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まだ目覚めないで
登場人物一覧
見上げた雲は少しだけ灰色で、雪の精霊が舞い降りてくる予感に目を細める。
北のヴィーザル地方の冬は既に始まっていて、コート無しでは出歩けない程に風は冷たかった。
ヘルムスデリーの歩き慣れた通りをゆっくりと進めば、顔なじみの薬局の女主人が手を振る。
小さく腰を折ったジュリエットは広場まで歩いて道を右に逸れた。
見えて来たギルバートの家は一人暮らしにしては大きい。
元は家族で住んでいたものを改築して、今はギルバートが一人で住んでいるらしい。
その庭先に視線を落せば、いつもより雑草が多いように見えた。
ノッカーを叩いてしばらくしてから、ギルバートが慌てたようにドアを開ける。
目の下には薄らと隈が浮かび、疲弊しているのがジュリエットにも分かった。
「いらっしゃい、ジュリエット」
「お邪魔します」
ジュリエットはぺこりとお辞儀をする。
何時ものようにリビングへと招かれグリーンのソファへ腰掛けた。
部屋の中を見渡せば、どこか雑然としているように感じる。
不思議そうに視線を巡らせるジュリエットに気付いたギルバートは、恥ずかしげな表情を浮かべながら紅茶のカップを置いた。
「すまない……まだ片付いていなくて」
「いえ、大丈夫ですか? やはりローゼンイスタフ城との行き来は大変ですよね」
ノーザンキングスとの境界線であるヘルムスデリーと、ヴィーザルの拠点であるローゼンイスタフをギルバートは忙しなく行き来していた。いつ攻めてくるかも分からないノーザンキングスとの緊張状態は、そのままギルバートの疲労にも繋がっているのだろう。
庭の雑草も部屋の散らかりも、彼が此処で暮らしているのだという証拠だ。
ジュリエットは彼の負担を少しでも軽くしてやりたいと頷く。
草むしりぐらいであれば、一人でも出来るし。何よりこの無辜なる混沌では『王女』ではないのだ。
王族としての矜持は胸にあれど、他の人と変わらないイレギュラーズである。
だからこそ、ギルバートと共に歩む事が出来る。
「ギルバートさんは少しお休みになってください。私は庭の草むしりをしてきますよ」
「君にそんな事はさせられない」と言い終わる前にジュリエットは彼の顔にクッションを乗せる。
そのまま大きなソファに押しつけられたギルバートはクッションを胸の上に置いた。
こういう時のジュリエットは意外と強情であるとギルバートは知っている。
「大丈夫ですから。そんな疲れた顔をしていては村の人達も心配してしまいます」
「すまない、ジュリエット」
「ふふ……ゆっくり休んでください」
ソファの弾力を背中で感じた瞬間、ギルバートは猛烈な眠気に襲われた。
瞼が自然と降りてきて持ち上げるのに随分と苦労してしまう。
リビングから出て行くジュリエットの背すら追いかける事が出来なくて、ギルバートは意識を落した。
玄関のドアが開いた音にギルバートは微睡みから僅かに浮上する。
全身を覆う疲労感とソファの心地よさに身を委ねたまま、夢と現実の狭間を揺れていた。
「ふふ……」
小さな笑い声の主はジュリエットだ。
そういえば少し荒れてしまった庭を手入れしてくれていたのだとギルバートは思い出す。
本来であれば客人であるジュリエットにそんな事はさせられないと断るのだが、積み重なった疲労がそれを許してはくれなかった。
今もまだ起き上がるのが億劫でジュリエットの柔らかな気配を耳で感じ取る事しか出来ない。
「よく寝ていらっしゃいますね。少し肌寒いでしょうか」
優しい声が足下の方から聞こえ、柔らかなブランケットが身体の上に掛けられた。
じんわりと広がるブランケットの温もりが再びギルバートの眠気を誘う。
ふと、気付けば指先がジュリエットの手の中に握られていた。
気遣うようにソファに同じ腰掛けている彼女の手を握り返そうとしても思う様に身体が動かない。
けれど、ジュリエットになら無防備な姿を晒しても大丈夫だと思える。
其れよりも彼女が傍に居てくれる心地よさは余計に眠気を誘った。
ジュリエットの柔らかな気配は何よりの子守歌なのかもしれない。
