らしい爽やかな笑顔を浮かべていた。入道雲のように白い歯が朗らかな弧を描き、にししと笑う。
こうやって、エドワードはいつだってスクラッチに「嬉しい」を与えてくれるのだ。今日だってすぐに一番欲しい言葉をかけてくれた。
「遠出してみたいっ!!」
立ち上がりたい衝動をぐっと抑えて、スクラッチは机に身を乗り出した。このお陽様のような友人とスクラッチはよく遊ぶ仲であるが、遠くまで出かけたことはまだ一度も無い。
「へへっ。じゃあ決まりだな。スクラッチは行ってみたい場所とかあるのか? それか、見てみたいモノとか」
エドと一緒だったら、どこでもいいよ。そう言いかけてスクラッチは止めた。「一緒に」でかけるのだ。全てを任せきりにしてしまうのは、よくない。
行ってみたい場所。
エドと一緒に見たいモノ。
スクラッチは明るい笑顔を咲かせると、まだ見ぬ大空を描くように両手をめいっぱい広げてみせた。
「一緒に、星とか、見に行きたいかもっ」
夏の夜空に煌めく星の河。
涼しい夜で見る星空はさぞ美しいことだろう。
友人と見られたら、きっともっと、楽しい。
そこまで考えたスクラッチはうっとりと目を細めた。しかし突如として真剣な表情になりエドワードへと向き直ると、慌てた様子で念を押すように付け加えた。
「あっ、夜に一人で星を見に行くのが怖いわけじゃ……ないよ?」
スクラッチは以前から星に興味があった。
けれども、一人で誰もいない真夜中の星空を見るのは何だか味気ないような気がして。それと本当はちょっぴり一人で行くのは怖くて。今まで星を見に行く機会が無かったのだ。
それをエドワードには知られたくは無かった。
「そうだよな。二人なら、一人よりもっともっと楽しくなるぜ!!」
エドワードは楽しそうに言った。
スクラッチは色んなものに興味を示しがちだ。あっちへフラフラ、こっちへGOGOと、足音も無く消えるのでエドワードが焦ったことも一度や二度ではない。
(はぐれないように俺がしっかりとスクラッチを見ておかねぇとな)
エドワードの決意をスクラッチは知らない。頭を撫でられて、甘えるようにゴロゴロと喉を鳴らしている。
「星って、とってもきれいなんだって。それに願い事が叶うみたい」
幻想的で穏やかな、スクラッチらしいリクエストだとエドワードは微笑んだ。
「おーっ、それならたっくさん星が見えるところに行こうぜ」
「うん。願い事、いっぱいできたら良いね」
エドワードから肯定的な返事を得たスクラッチは、照れくさそうにはにかんだ。
「ローレットの情報屋さんなら、星がよく見える場所を知ってるかも」
「善は急げって言うし、さっそく聞きに行ってみようぜっ」
「うんっ」
指を鳴らしながらエドワードが立ち上がると、スクラッチも飛び上がるように立ち上がった。
外は相変わらずの炎天下だ。
しかし楽しい予定に胸を弾ませた二人には、うだるような午後の暑さも敵ではない。
初めてのおでかけ。何て素敵な響きなんだろう。
まだ見ぬ目的地を探して、二人は弾むように駆けて行く。
「こんにちはー」
「お邪魔しまーす」
幻想にあるギルド・ローレットは今日も大賑わいであった。知っている人、知らない人。様々な顔がすれ違う。
「今日もスゲー賑わってるなぁ。大丈夫か、スクラッチ」
「う、うん。大丈夫」
押しつぶされないにようにエドワードの背中にまわると、スクラッチはピッタリとくっついて歩く。まるで仲の良い兄弟、あるいは姉妹のような光景に、ギルドの一区画がほのぼのとした空気に包まれた。
「エドワード君にスクラッチ君じゃない。元気ィ?」
カウンター越しに声をかけてきたのは髪を結んだ情報屋の女性であった。彼女は活動的な情報屋としてローレットに在籍しており、エドワードもスクラッチも何度か会話した仲である。
「今日は二人でどうしたの。依頼でも受けに来た?」
「いや、ちょっと聞きたい事があってさ。なー、スクラッチ」
「うん」
エドワードのコートを掴みながら、もじもじとスクラッチは頷いた。
「あのね。エドと一緒に星を見に行くの」
「あらぁ、良いじゃない」
情報屋から一瞬母親の顔に戻った彼女は、話の続きを促すように二人に向かって微笑んだ。
