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今日は月が綺麗ですね
登場人物一覧
走る、駆ける、飛び出していく。
息も絶え絶えに、外聞なぞ気にせずにフォームは崩れたまま。
夜空の星も雲に隠され、ビル群の合間には月の光も届かない。
「はぁ……はぁ……」
切れかけた電灯は、足元も照らしてくれないか細い光点にしかならず。
チカ、チカ。
と、今にも絶えそうな生命は己の今を表してそうだと。
「なんだってんだ……なんだってんだ……!」
転び、起き上がった男は思わず声に出して現状の鬱憤を晴らそうとす。しかし、それがどうにもならないという事もまた、理解はしている。
「ど、どうにかして、誰か人の居る所へ……なんとか撒けたんだ、このまま……」
最早自分の思考が言葉となり零れ落ちている事さえわかっていない。帳も下りたばかりの夜では、まだ明けも遠い。隠れるにせよ逃げるにせよ、己の居場所を教えるというのは愚行の其れでしかないというのに。
「誰も居ねぇ……人っ子一人……表に出てタクシー捕まえるか? はぁ……でも、表に出て見つかったら、アイツの仲間が待ち構えていたとしたら。これだきゃあ、捕られる訳には」
幾度、足がもつれて転んでも、逃げる時に邪魔だったとしても、決して離さなかったアタッシュケース。
「はは、ははは……無事に持ち帰れば、俺は、俺の家族は安泰だ、守って貰える! 薄汚ぇ正義面した公僕共に鉄槌を与えてくれる!」
あぁ、言葉というものは力が宿る。信念というものには強さを育んでくれる。
此処まで下を向き、泣きそうだった男の顔に活力が戻る。
家族の為、正義の為に己は
「(気づけば知らない、奥深い所まで来てしまった。冷静になろう、先ずはここが何処だかを知る必要がある)」
開発地域であるのか、行き止まりも多く道も途中で止まっている事が多い。
途上であるが故に舗装も甘く、表通り程の整備がされていないのだろう。
幾分か冷静になった男が、足を止めて深呼吸を行い、此処に居ては逃げる事もままならないと、一旦引き返そうと振り返った。
先の暗い、道の元へと。
「生きて帰るんだ。家族が待っている」
●
善い者も居れば、悪い者も居る。しかし度合いはあるものだ。全てを善いとされる者なんて居らず、何処かで黒い気持ちを抱くのも当たり前の事。逆に、真っ黒な悪人であっても、一欠片の光はあるものだ。幸福になりたいと思う気持ちまで、取り上げる必要は無いとも。志屍 瑠璃、彼女もまた、それに漏れない生き物だという自覚はあった。
此処までならば、特段おかしい所も無い、一つの考え方で済ませられるだろう。
しかし、瑠璃は、彼女のこの世界で行使する『お役目』は違う。
必要であれば奪う。
善人と呼ばれる聖者でも。
悪辣と囁かれる犯罪者でも。
依頼とあれば手にかけることも厭わない仕事人。
生きて欲しいと願っても、改心して欲しいと思っても、それが必要ならば殺す。
自身の心とは関係なく奪うのだ。
正義も悪もそこには存在しない。ただ、生命のやり取りがあるだけ。
今日も一つ、命を散らす一刀を振るう。
「こんばんは。こんな所で奇遇ですね」
●
「生きて帰るんだ。か「こんばんは。こんな所で奇遇ですね」る……」
吸い込まれるように暗い闇。決意の言葉に被さる声。
男の瞳が震え、先程までの意気があっという間に萎んで消える。
靴がコンクリートを叩く音は、此方へ近づく度に大きく響く。暗闇のカーテンを通り、視界に女の姿が映る。不思議な事に、向こうも同じ条件の筈なのに、しっかりと男の位置を把握している様で、静かな、でも逃がさないという視線が、動く事も許されぬ鎖となって身体を縛っていた。
「よ、よくここがわかったな」
ブレを隠す為か、自然と声量も大きくなる。それでも、誤魔化せないほどに男が恐怖の色に塗れている事を、瑠璃は手に取るように理解出来る。
