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甘き予感と過ぎた夜
登場人物一覧
●黄昏よりの吸血鬼
十字架を掲げた家々の夜を、赤いコートの男が駆け抜ける。
屋根から屋根へ、十字架から十字架へ。まるで川の流石渡りのごとく飛んでいく影。
時を同じくして、悲鳴をあげながら裏路地へ走る若い女。
吐く息は白くもやになっては消え、靴音は冷たい夜風に反響して下卑た誰かの声にうもれた。
白く清らかなドレスを泥に汚し、慌てふためく姿。街路の整備不足な石煉瓦に躓いて転んだところに、人型の影が覆った。
伸びる手。
三つ編みに結った髪をつかみ、持ち上げる。
悲鳴がよりいっそう強く高くあがった、ところで……。
ヒュン、と風をきる音がした。
吹き上がる血。
醜い顔の男は目を見開いたままよたよたと後退し、『肘から先がなくなった』腕を見て歪んだ悲鳴をあげた。
力がぬけ、どさりと落ちる手。
「女性の髪を掴みあげるとは……おにーさん、関心しないな」
手を拾い上げ、男へと放り投げて返す。
『いつのまにかそこにいた』男は……上半裸に直接赤いコートを羽織っていた。
赤黒いサングラスの下で、赤い眉毛がわずかに上がる。
肩をすくめ、男は『ん?』とおどけたように首をかしげた。
「てめぇ――」
腕のはずれた男を強引にどかし、別の男が懐から粗末なリボルバー拳銃を取り出して突きつけた。
が。
赤いコートの男が指をついっと振った途端、空間に走った赤い十字のラインが拳銃を斜めに切断。銃身と弾倉をいいかげんに分解して石煉瓦のうえに散らした。
「ひっ――」
引き金を引くよりも早くおこったその事態に、男は悲鳴をあげて後じさりした。
そして。
「バケモノ!」
逃げていく男たちの、遠ざかる足音。
「あ、あの……」
座り込んだままの女は呼びかけようとして、しかし喉をつまらせた。
男たちの逃げる方を見つめたまま、サングラスの横から覗き見えた赤い目が、とても悲しそうに揺れたからだ。
だがそれはほんの一瞬の出来事。
男は笑顔で振り返り、そして片膝をついて女に手を差し伸べた。
「美しいお嬢さん。冷たい夜にあなたのような花が一輪だけとは寂しすぎる。どうか風があたらぬ場所まで、ご一緒させていただけませんか」
美しく、そして低く転がる石のような声でささやく男。
彼が『安全な場所まで送りますよ』と述べていることに女が気づいたところで、男は『なんてね』と言って朗らかに笑った。
「さ、お手をどーぞ。おにーさん、こう見えてエスコートは得意でね」
それから奇妙な日々が始まった。
衣服工場でミシンをうつ仕事をしている女の家に、彼がなんとなく転がり込んだのだ。
金らしい金をまるで持っておらず、放っておけば路上に転がりかねないと彼を宿泊させたが、二日しても三日してもその状態が続き、気づけば……。
「やあ、お帰り。ちょうど晩ご飯ができたところだ」
胸元をあけた半袖のカッターシャツに、赤いエプロン。
ミントシガレットを咥えた彼が、フライパン片手に振り返る。
男は名を『ヴォルペ』と名乗り、それ以上の素性をなにも話さなかった。
女に何かを要求することは一度も無く、帰ってきてみればこうして食事の用意をしている。
彼が住み着きはじめてから部屋は整い、どこか甘くすっきりとした香りがするほどである。
「今日のメニューは海鮮ピラフにコンソメスープ、それと――」
楽しげに夕飯のメニューや味付けを語る男。
あの夜女の手を引き上げてからずっと、指一本すら触れていない彼。
女はそんな彼の奇妙な魅力にひかれながらも、けれど何もわからぬまま、彼との暮らしは過ぎていった。
その日の朝も、いつものようにベッドで目覚め、ヴォルペの作る朝食を食べて出勤のしたくをした。
食器を片付けて流し台に立つ彼の背をいつものように見て、そして。
ふと。
彼がもう消えてしまうような予感がした。
「ねえ」
鞄を肩にかけたまま、そっと後ろに立つ。
黙って洗い物をする彼の背に、とんと額を当てた。
「あなたが誰だってかまわない。どこで何をしてきたひとだっていい。だから、ね」
ヴォルペに腕を回し、目をつぶる。
「ずっとここにいて」
ヴォルペはただ、黙ったまま。
静かに洗い物を続けていた。
予感に名前をつけるなら。
それはきっと、『甘み』だろう。
ヴォルペの背を見つめたとき、ふと口の中にとろんとした甘みを感じることがあった。
頭を振ってごまかしてもなくならない。甘美な感覚。
それがあの朝、いつもより強く、濃厚に、そして強烈に感じた。
彼が甘ければ甘いほど、この場から消えて無くなってしまう気がして、女はあんな風に彼を抱いたのだ。
そして。
抱いたことを、彼女は強く後悔した。
なぜならば。
冷たい夜の風に、ヴォルペのコートが揺れている。
家の扉に鍵を閉めて、こちらへと振り返る。
「やあ、もう帰りかい? 今日は早かったね」
何も持たず。
あの夜着ていたコートとサングラスだけを身につけて、彼は冷たい夜に立っていた。
喉が渇く。
「しばらく空けるよ」
女の横を通り過ぎるように歩く。
喉が渇く。
「だから」
「待って」
引き留めるように手を握り、そして強く抱き寄せた。
ヴォルペは抵抗もせず、ただされるがままに抱かれた。
喉が渇く。
ヴォルペの白く、そして甘美な首筋に、口を開き、牙を――。
「やめた方がいい」
ぴたり、と、女の唇にヴォルペの人差し指があたった。
「オレはそれで失敗した」
「…………」
牙を隠すように口を閉じ、女の頬に一滴だけ透明ななにかが流れた。
「また、戻ってくるのよね」
問いかけには応えず、ただ、ヴォルペは女の手に鍵を握らせた。
そして黙って、冷たい夜に消えていく。
●明けて朝はきたれり
「――っていうのが、おにーさんの昔話さ。どうだい、エロいだろう?」
「自分で言うのか」
ところ変わってローレットの酒場。
ヴォルペはミネラルウォーターをグラスの中で揺らしながら、ニコニコと笑ってみせた。
「おにーさんはね、行く先々に女や男がいるのさ。そのたびにああして別れが……」
「まて、そういえば重要なことを聞いてない」
相手の、今日会ったばかりの男が手をかざして話を遮った。
「あんたは、なんだってそんなあちこち旅をして回ったんだ」
「なにって、いやだな」
ヴォルペはグラスの中身を飲み干して、唇を手の甲で拭った。
「唯一と決めた人を追いかけるために決まってるだろう?」