「せっかくなら遠くまで見に行こうって話になりました。情報屋さん、星がキレイなところ、しりませんか?」
「そうねぇ。遠くと云うなら、候補は幻想以外の国かしら? ちょっと待って」
情報屋は年季の入った分厚いファイルを取り出すと手慣れたように数枚を差し出した。
「キレイな星が見られそうな依頼は、この辺りかしら」
「あ、やっぱり依頼なんだ」
「そりゃあそうよ。腕が良くて、コンビネーションにも問題が無いイレギュラーズ二人がやってきたのに、逃す訳無いでしょ」
たたみかけるような情報屋の勢いにエドワードとスクラッチは顔を見合わせると苦笑をもらした。
「そう言ってもらえるのは嬉しいけどさぁ。俺たち、今回は星を見に行きたいだけなんだよ」
エドワードと情報屋がそんな会話を交わしている時であった。
「ねえ。これなんて、どう?」
スクラッチがそろそろと指で示した依頼書を二人は両側から覗き込む。
「おりぼしの……竹林?」
「『星杏のイチョウ』の実を確認してくる調査依頼ね。スクラッチ君、良い依頼を選んだわ」
情報屋から褒められたスクラッチは愛らしい顔をほころばせた。
「これ、どんな依頼なんだ?」
「カムイグラに『織星の竹林』って呼ばれる竹林があるんだけど、そこに『星杏のイチョウ』っていう、とても大きな樹が生えているのよ。その星杏のイチョウの実に色がつきはじめてないか、確かめてきて欲しいんだって」
「実に色がついているかどうか。見てくるだけで良いの?」
「思っていたよりも簡単そうな依頼だな」
エドワードとスクラッチが揃って安堵の表情を見せると、情報屋は待っていましたとばかりに声を落として二人に顔を近づけた。
「だけどね。星杏のイチョウには、こんな噂もあって――」
●
――ぼう、ぼう……。
闇の奥から夜鳥の鳴き声が聞こえてくる。
高く伸びた竹が夜風にしなり笹雨を降らせると、スクラッチの尾が猫柳の花穂のように膨らんだ。
「いまの、何の声だろ……」
「フクロウ、じゃねえよなぁ……」
二人は身を寄せ合って目前に広がる深緑の闇を見つめた。
周辺にはじっとりと湿度の高い、得体の知れない空気が立ち込めている。
ぽつぽつと並んだ苔の生えた石灯籠がなければ、ここに道があるとは誰も気がつかないだろう。
スクラッチとエドワードは昼にこの小径を歩いたにも関わらず、初めて訪れたような印象を受けていた。
それほどまでに「織星の竹林」は昼と雰囲気が異なっていたからだ。
星杏のイチョウは夜しか見つからない。しかも迷路のような竹林を踏破しなければ辿りつけないと聞いていた情報屋の話が、にわかに真実味を帯びてきた。
豊穣では狐や狸に化かされているとも、星杏のイチョウの精がする悪戯だとも、実は幽世に迷い込んでいるのだとも言われてる。
そんな噂の真偽を確かめようとエドワードとスクラッチは昼に一度、織星の竹林を訪れていたのだ。
その時は少し広い竹林の丘という印象であったが、今二人が立っている場所はまるで巨大な迷路の入り口に近い迫力がある。
「暗くて奥まで見えねえなぁ」
昼とはまったく違った様子に驚きながらエドワードは灯りを掲げた。
左手にある提灯は、大鬼灯と呼ばれる植物の実を加工して作られた手提げ灯である。地元の住人から押し付けられた淡い朱色の灯は、エドワードの燃えるような髪の色とよく似ており、つけられた獣避けの鈴が歩く度にチリンと鳴る。
「スクラッチ?」
エドワードは振り返った。
スクラッチは横を見ていた。竹林の闇に潜んだ見えない存在を視線で縫い留めるように虚空をじっと凝視している。
エドワードが持っている大鬼灯よりも少し青みのかかった灯の光が柔らかく明滅するたびに、照らされたスクラッチの瞳孔が三日月のように細くなる。
「おーい、スクラッチーー」
「あ、エド。なに?」
スクラッチの視線がエドワードを中心に急速に焦点を結ぶ。
「ボーっとしてたから声かけたんだ。大丈夫か?」
「うん、大丈夫。でもね」
「でも? どした」
スクラッチは照れくさそうにエドワードから視線を外した。
「あのね」
「おう」
もじもじとしたスクラッチの様子に、エドワードは何だろうと首を傾げる。
スクラッチにはふわふわとした、好奇心のままに歩く猫のような側面がある。