「えぇ、こんな静かな道で声を上げていれば、案内して頂けているのかと思っていましたが」
違いない。と、巫山戯たジョークに肩を竦めるも、アタッシュケースを背にしながら半身で立っている辺り、ある程度の平静は取り戻している。
「目的はこれ、だろう?」
「えぇ、それも回収対象ではありますね」
自分は捕縛か、処分か、どちらとも判別つかない言葉だが、男に今それを判断する余裕は無い。なれば、考えるべきは最悪のパターン。つまるところの、命を奪われ処理されることだ。
「取引がしたい」
瑠璃にとって、その命乞いは想定内であり、手に触れていた刀から僅かに力を抜くには足る言葉であった。何故なら彼女は、人の善性を、欠片の光を無にしたくはないのだから。
「……何でしょう」
「これを渡して、見逃されたとしても俺は、俺の家族は組織に殺されるだろう。全て話す。知っていること、組織の内部のことも全部だ。だから、保護して欲しい。そして家族を救って欲しいんだ」
一部は真実であり、殆どはでまかせ。彼が信奉していた組織の内部の情報なんて持っていないし、なんならこのケースの中身も大層な兵器と同じ位の被害が出せるであろうものとしか聞いていないのだ。
しかし、家族の存在は本当だ。このミッションが終われば、妻と子供の元へ戻り、従順な兵士として憎き■■と戦うつもりでいた。
「投降する、と。そう言いたいのでしょうか」
反応した。瑠璃の表情は読めないが、男にとって、無下に一蹴されないだけでも希望の糸を手繰り寄せたも同じ事。
「そ、そうだ、このケースには鍵が掛かっている。そのパスワードを知るのは俺だけ。誰かに取られる事なんてさせない為に、俺がパスワードを設定したんだ。ボスでさえ知らない。どうだ、これの中身が欲しいんだろ? だから、妻と子供の救出を手伝ってくれ!」
早口で捲し立てるように、兎に角
「…………」
静寂の中、男の息する音だけが耳に残る。
カチャリ。
常に離さなかった刀の柄から手を離した瑠璃。
(勝った……!)
ハッタリでもなんでも、この場を
後は瑠璃が油断した隙を狙って、ケースを持って逃亡すれば良い。昼はなるべく人通りの多い所に誘導できれば、その場で斬り捨てられることもないだろう。なにより。
(パスワードが俺しか知らないという設定なんだ。簡単には殺せない)
悪運は己に味方した。
無事に帰還して、このケースを持ち帰れば、組織はきっとムカつく正義面した公僕共に、本当の正義という名の粛清を与えてくれるに違いない。
あぁ。
今になって月が出てきやがる。
だが構わない。これは勝利の光が俺を祝福してくれて──。
あれ。
なんで、俺……こんな天を仰いで。
●
「やはりデコイでしたか」
一振で腰から上を地に落とし、飛び跳ねた血を拭ってケースを開ける。
「此処まで本物と植え付けられ、年単位で逃げ回させる。追いかける者に本物と思わせる為、先ずは当人を騙した、と」
暫く前に壊滅させた製薬会社に扮した組織が、足を掴ませない為に囮を含めて各地に逃げ続けろと指示したと聞く。
既に消えたとも知らず、全てを聞き及んでいた瑠璃に交渉を挑んでいた訳で。
「さて、次へ──」
大型の工業用カッターを起動させ、血液を付着させる。
立ち入り禁止の看板を元に戻してその場を去る。
彼女の意識は既に彼に向けてではなく。
次のターゲットに向けられていた。
おまけSS『日を拝む事もなく』
あの時、全ての事情を理解していた私は、男の言葉を聞く必要なんて無かった。
任務の内容は、関わる者全ての抹殺であり、斬れば終わり。その場で時間を費やすリスクの方が大きかった。
それでも、それでもだ。
「あの家族を救いたかったという想いは本当だったのでしょうか」
件の依頼、その依頼者連名の名簿の中に、男の性と同じ苗字をした青年の名を確認し、そっと閉じる。
「行きましょう。次の仕事の時間です」
立ち上がり、部屋を後にする。