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煌水の夜に
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学生達が夏の長期休みを謳歌する頃、澄原病院も入院患者のケアは続けるが一般診療は休診となる。
夏休みはちゃんと休暇を取るのだという晴陽は「どこかの働き過ぎの探偵さんにそれこそ見本を見せるように」と敢て天川を揶揄うように胸を張った。
「はは! 先生も言うようになったじゃねぇか。よし。いいだろう。この際どちらが休暇を満喫できるか勝負と行こう」
「その勝負、引き受けました」
何故か『休暇満喫勝負』の為に数日間を互いの為たい事を満喫しようと天川は提案した。晴陽は「勝ちを狙います」と自信満々である。
その様子も従妹に言わせれば『遊園地になど行こうものなら頭にキャラクターのカチューシャを付けて張り切っていそう』な程であったらしい。
天川が誘ったのは希望ヶ浜で若者達が集うナイトプールであった。その理由も、喧噪の最中にあるシレンツィオリゾートに迎えなかったことに起因する。
リゾート地であり、遊びに出掛けるアクティブさを有している水夜子とは対照的に澄原の跡取りとしての意義をよく考え、練達から出る事の少ない晴陽は『危機が去ってから』と天川と約束していたのだ。
「先生、休暇に一緒に遊びに行く件だが、お互い案を出し合わないか? 俺の方はシレンツィオリゾートの予行演習も兼ねて先生とプールで泳ぎたいと思ってるが……どうだ?」
「プールですか。ふむ……」
「先生は普段デスクワークが中心だろうし、運動をしてストレスを発散するのは良いと思うぜ。先生が泳げないなら指導しよう」
「お、泳げま――ます」
泳げるか少しばかり自信を逸したのは晴陽が天川の言う通りデスクワークばかりを為ていたからだ。学生時代ならばいざ知らずプールに入水する機会も減ってしまった現状では満足に泳げると言い張れる自信さえなかった。
そんな様子が愉快に感じられて天川は唇に笑みを浮かべる。突然自信を消失した晴陽は面白がられたと感じてはっとしたように彼を凝視した。
「はは、勿論、遊びに行くんだ。辛いことを無理にする必要もないし、泳がなくとも水遊びする感じでも構わない。
プール以外も楽しめるよう立食や一杯やれるナイトプールを物色しておく。エスコートは任せてくれ」
「……泳げますよ」
「それは楽しみだな」
当日、泳がなくてものんびりとするだけで構わないと天川は当日を楽しみにしていると晴陽へと告げた。
――因みに、プールへ行くと提案されて晴陽は「水着を買いに行きましょう」と提案したのはまた、別の話なのである。
希望ヶ浜に存在するホテルの屋上に存在するプールは夏季限定でナイトプールを利用する事が出来るらしい。宿泊者とホテルのフィットネスジム会員など限られた人間しか入れないその場所は其れなりの身分を有する者が多い比較的落ち着いた場所であった。
天川は晴陽の職業柄や彼女の身分――澄原財閥の令嬢であり、澄原病院院長――を考え、出来る限り品のない客が少なく信頼できる施設を選んでいた。
とは言えどもナイトプールだ。酒も入れば気分も高揚する。その様な場所であれば晴陽のような器量良しの娘には紳士的なお誘いも幾らか来るだろうと踏んで居た。
彼女の事を其れだけ考えた上での『エスコート』だ。天川は無精髭を剃り、普段の着崩したスーツではないかっちりとした装いで晴陽をホテルエントランスで待っていた。
「よぉ、先生」
「……こんばんは」
「どうした?」
やけに凝視してくる晴陽に天川は瞬く。一体どうしたのかと考え倦ねて、癖のように掌をおとがいに添えて――ふと、気付いた。
「ああ、髭か」
「……はい。驚きました」
場所を選んでるんだと揶揄うように笑った天川は「こっちだ」と歩き始める。晴陽は頷いてから天川の後を着いて歩いた。適度な距離感がそこには存在している。
エスコートと言えども腕を組むわけではない。段差などがあれば手を貸すこともあるが多くの接触を行なう事が無いのはある程度の礼儀のようなものだった。
天川からすれば晴陽の嫌がることはしないというのが自身のスタンスだ。あれやこれやと世話を焼きたくなってしまうが、自身がそうする事で晴陽が気にする事はよく理解していた。今日はあくまでも彼女のペースに合わせて休暇を『
天川の背後を歩きながら晴陽はふと、気付く。初めて会った頃と比べれば彼に染み付いた煙草の香りが変わっているようにも感じられたからだ。
晴陽の印象では天川はヘビースモーカーだ。それもかなり強めのものを吸っていたと認識している。
「天川さん、煙草の銘柄変えられましたか?」
「よく気付いたな。初めて会った頃とじゃ違うものを吸ってる。練達製も案外馬鹿にならないな」