それを知っているエドワードは目の前の友人が話を切り出すまで待つ事にした。
「奥に進むなら、怖くないけど手を繋いでた方がいいよ! ……怖くないけど」
怖くないと繰り返しながらそろりと持ち上げられた手と、ぐっと唇を結んだスクラッチを交互に見たエドワードは表情を和らげた。
「よしっ、迷子にならないように手ぇ繋いでいこうぜ」
「迷子にもならないよ?」
「そうだったな。悪ぃ悪ぃ」
「むぅ」
拗ねた様に言うスクラッチの様子を見てエドワードは微笑んだ。面倒見の良い、兄のような笑顔だ。
実際のところ、スクラッチが夜の竹林で迷子になってしまわないか。こけて泣いたり、暗闇に連れていかれてしまわないか。エドワードは心配に思っていたのだ。
もちろんそんなことを言ってスクラッチを怖がらせてはいけない。憂慮していた懸念を、瞼を閉じて追い払う。
「猫は夜でも見えるから平気だけど、エドはこけちゃうかもって心配です。だから手をつないであげるね」
「前方の確認は任せたぜ」
「はーい」
スクラッチの白い指を包み込むように、エドワードは手を握る。
安堵した幼い呼吸が二人分、柔らかな落ち葉の上に落ちる。聞こえなかったふりをして、二人はふたたび竹林を歩きだす。
「……?」
誰かに見られているような気がして、スクラッチは背後を一度だけ振りかえった。
この竹林は方向感覚が狂いやすい。
一本道に見えるが実際は碁盤の目のようになった横や縦の道を交互に歩いている、とスクラッチの直感は告げていた。
「もうとっくに竹林を抜けてる頃だと思うんだけどなぁ……」
「昼間に歩いたときよりも長い、よね?」
十分もあれば通り抜けられたはずの竹林を、二人はかれこれ三十分は歩いていた。
周囲の景色や小路の様子は少しずつ変わっているため、同じところを堂々と巡っているわけでは無いようだ。
いつのまにか足元は仄かに光る白撫子の花が咲いていて二人の進む道をぼんやりと照らしている。
花の色を吸い込んだかのように、周囲を見渡すスクラッチの空と薄桃の瞳はゆらゆらと幻想的な光を湛えていた。
「それに……」
「うん。気がついてるよ」
竹林に入る前から感じていたことだが、この竹林の闇には何かが潜んでいる。暗闇から時折感じる視線に敵意や害意は感じない。どちらかと言えば見守っているような、そんな柔らかく、夜に子供二人でこんな暗い場所に来てしまって大丈夫だろうかとハラハラしている気配だ。
「俺たちなら大丈夫だぜーって声かけちゃダメかな」
「一応隠れているみたいだからやめておいたほうが良いんじゃない?」
ヒソヒソと会話を交わしながら進んでいくと、竹の数が減って見通しがよくなってきた。
「おっ、ここからは登り坂みてーだ。スクラッチ、足元に気をつけろよ」
「うん。エドも気をつけて」
「あっちの明るい方に向かってみようぜ」
竹林へと射しこむ光に向かって、二人は小走りで駆けていく。その背中に向かって「ぼう」という鳴き声がかけられる。
「ありがとう」
「ありがとな」
振り向いた二人が声をかけると、重い羽搏きの音が去っていった。
竹林を抜けると唐突に視界が開けた。
爽やかな夏の夜風が二人の髪を笹葉と共に巻き上げる。
「わぁ……!!」
最初に見えたのは一面の夜空だ。
遮る物のない、どこまでも広がる漆黒。澄んだ空気の中で銀星が、ちりばめられたダイヤモンドのようにぴかぴかと瞬きを繰り返している。
「色んな噂が流れてる場所みてーだけど、星が綺麗なことだけは確かみてーだ」
エドワードの口には、いつの間にか笑みが浮かんでいた。さらさらと流れていくほうき星が、まるで「見て」と云わんばかりに強く輝いては消えていく。
「エド、エド」
けれども、そんな美しい星空よりも驚く存在がそこにはあった。
目をみはるほど鮮やかな若菜色。
袖を引かれたエドワードがスクラッチに示されるままに視線を移せば、そこには見上げるほど大きな樹が輝いている。
「あれが『星杏のイチョウ』か」
「ぼんやり光ってて、お月様みたい」
「もっと近寄ってみようぜ」
大樹の傍へと歩み寄れば、その巨大さに圧倒される。
白い紙飾りのついた縄がぐるりと一周、幹を囲んでおり、どこか神聖な雰囲気を湛えて佇んでいる。
