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雨、雨、わたし達の心を濡らして
登場人物一覧
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わたしは、――実弟に、恋をしている。
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幼いころからずっと、わたしたちは一緒だった。
一緒に食事をして。
一緒に遊んで。
いつだってわたしと弟――テンマは、一緒だった。
わたしはお姉ちゃんだから、テンマを護らなきゃ。
ずっとそう思っていた。
テンマは小さい頃は気弱で、よく近所の子の闘技ごっこに巻き込まれて泣いていた。
其の度にわたしが追い払って「もう大丈夫だ」とテンマの頭をそっと撫でていた。
この子を護るんだと。
わたしが護るんだと。
掌中の珠のように大事に大事に護るんだと、そう思っていたの。
けれど、ある日の事だった。
闘技ごっこに巻き込まれたテンマを助けようと、わたしが前に出た時。相手の子の手が頭に当たって、わたしは倒れ込んでしまった。
打ち所が悪くて、わたしは頭がくらくらとして起き上がれなかった。
――其の瞬間、テンマの雰囲気が変わった。
「……姉ちゃんになにすんだお前!!」
其の子に殴りかかるテンマを見て、わたしは。
ああ、テンマが危ない。
そんな事を思いながら、意識を失った。
わたしが護ると誓ったのに。
……わたしの、たった一人の弟なのに。
そんな後悔を握り締めながら、闇の中を漂っていた。
――姉ちゃん。
闇の中で。
そう、テンマが泣いているのが聞こえたの。
泣かないで。
笑って。
テンマ、泣かないで。お姉ちゃんが護るから。
――重い瞼を開くと、泣きそうな顔をしたテンマがいて。あの子は開かれたわたしの瞳を見るなり、わんわんと泣きだしてしまって。
護られてしまったという後悔と。
其の心まで護らなければならないという誓いが。
其の瞬間、わたしの中で、しっかりと根付いたのだった。
……まるで、呪いのように。
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あれから数年が経ち、テンマはあっという間に私の背丈を追い越して。
気付けばわたしが護られる側になってしまった。
泣いていたテンマはもういない。いるのは、わたしをただただ慕う弟だけ。
「テンマが好きだ」
いけないことだって、判っていたの。
でも、わたし達は世界で二人きりの姉弟だから、手を取ることも出来た筈なの。
けれど、――わたしには出来なかった。
テンマの事を“護るべき弟”だと見過ぎた所為で、何処か臆病になってしまった。
彼を護る姉であれ。そんな呪いがわたしの身を竦ませた。
この手を取って、わたしが護られるばかりになったら?
テンマを一体、誰が護るというの?
それが出来るのはきっと世界でただ一人、わたしだけの筈なのに。
――だから。
テンマの手を取る事は、出来なかった。
其れでも彼は諦めなかった。好きだと、愛していると、時折ふと呟いてはわたしの心に甘く爪跡を残していく。
わたしも君が好きだと言えたら、どれほど幸せだったろう。
けれど、呪縛がわたしを縛り付けて離さないの。
わたしは君のお姉ちゃんだから。
――だから、テンマを護るただ一人でなければならない。
護られる側には立てない。立ちたくない。
だって、たった一人の家族なのだから。
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テンマはわたしの手を取ろうと足掻いて。
わたしはテンマの手を傍に置いたまま。
そうしてわたし達の時は過ぎようとしていた。
――その日は雨が降っていた。
「リョウ、大丈夫か」
「ええ」
いつから君は、わたしを名前で呼ぶようになったのだろう。
姉ちゃん、と呼んでくれたあの日が蘇る。
――あのまま「姉ちゃん」と呼んでくれていたら。
こんな慕情を抱える事も、なかったのかもしれない。
二人で宿に駆け込んで、雨水を払う。
テンマは髪を軽く振るうだけで身体を拭おうとしないから、わたしはそっとハンカチを差し出した。
「テンマ、これ」
「え?」
こちらを向いた彼は間違いなく、男の人で。
其れでも私は姉の顔をして、テンマにハンカチを差し出した。
「使って。振った程度じゃ水は取れないわ」
「……いや、そっちが先に使えよ。風邪引くぞ」
「濡れたのはテンマもでしょ」
「そうだけど。俺は男だから、ある程度はそっちより丈夫だ」
そう。君は随分と丈夫になった。
なってしまった。
判っている。でも、其れでも、君にはわたしの弟でいて欲しかったの。いて欲しいのよ。わたしは君のお姉ちゃん。君は私の弟。そうであって欲しかった。
――ハンカチが行き場を探している。仕方なくわたしは己の腕を拭った。思ったより濡れていたから、ハンカチはあっという間に湿って行く。
テンマが扉を開いて、宿の店主に声をかける。
わたしは余り人の顔と名前に興味が無くて、覚えていなかったけれど――テンマはそうではなかったみたいで、宿の主人とは知り合いみたいだった。
外で雨に降られたと彼が説明し、幾つ部屋を用意するかと問われたとき。
勝手に唇が動いていた。
「一部屋で良いわ」
……。
何を言ったの、わたし。
テンマと同じ部屋で良いって、いま?