煙草を好んでいた天川を妻の晶は好きだった。無精髭に煙草を吸う姿を好んでいた晶が妊娠した際に天川はぱたりと煙草を止め――其の儘であったそうだが、晶は「別に良いんですよ」と拗ねていたらしい。
もう一度吸い始めたのは晶と息子を失ってからだ。その時には心の穴を埋めるために強めの煙草を吸っていたのだが、最近は澄原病院に訪れる機会も多くなり煙草の銘柄を変えた。
「先生に匂いが移っちゃ困るだろう?」と天川が告げれば晴陽は驚いたように瞬いてから「そんな、気を遣って頂いて」と肩を竦めた。医者である晴陽は煙草の移り香は患者に好まれないことを知っている。仕事の話しでも病院に訪れる機会が多いからだろう。そうした気遣いが喜ばしいと同時に、何処か申し訳なくも感じられて。
「……お好きな銘柄を吸って下さいね」
「ああ、いや、此れも案外良い物だ。香りもそう目立たないしな」
好んで変えたから気にするなと付け加えた天川に晴陽は「それならいいのですが」と呟いた。自身が起因して気を使わせてしまっているのならば悪い、と考えたのだろう。
「それじゃ、先生。後でな」
「はい」
プールで泳げると言い放った晴陽は、水に入ることも少し戸惑っている様子であった。詰まり、余り慣れていない様子である。
揶揄うように笑ってから「少し水の中を歩こうか」と天川は提案した。休暇もあと少しだ。晴陽が提案した体験や遊びも色々とある。
例えば、遊園地に行きたいと提案する晴陽はどうやらアトラクションではなくゆるキャラのパレードを目的としていたようだった。次は美術展に向かいたいとも口に為ていたか。
そうした話を為てやろうと考えながらも――ふと、晴陽を見れば何かを言いたげな雰囲気を醸し出している。いまいち、話し出すのにも戸惑う彼女だ。
人との距離感を図りかねている以上に、自分が誰かに踏み込む事を戸惑っている節もある。こうして休暇を共にするようになっても仕事仲間という枠組を無理矢理にでも当て嵌めようとしているのだ。
「……ああ、そういやな! 先生! むぎの奴が近所の子供らに大人気でな。ありがたいことなんだが、相手をするんだが、これが中々大変でな」
「むぎちゃんがですか?」
「そうだ。先生が可愛い服をくれるだろう? 其れを着せてリードを付けて散歩してるんだ」
リードを付けて犬のようにてこてこと散歩をするむぎを天川の探偵事務所の近所に住む子供達が取り囲み、代わりに散歩をしてくれる程になったと言う。
可愛らしい着ぐるみやリボンを付けたむぎは子供達に大人気だというのだから晴陽は其れだけで何処か誇らしげである。
「昨日は長期休暇でしたから、子供達は来ていなかったのですね」
「ああ、そうだな。学校が始めれば放課後に顔を出して散歩してくれる。ある意味助かってるぜ」
子供達も旅行に行っているのでしょうねと頷いてから晴陽は「休暇と言えば」ともごもごと小声で言った。
「……その、休暇勝負と言って提案してしまいましたが、ご迷惑ではありませんでしたか?」
「迷惑? いきなりどうした。そんなわけないだろ」
「いえ。その……数日、ご一緒して頂いてますし、また美術展にも行きたいなどと提案してしまいましたし」
一人で行くことも出来る事であるのに自身の趣味を押し付けて申し訳ないと晴陽は肩を竦めた。天川は成程、と笑う。
晴陽が考えそうなものだ。天川の妻・晶に言わせれば「男の人は素直であるべきですよ! 天川君!」だ。彼女には様々な事を学んだ。
女性への接し方からファッション、様々な事を教えてくれた晶の言葉がなければ反応の仕方も分からず戸惑っていたかも知れないと小さく笑う。
「美術展か。確かに余り向かう場所ではなかったが、希望ヶ浜の画家がどの様な芸術を作るのかは興味がある。
それに、その後はカフェか夕飯も一緒してくれ。みゃーこを呼んでくれても構わない。夕飯なら一緒に酒でもどうだ?」
「はい。お酒の席なら水夜子はまた今度、ですね。美味しい銘柄も教えて下さいますか?」
ほっとしたように晴陽は胸を撫で下ろした。美術展に着いていく代わりに酒の相手になってくれ、と告げれば彼女も納得してくれるだろうと踏んでいたからだ。
他愛もない会話を繰り返す。遊園地で見たゆるキャラパレードは今回の夏限定である話しや、マスコットキャラクターが妙にぶさいくである話し、それから――
休暇満喫勝負という建前ではあるが、思う存分に楽しめている。勝敗はどの様にして決着を付けるか決めては居ないが最後の最後になれば勝負などなかったことになる気さえしてくるのだ。
「疲れたな。少し休憩しよう」
「そうですね。プールでのウォーキングも良い運動になります」
浮かんでいる時間も合ったが、光に誘われて晴陽があちらこちらにざぶざぶと歩いて行く光景を天川は面白そうに見守っていた。
浮かんでいたライトボールを突いてから浮き輪に手を掛けてふわふわとあちらこちらに行くのだ。興味をそそる物にふらふらと誘われていく様は幼い子供の様にも見えた。