「あのピカピカしてるの、何だろう?」
スクラッチの言う通り、星杏のイチョウの枝には所々強い輝きを示す部分があった。
背伸びをしたエドワードが手を伸ばして葉をどけてみると、多面体の実が枝に幾つか、梅の実のようについている。
「すげーーっ、これ、木の実なのか……?」
仄かに光るアンズ色の実は勿論のこと、エドワードが何より驚いたのは、星杏の実が星の形に見えることだった。
「黄色く光って、星がここにあるみてーだぜ。ほら、スクラッチ、見てみろよ!」
ころりと落ちてきた実を手のひらに掬いあげ、エドワードはスクラッチの前へと差し出した。さくらんぼ大の実は枝から離れても薄い光を纏い続けている。
「きれーな実……」
うっとりとした瞳でスクラッチは星杏の実を見つめた。美しく輝く星が、自らの手の届く場所で光っている。
「これ食べれんのかな」
「え? 食べちゃうの?」
もったいないとスクラッチが口にする間もなく、エドワードは星杏の実を口に含んだ。
「……どう?」
口をもごもごと動かすエドワードに向かって、少しだけ残念そうにスクラッチは尋ねた。その声には爆弾処理が成功したのか確認する特殊部隊のような慎重さが含まれている。
「んっ、甘酸っぱい! 結構美味しいぜ。スクラッチもどうだ」
スクラッチのことを好奇心いっぱいだと評したエドワードだが、スクラッチに言わせてみればエドワードの方がよっぽど好奇心旺盛だ。
「エドがそういうなら……」
スクラッチも一粒口へと放り込んだ。
薄皮がぷちりと弾けると桃のように甘い果汁が口いっぱいに広がった。あとからついて来た酸っぱさにきゅっと眉をひそめたものの、まろやかな酸味が歩き疲れていた全身に染みわたっていく。
「あ、美味しい……」
「だろ? 熟したやつが光ってるんだろうな」
見上げれば星杏の実はいくつも実っている。
熟しているものは強く輝き、まだ熟していない実は緑色の葉と同化するように潜んでいる。
スクラッチは実を見上げて、強く輝くオレンジ色の実を手に取った。
「やっぱりきれい……」
手の中で光るお星さま。
どうしても欲しくて、スクラッチはハンカチを取り出すとこっそりとポケットの中に実をすべりこませた。
(ごめんなさい。一個だけ、もらっていくね)
「なあ、スクラッチ。何か音がしねえか? 風鈴、だっけ。そんな感じの音」
「本当だ。上から聞こえてくる」
「え、そうなのか?」
「うん。ほら、聞こえる?」
目を閉じたスクラッチが耳をすませば、チリン、チリンとあちこちから幽かな音が聞こえる。
不思議と怖さは感じなかった。どこか優しい、懐かしい音色に聞こえたからかもしれない。
「次はあそこかな」
スクラッチが指さした先にはまだ薄緑の星杏の実が成っていたが、言葉が終わるか否かというタイミングで、リンと小さな涼音が鳴った。
「あ、光った。すげーっ! 本当だ!」
同時に、緑だった実の内側に小さな金色の光が燈る。
「あの鈴みたいな音、星杏の実が色づく音だったんだな。スクラッチ、どうして次はあそこから聞こえるって分かったんだ?」
「何となくかなれ
興奮した様子のエドワードに、スクラッチは小さくぺろりと舌を出した。
星杏の樹の傍は星を見るには明るすぎる。少し離れた草原に二人は膝をかかえて座った。
「星、綺麗だなー」
「そうだね」
「風も気持ちいいし……」
「うん」
微睡むような心地の良い会話だ。夏草と夜と、杏の混じった香りが辺りに甘く漂っている。
んーっとスクラッチは大きく伸びをした。
「とっても気持ちいい……」
頬に当たる夜の風。耳をくすぐる虫の声。
「……鳴いてる虫はなんだろーな、なんか聴いてると落ち着く音だ」
「ほんとうだ」
隣に座るエドワードの気配。
思考を遮るものは何もなく、世界の全てがスクラッチに優しかった。
時間や距離、全ての境界が曖昧に溶けていく。
スクラッチは目を開いた。ベルベッドの夜。満天の星。見たくてたまらなかった光景、願ってやまなかった景色がすぐそこにある。
「不思議な感覚、空が落ちてきたみたい」
星の光があんまり近くに見えるものだから、さわれるのではないかと手を伸ばす。
けれど、もし本当に触れてしまったら?