彼女が動く気配に合わせ、ソファが重みで沈む。
ソファに寝転ぶギルバートをおそるおそる覗き込むジュリエット。
白く美しい髪が窓の外から入り込んだ陽光に煌めいた。
ジュリエットの長い髪がギルバートの頬を流れ落ちて行く。
「……貴方のお誕生日に、ガーベラを三本贈りましたよね?」
嫋やかな彼女の声が耳朶を擽る。目を閉じたまま微睡むギルバート。
三本のガーベラは叔母に魔法を施してもらい、まだぬいぐるみと一緒に美しい状態で飾ってあった。
ジュリエットから貰ったものだから大切にしていたのだ。
「意味は内緒だと言ってしまいましたが、花言葉があるのです」
柔らかな髪が首筋に落ちて来て擽ったさで眠気が遠のいた。
「ガーベラの花言葉は……『あなたを愛しています』」
余韻を残して告げられた言葉。心からの想いが込められた祈りだ。
「貴方が私に優しくして下さる度に、少しずつ降り積もった想いを形にしてみましたが、貴方の前ではどうしても勇気が出なくて言葉には出来ませんでした……」
小さく漏れた吐息は苦しげで、ジュリエットの瞳は僅かに潤んでいる。
いっそのこと、この想いを行動に表した方がいいのかとジュリエットは考えた。
間近にあるギルバートの顔。疲労から瞳は閉じたまま眠っているのだ。
整った顔立ちと長い睫毛、優しい言葉を紡ぐ唇に目が止まる。
「…………」
自分の心臓の音がどんどん大きくなっているのを感じるジュリエット。
崖から飛び降りるような覚悟をして、そっと目を閉じた。
ゆっくりとジュリエットは顔を近づける。
近づくほどに胸は高鳴り、同時に罪悪感が心の隙間に差し込んだ。
どうか、まだ目覚めないで――
顔の直ぐ近くで彼女の吐息を感じ、ギルバートはそっと目を開けた。
「……ジュリエット?」
鼻先が触れそうなほど近くにジュリエットの顔が見える。
「ぁ……、えとその」
酒を飲んだ時のように真っ赤に頬を染めたジュリエットをギルバートは優しく撫でた。
「大丈夫、呼吸はしているよ。心配させてしまったね」
疲れた顔でジュリエットを支えながら上半身を起こした青年は微笑みを浮かべる。
「もう、庭の手入れをしてくれたのかい? ありがとう、とても助かるよ」
真っ赤な顔をして俯いているジュリエットを覗き込むギルバート。
「もしかして外は寒かっただろうか? すまない気付かなくて」
ギルバートは自分に掛けられたブランケットをジュリエットの肩に掛ける。
「……いえ、大丈夫です。それよりお部屋の方も片づけましょうか」
肩に掛かったブランケットを折りたたんでジュリエットはソファから立ち上がった。
ギルバートの視線から逃げるように片付けを始めるジュリエット。
床に置かれたままの防具や装束をわかりやすい場所に移し、旅の荷物を解く。
不要なものを分けて紐で結び、残りは整頓して荷物の中へと戻した。
「あとは、部屋のお掃除ですね」
手際よく片付けている内に顔の熱も引いていた。
ジュリエットの背を見つめ、ギルバートは頭を抱える。
ガーベラの花言葉も、ジュリエットの愛の祈りも、近づいて来る体温と吐息も全部覚えていた。
あのまま唇を受入れることも、抱きしめてしまうことさえ出来たのだ。
けれど、ギルバートはそれらを『無かった』ことにした。
もし、愛の言葉や口付けを受入れてしまえば、後に戻れないことを自覚しているから。
自分自身の独占欲や想いの強さを知っているから。
大切にしていた従姉妹を亡くした悲しみの裏返しだ。
今度こそ『大切な人』を失いたくないという想いがある。
それはジュリエットにとって鳥籠に囚われるようなものなのだ。
イレギュラーズである彼女を雪深いこの地に閉じ込めてはいけない。
美しい虹の姫は柔らかな笑顔で世界を救う存在なのだから。
――けれどもし、君が傍に居てくれるのなら。
この命に代えてでも君を護り抜くと誓おう。
だから。今はただ、何処にも進めぬこの微睡みのような心地よさに浸かっていたいと思うのだ。
束の間の幸せだったとしても、彼女の笑顔があれば乗り越えていける。その面影だけで十分だから。
自らの手で閉じ込めてしまわぬように。
まだ、離してあげられるように。