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揺蕩う吐息
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揺蕩うのは世界か、或いは己が思考か――
ノア=サス=ネクリムの瞼がゆっくりと開かれた時、初めに感じたのは『高揚感』だった。
胸の奥が疼く。いやそればかりか脳髄にはほんのりとした熱が宿っているのか……どこか虚ろ気でもあったか。今、自らは立っているのか寝ているのか? それすらも曖昧、で。
「は、ぁ」
刹那。零れたのは、吐息。
熱を帯びたソレは艶やかなる言の葉も伴って、宙へと消える。
あぁなんだろうか、実に体がだるい。
ほんの微かに動かすのも億劫な彼女の――しかし、その背より至ったのは。
「ダメよ『私』。楽しい一時を、胡乱気に過ごすの?」
自らの『声』であった。
分かる。ソレは自らの『裏』である――
彼女の魂に根差す一つの側面。以前にもこんな事があったか――と想えば。
「ま、た来た、の……?」
「ふふっ。『来る』も『来ない』もないわよ。私は貴女、貴女は私。
――分かるでしょ? 貴女が望んだ時に、私は『いる』のよ」
「そん、なの……」
続けるべき言葉は『あり得ない』だったろうか。それとも『分からない』だったろうか。
だけれども全ては溶けて消える。思考が纏まらず、どこかに感じる浮遊感が勝るのだ。
あぁ、あぁ。なんだろうか本当にこの感覚は。
『裏』のノアはそんな事情など知らぬと……否、分かっているが故にこそ勘定せずに。
囁くように耳元で言葉を告げながら――指を這わすものだ。
腹部から、なぞる様に。上へ、上へと。
あえて緩慢たる速度によって『表』のノアへと、今どこに指があるのか分からせよう。
そして――胸の所まで至れば肉に指を沈み込ませながら、更に。
「自分の感情に素直になればいいじゃない。貴方も『分かって』いるでしょう?」
「っ、ぁ」
「私の胸を見なさい、素直になり過ぎてこんなに大きくなっちゃったわよ?
――貴女は鏡を見る度目を逸らしているかもしれないけれど。
でもね。確かに在るの。ほら、見なさい。感じなさい――ふふ。指が埋まっちゃうわ」
『裏』は語る。また一段と巨大化していく――己が一部分へと、文字通り指を差しながら。
彼女に宿りし祝福……いや、もしくは『呪い』とも視方によっては言えるだろうか。あらゆる感情を胸に抱けば、その度に比例する様に成長していくのだ……今の所際限がない程に。些かノアにとっても悩ましい程に至っても、尚に暴走は止まる様子なく……
ソコに詰まりしは何か。感情か、欲望か。
いずれにせよ貯め込んでいるモノがあるのに違いはない――と。
刹那。五指を食い込ませる。
――反射的に伸びる背筋。喉の奥から零れた一声を聞いた者は『ノア』だけで。
「ぁ、ぁ――あ」
「ふふ。ほーら、抵抗しないの。無駄なんだから、ね」
然らば『裏』のノアは『表』の身を抑えようか。
片方の手を腹に回し、片方の手を手首に回し。
欲求から逃れんとする彼女の魂を――抑えつける。
熱い。身が、内側から焦がれそうだ。
息が苦しい。鼓動が早くなる。なのに、どうして、どうして――
「ねぇ。何を詰め込んでるの――? 素直になってみなさいよ」
裏の言の葉を、聞き流す事が出来ないのだろうか。
彼女が首筋に柔らかなモノを這わす。指ではない、湿り気のある、何かを。
汗を拭うように。或いは――吸い取る様に。
その度に声が漏れる。腹の奥で熱が渦巻き、のたうち回り。
だけど裏は放してくれないから逃げれなくて――
「わた、しは――」
だから、だろうか。
「私、は、いてもいいのか、しら」
「――どこに?」
「私は、何の為に――ここに、いる、の?」
表のノアが、その胸の内に抱いているモノを吐露し始めたのは。
……自分は一体、何のために戦っているのだろうか。
『分からない不安』が漠然と彼女には在るのだ。
人々の前に現れて人助けをする自分――だけどその芯はなんなのだろうか? 故郷なり、大事な人を護るなり……確固たる意志を持って戦う様な人達と比べて、どこか周りに置いて行かれているような焦りが日々に大きくなっていっている。
――それは負の感情。
自らの存在意義を問わんとするネガティブな思考が宿っているのだ。
心底に悩ましいが故にこそ彼女の胸は巨大化していく。
正しいとか正しくないとかで収まる様な
視線を落とす。其処にあるのは、かつてよりも遥かに巨大化した己が胸。
足元への視界を遮る程の成長はシンプルに邪魔だ――けれど止まらない。
どうすればいいのだろうか。胸に渦巻く感情だけが日々積もり積もっていて……
「私は――」
「悩み過ぎね、貴女は。息抜き出来ないから――そんな事になるのよ」
で、あればと。『裏』は片方の胸を持ち上げるものだ。
そして指を埋め込ませる。五指を順に。その意、は。
「だから『私』がいるとも言えるのだけれども」
「――――あ、ぁ」
「分かっているでしょう?
分からなくても、本当は心のどこかで『分かって』いるでしょう?
自分を見ればいいのよ。他人ばかり見て、自分を放るから――こんな事になるの」
まるで、諭すように『裏』は語るものだ。
胸に広がる感情。破裂せんばかりの高揚感は、何だろうか。
負の感情ではない。甘く、蕩ける様な代物だ。
……彼女らは視線を交わす。言葉は要らぬかのように。
一拍。二拍。近付くのは距離。心も体もゼロへと至れば――
唇が共に触れ合うものだ。
まるで溶ける様に。蕩ける様に。一心になるかの様に。
錯覚する至上の感覚が――ノアの魂を染め上げる。
跳ね上がる心臓の鼓動と同時。舌の先に、柔らかい感触が絡み合うのを感じた。
全身を駆け巡る血液が、灼熱の様な生命を伴った――正にその刹那。
「――は、ぁッ!」
ノアが目覚める。己が、自室にて。
汗だくだ。全身の熱を冷まさんとする身体の反射行動が酷く――
……全ては夢。揺蕩う世界にあった、たった一時だけの幻だ。
されど同時に想いもするものだ。
アレは幻であり――しかし真であったのだろう、と。
悩みは尽きぬ。されど、今は。
「……シャワーでも、浴びてこようかしらね」
己が熱を冷まさんと、汗で満たされし衣へと手を掛けつつ往くものだ。
今宵の一時は只の夢であったのだと想う為に。
身体に迸る熱を流す為に。
……冷えた水が彼女の素肌へと這って落ちれば。
反射的に喉の奥から――揺蕩う吐息が、零れ出でるものであった。