信じられない、という眼でテンマがわたしを見ていた。
そんな眼で見ないで欲しかったけれど、少し安心もしていた。
君でもそんな顔をするのね。あんなにわたしの事を愛していると言ってくれているのに。
「いや、二部屋で良いだろ」
「お金が勿体無いし、わたし達は姉弟だから良いでしょ。店主さん、一部屋でお願い」
「良いのかい? リョウちゃん」
「ええ」
「……」
判らない。
自分で、自分の心が判らない。
ただ、――もう良いんじゃないか? と誰かが囁いていた。
もうテンマは立派な男性で。
わたしが無理に守ろうとする必要はなくて。
良いんじゃないか、身を任せてしまって良いんじゃないかと、悪いなにかが囁いて、わたしを思考の船に乗せて、そっと船は暗夜を進んでいく。
――そう。暗夜を行くかのような心地だった。
ただ一つ輝く月は、テンマの言葉だけ。わたしを好きだと言いながら、其れでも姉として扱う事を忘れないでいてくれた君の言葉だけだった。
わたしはずっと、“姉として”と“女として”のわたしの間で揺れていた。姉としてのわたしが言う。テンマを護ると誓ったんでしょうと。女としてのわたしが言う。もう、テンマに護られても良いんじゃないかと。寧ろ彼の好意を受け入れる事こそが、彼の心を護る一助になるんじゃないかと。
ちゃり、と手の中で遊ぶ鍵は一つ。
其処に多分、わたしの迷いが煌めいている。
「行きましょ、テンマ」
「……」
彼は何も言わなかった。少し、怒っているようだった。
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沈黙が気まずい。
わたしはうるさいより静かな方が好きだけれど、其れでもこの棘のような沈黙は少し怖い。テンマが一体何を言うのか判らなくて、何かしていないと落ち着かなくて、ただタオルで水分を拭っていた。
――ああ、駄目。義眼の奥まで水分が入り込んでいる。
わたしは自分の中で適当な理由を付けて、立ち上がった。
「シャワー浴びて来るわね」
姉としてのわたしに決別出来るかどうかの瀬戸際で、わたしは僅かに怖気づいていた。そっと立ち去ろうとすると、ふと引っ張られるような感覚がした。……テンマが、わたしの手首を掴んでいた。ぎりり、と強めに握られて痛い。……ああ。君は、力もこんなに強くなったのね。
「なんでだよ」
苦し気に、彼が言葉を吐き出す。
「何が?」
わたしは、苛々しているふりをする。
だって、一部屋にしたのは“部屋代が勿体無いから”だから。だからわたしも、苛々しているふりをしなければならなかった。何より、互いに風邪を引かない為にも。
「なんで一緒の部屋にしたんだ」
「なんでって……お金が勿体無いからよ」
二部屋借りたら、二倍要るでしょう。
よくもまあ、回る口だと思う。わたしは昔から、理論立てて話す事だけは得意だった。
わたしが君を試しているのだといったら、彼はどんな顔をするだろう。試さなくても、とわたしを抱き締めてくれるだろうか。……其れは嬉しくもあり、恐ろしくもあった。関係が壊れてしまうのが、変わってしまうのが怖い。わたしが君の姉でなくなって、今まで二人を繋いでいた絆が一つ、ぷつんと切れてしまうのが怖い。例え其の後に新しい絆を繋いでも、……其れがいつまでも続くものだとは、限らないのだから。
「だからって、男と二人で一部屋なんて」
「言ってるでしょ、わたし達は姉弟なんだから」
「俺は姉弟だなんて思ってない」
――言わないで。
言わないで、言わないで。テンマ。
わたしは君の姉でいたい。……わたしは、君の大切な人でいたい。
二律背反が揺れている。姉というポジションは、わたしをお手軽に“テンマの大切な人”でいさせてくれた。姉である限り、テンマはわたしを傍に置いてくれる。わたしはテンマを護る事が出来る。
けれどそうではなかったら? もしわたしがテンマの恋人だとしたら、……いつか来るかも知れない別離に怯えて暮らしていかなければならない。
傍にいたい。姉でいたくない。傍にいたい。
わたしは卑怯だ。いつだってそう。姉という身分に胡坐をかいて、テンマの好意に気付かないふりをしてきた。
そんなわたしに決別したくて鍵を一つにしたと言ったら、君はどうするの、テンマ。
彼の紅い蠍星みたいな瞳を見る事が出来なくて、そっと手を振りほどいた。
シャワーを浴びて来ると一言残して、部屋を出ていく。
「……」
君の姉でいられたら、ずっとわたし達は家族として一緒にいられる。
君の恋人でいられたら、君の愛を一心に受けてありがとうと笑う事が出来る。
其れは、どちらかしか選べない。
泣きたかった。泣けなかった。わたしにそんな資格はなくて、ただただ、わたしはテンマの気持ちから目を背け続けただけの卑怯な女で。
……ぱたり、と雫が廊下に落ちる。
雨だ。雨が、降っている。