もし、消えてしまったら?
そう思ったらスクラッチは急に怖くなって手をひっこめた。
感情が混ざりあい、胸がきゅっと痛くなる。
「んぇ?」
ほろほろと涙をこぼし始めたスクラッチを見て、エドワードは思わず声を出して驚いた。
「ははっ、なんだよスクラッチ、泣いてんのか? どーしたんだよー」
俯いて膝を抱えてしまった桃色の頭を、エドワードは優しく撫でた。その声にはなだめる様な色が滲んでいる。
スクラッチの甘い味がしそうな色の髪の毛を梳くようにしてやれば「だって」と丸いビー玉みたいな声がした。
「星に触れそうだったから、手を伸ばしたんだ。だけど、触ったら消えちゃいそうで……」
「心配しなくても消えたりしねーって。心配性なスクラッチだなー」
エドワードはケラケラ笑うと、おむすびのように丸くなったスクラッチをひっくり返した。
自分の膝にスクラッチの頭を乗せると驚き顔のスクラッチとぱちりと目が合う。
「ほら、見えるか? 星って、あんだけ沢山あるんだぜ」
「うん」
エドワードの足を枕にして見上げる星空は、自分独りで見ていた時よりもずっと遠くに見えた。
スクラッチはおそるおそると手をかざす。
そのまま拳を握りしめたが、手の中にあるのは星の残光、それだけだった。
「スクラッチの腕の長さじゃあ、星に届かねえんじゃねーかなぁ」
「それは分かんないよ。まだまだ伸びるもん」
ははは、と快活にエドワードは笑った。夜なのに、お昼のように明るい笑顔だ。スクラッチの心にかかっていた靄は、いつの間にか晴れていた。
「ねえ。いつかあの星にも、手が届くかな」
「そうだなー、めっちゃ遠くにあるらしいけど、ずーっと飛び続けりゃ届くんじゃね? それこそ、宇宙の大海原を大冒険だぜ!」
「エドワードらしいね」
宇宙の大海原を大冒険。
その言葉があまりにもエドワードらしかったので、今度はくすくす、スクラッチが笑う番だった。
「いつか出来たらすげーワクワクするなあ〜」
「ねえ、エド。もし星まで冒険しに行くことがあったら、その時は声をかけてね」
「おう」
答えてからエドワードは口をつぐんだ。星空を見上げながら、穏やかな眼差しで宙を見つめている。
「な、スクラッチ、今回の冒険、どうだった?」
「え?」
「オレはすげー良い冒険が出来たかなって思ってんだ」
まるで謳うようにエドワードは続けた。
「スクラッチと一緒に織星の竹林を歩いたことも、星杏の実が色づくところを一緒に見つけられたのもそうだし、虫の音も、すげー広い星空も、全部最高の思い出だぜ!!」
そうしてスクラッチを見るエドワードの瞳のなかには、今日見た中でも一番明るい星が輝いている。
「……うん! エドのおかげで とっても楽しい冒険でした」
眩しさに目を細めながら、ふにゃりと蕩けるようにスクラッチも笑った。
「今度はもっと 色んな人と一緒に来ようね」
「な、また一緒に冒険しよーなっ」
たくさんの大切な人と見る星空を想像して、スクラッチは嬉しそうに耳を震わせた。
「あっ、流れ星!!」
「お願いしとこーぜっ」
星の唄と虫のオーケストラ。
夜の風と色付いた果実の甘さ。
星の光に見守られながら、ゆっくり流れる夜のうつろいに身を委ねていく。
二人の旅人は遥か先、何億光年の光を見つめながら約束を交わす。
そんな彼らの旅路を祝福するように、竹林は閑かに揺れていた。
おまけSS『織星の竹林に至るまで』
テーマ
きらきら、わくわく
時間の移ろい
太古の光と太古の植物
和風/夏休み後半/天体観測
星祭/杏/イチョウ
世界樹紀行/猫と少年
織星の竹林→星杏のイチョウに会うためには縁を織りなす儀式が必要。星が見える夜、訪問者は縁の糸の上を歩いていく。大抵の人間はおかしいと途中で引き返すため星杏のもとまで辿り着けない。竹林に入る前に鈴を鳴らせば、来訪者が遭難しないよう竹林に棲む何かが憑いてきてくれる。
イメージ風景
竹林の小径
海と星の見える公園の夜空
星降る丘
●
さやさやと、翡翠が揺れる。
都から離れた