プールから上がる際に手を貸せば、晴陽は臆することなく手を重ねた。手すりに手を掛けて、プールサイドへと身を持ち上げた晴陽をベンチへと誘ってから天川はタオルを手渡した。
「飲み物を取ってこようか。先生、少しばかり待っていてくれ」
「はい」
ベンチに腰掛けて待っていると手を振った晴陽に天川は出来るだけ一人にしないようにと近場のウェイターに声を掛けてドリンクを注文する。
周辺の人影を眺めながら天川は晴陽から目を離さぬようにと振り返った。
『待っていてくれ』と言われればその場で待って居るタイプだ。何事か誰かの視線を感じても、その場所で待っていてくれるのが澄原晴陽という女だと良く分かる。
だからこそ『想定した』現場に鉢合わせる可能性は十分だった。
「お一人ですか」
カクテルグラスを手にしていた青年は晴陽の前に立ち穏やかに笑みを浮かべる。ぱちりと瞬いてから晴陽は「はい?」と首を捻った。
「宜しければ、話し相手になって頂けないかと思いまして」
「……その……」
青年が手を差し伸べて晴陽を誘うように立たせようとする。困惑する晴陽はどうしようと視線のみを右往左往させながら青年に「あの」と口を開きかけ――
「失礼」
そっと晴陽の手を取って、青年と晴陽の間にゆったりと割って入った天川は穏やかな声音で声を掛けた。出来る限り威圧感を与えぬように、そして一目で周囲が理解出来るように心を配りながら青年に微笑みかける。
「今日彼女は1日私の貸し切りでしてね」
「ああ、そうでしたか。申し訳ない」
肩を竦めた青年に天川は首を振った。勿論、こうなることは想定済みだ。戸惑う晴陽は天川の背中を眺め、おずおずと俯いた。
斯うしたときどの様に反応をするべきなのかを晴陽は良く分かっていなかった。澄原の令嬢であると言う自身の身分を出せば、周りは気を遣うだろうが其れは本意ではない。
折角立場も何もかも気にせず遊びに来ているのだから、只の『晴陽』としてどの様に反応すべきであったのか。思考回路が深みに嵌まっていく晴陽に気付いてから天川は青年に首を振った。
「いいえ。お気になさらず。一緒にいる私が言うのもなんですが、彼女はとても美しく、聡明な女性ですからね。気持ちは分かりますとも。それでは」
礼儀正しく挨拶をし、晴陽の元を振り返った天川は「晴陽、行こうか」と声を掛けた。
「へ」
斯うした場所であるからこそ『先生』呼びではなく名前で呼びかけたと言う事を咄嗟に理解した。咄嗟に理解した――が、驚きの余り声が漏れたのだ。
「天川さん」
「どうした?」
「あ、いえ。ドリンク、有り難うございます」
手を引かれて、少し場所を移動するときに晴陽は感情の置き場所が分からないと視線をまたも右往左往させた。
此れまでの人間関係でも呼び捨てにされる機会は少ない。心咲や詩織ははるひめ、はるちゃんと呼んでいた。暁月も晴陽ちゃんと呼びかけてくれていた。基本的には澄原先生や晴陽さん。人間関係で壁を作ることが多かった晴陽にとって、名を親しげに呼ばれる機会は少なかったのだ。
それでも。不快ではなかった。寧ろ、今後もそう呼んで貰っても構わない。寧ろ、彼から見てそう呼んでも良いと思って貰える程度に仲良くして貰えているのだろうと少しばかりベクトルのずれた感想を抱きながら。
勿論、大人同士だ。そうした距離を詰めることは中々難しい。その様な言葉を晴陽は口にすることなくカクテルグラスに飾られていた花をつん、と指先で突いた息を吐いた。
「晴陽、どうだ? たまにはこういう所も悪くないだろう?」
「……はい」
目を細めて晴陽は笑った。彼女が笑った事に驚いたのは天川の側だ。表情がよく現れるようになったが、穏やかに微笑むというのは多くはない。穏やかな笑みを浮かべて「楽しいですね」と頷いた晴陽に驚いたように瞬いてから天川は「それならよかった」と咳払いをした。
気付いた頃にまたも『先生』呼びに戻るのかも知れないが、一先ずは友人関係のようにフランクに名を呼んでいて貰おう。特段、その呼び名にコメントをしなければ自然と定着する可能性もある。
ふと、見上げた夜空は美しい。だが、それもセフィロトドームないの再現性東京という『作られた空間』での話しだ。
「ドーム内ってのが信じられんな。綺麗なもんだ……」
ドーム内という言葉に晴陽はふと、思う。此れは人造の世界。決して自然物ではない。
「セフィロトドームの外には、同じように星空が広がっていますよね。
管理された空調ではない、自然の空気と共に美しい風景。人の手も加えられぬ風景が……」
「ああ、そうだな……」
「……何時か、見に行けると良いですね。天川さんと、私と、皆さんで……」
外に不慣れである己は夜をも恐れてしまう可能性さえある。戦う術を持たない己が外に出れば彼に負担をかけてしまうかも知れない。
そう、思いながらも『何時か』を期待せずには居られないのだ。彼や、沢山のイレギュラーズが見てきた星空を共に見られる日を――