夏が過ぎ、蜂蜜色の晩夏光に染まる時節には「豊穣」の名に違わぬ黄金の海が見られるのだろう。
「今はまだ青田ですけれど、秋はこの辺りが全部金色に染まって凄いんですよぅ」
そう言って、紺地の着物に身を包んだふくよかな茶屋の娘はコロコロと笑った。
「ここから見える場所、全部田んぼかぁ」
どこまでも広がった夏の稲田は、此処に住む者にとっては何ら面白みの無い風景なのだろう。けれども年若き太陽の旅人の眼には全く違う光景が映っていた。
「収穫する前の金色も綺麗だろうけどさ。今の青い田んぼも生き生きしてて、キレイだよなぁ」
しみじみと、しかし深い感嘆のこもった声に世辞の色はない。
少年からの賛辞を受け取るように風が緑の海を通り抜けた。
「凄いといえば、お二人ですよ。まさか神徒様がこんな田舎にいらっしゃるだなんて!!」
「ん?」
エドワードは穏やかな表情のまま首を傾げた。
豊穣では特異運命座標達のことを「神徒」と呼びならわすとは聞いてはいたものの、新しい言の葉の響きには未だ慣れていない。自分たちが有名人扱いされることに対して、エドワードはどこか他人事のように感じている様子であった。
「オレたちって、そんなに珍しいのか?」
「そりゃあ勿論! どうしてこんな田舎まで?」
エドワードはひひっと、素朴な少年のように笑った。
「俺たち『星杏のイチョウ』を探しに来たんだ。織星の竹林にあるって聞いたんだけど」
この炎天下の中を歩いて来たのか、肩に流れた燃えるようなエドワードの赤い髪はしっとりと汗に濡れている。茶屋の習いに従って、今はブーツを脱いで水の張ったタライに白い足をつけていた。
傍らに置かれた革の荷物鞄はこんもりと膨れており、色々な準備をしてきたことが一目で見て取れる。
時は八月、眩いばかりに生命の溢れる季節だ。
水田に根を下ろした青々とした稲の葉が鋭い葉先を太陽に向けて揺れ、ミンミンと絶えることなく蝉たちが鳴き続けている。
「ふゃ〜……あついよぉ……」
そんな蝉たちの声に埋もれるようにして、霞の如きか細い声が響く。
風通しの良いジャケットや短パンからは千歳飴のような脚や腕が放り出され、エドワードの太腿には薄桃色の髪が睡蓮のように広がっていた。
この猫にも人にも見える正体こそ、スクラッチである。
エドワードとのおでかけを楽しみにしすぎたあまり寝不足になってしまったのか。それとも慣れない豊穣での夏の湿度がスクラッチにとっての天敵であったのか。今は小さく舌を出したまま、呼吸をするのもやっとの有様だ。
「スクラッチ、オレとくっついてたら、暑くないか? やっぱ離れて座った方がいいんじゃないか?」
「だいじょうぶだよぅ……」
スクラッチの夏暁を宿したかにも見える不思議な色合いの瞳は、白い瞼の裏に隠されている。
茶屋に到着して休み始めた最初こそエドワードに隠れるようにもたれかかっていたのだが、今は覚悟を決め、小柄な身体を床机の上に横たえていた。
いつも元気なスクラッチの赤くなった顔に、エドワードは借りてきた藍の扇子で風を送ってやる。緋色の野点傘が作った仄かな影の中で俯いたエドワードの蜜色の瞳が湖光のようにゆらゆらと揺れている。
「さあさ、暑気払いにゃ当店自慢の
威勢の良い声と共に、茶屋の主が山盛りの氷を両手にやってきた。硝子の椀に冬山の如く盛られた白い氷には杏の甘煮や白玉、砂糖で炊かれた豆がこれでもかというくらい乗せられている。
「ほら、スクラッチ。氷が来たぞ。少しは食べられそうか?」
「うん……」
エドワードに言われてスクラッチは緩慢な動作で起き上がった。
寝起きを思わせる幼げな声と共に、朱鷺色の猫耳がふるふると震える。シャクリとした小気味良い音と共に甘い冷たさが火照った舌の上で溶けていく。
「海神様を倒して海を渡って来た猛き武士たちが来るって聞いた時ゃ、どんなデカくておっかない人たちが来るのかと皆でビクビクしてましたけどねぇ。まさか、こんな可愛い子が神徒様とは」
「おとっつぁん!!」
「おっと悪いな。さあ食ってくれ」