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絆、重なって
登場人物一覧
「こうしてお兄様とゆっくりするのも久しぶりですね」
厨房に立ち朝食の準備を進めるリディアの嬉しそうな声が宿酒場【Bande†Fluegel】に響く。
月が空に顔を出せば、上等な酒と彼女の人当たりの良さに釣られた常連たちが賑々しく彩るこの場所も、今はリディアとフェルディンの兄妹二人きりだ。
「最近は幻想に鉄帝や海洋豊穣間のシレンツィオ、それに天義でもアドラステイアがきな臭くて休む暇もないからね。リディアと話す時間も中々取れなくて悪かったね」
可愛い妹との時間を作れなかった事を詫びながら持参した花茶葉の紅茶を淹れる。辺りに爽やかで甘い薫りが広がった。
「一度飲んでみた時に美味しかったから。リディアにも飲ませたかったんだ」
背中越しに受けても感じる兄のいつも以上に暖かい声色に妹は「ははぁ」と一人得心する。
フェルディンは一人の時は珈琲派だ。それを『飲んだ事がある』とくれば答えは一つしかない。
「砂糖は?」と聞いてくるフェルディンに誰と飲んだのか、等と野暮な事は訊かない。訊かないがせめてもの反抗として「今日は甘い物はもうお腹いっぱいです!」とリディアは答えるのだった。
「「頂きます」」
用意した食事の前で手を合わせ、齎された恵みに感謝する。子供から大人まで誰でも当たり前に行うそれだけの事である。しかし二人は元居た世界では王族であり、礼儀作法は幼い頃から教え込まれている。所作一つを取っても気品があり美しかった。
それは見る者が見ればまるで陽光に照らされた朝露の様な清廉さだと讃えただろう。
「それにしても、この世界の暮らしにもうすっかり慣れてしまいましたねえ」
食事中の会話は作法としてどうなのか、とも思えるがそこは兄妹水入らずである。綺麗に焼けたハムエッグをナイフで切り分け口に運びながらリディアは辺りを見渡した。
リディアが召喚時に身に着けていた装飾品を担保として借り受けたこの場所はいつの間にか彼女の『帰る場所』となっていた。
思えば今の『師匠』と出会ったのもこの一階の喫茶店内だった。
客も居らず持て余し転がしていた暇に飛び込んで来た金髪の麗人。
話の流れで『良ければ手合わせして頂けませんか?』と言い放ったのは若気の至りでもあったが、彼女と交わした多くの話の中で惹かれる部分があったのも確かだ。
――構わんぞ。骨の一、二本は覚悟して貰うがな。
手合わせにしては物騒な覚悟を要求され、望む所だと居丈高に応えたあの日も既に懐かしい思い出だ。それを慈しむようにリディアはテーブルを一撫でする。
『師匠』と呼ばせて貰ってからも多くを学ばせて貰ったし、今でもそうだ。尤も、色恋の方面でだけは何故か途端に初心になってしまうのでそこだけは誰に相談したものかと悩んだ時期もあったが。
不器用なその人は、不器用なりに誠実であり目標と出来る人物だ。
しかしそれだけでは駄目なのだと思える出来事もあった。
『決闘です!』と息巻いたのは他愛ない理由だったか、秋も去ろうとしていた頃だった。
ローレットと言う枠組みの中では人と人の付き合いと言うものは基本的に穏やかで優しいものだ。
そこに所属する者達は皆一癖あれど、仲間意識が強い。
ならば王女として不自由なく育ったリディアがその環境に馴染んでしまうのも仕方のない事だった。
だからこそ、その時の彼女は軽々と『決闘』と言う言葉を使ってしまったのだ。
相手が始末人である事を忘れて。
――甘い、な。
そう、甘かった。しかしあの決闘を経てリディアが逞しくなったのもまた確かであっただろう。
己の弱さと向き合い割れそうになる心を焼き鍛え鉄は鋼となった。
甘さを優しさと変え
「お兄様の方は最近、如何なんですか?」
気付けば混沌に召喚されてからの日々の思い出に耽ってしまっていたと自覚し、取り繕う様に兄へと問いかける。
「如何、とは?」
「如何とは、如何ですよ」
「ちょっと言葉の真意が読み取れないな……」
「何言ってるんですか決まってるじゃないですかクレマァダさんとの事ですよ」
余りにも直球な妹からの問いにフェルディンは飲みかけていた紅茶を零しそうになる。
撥ねた雫がティーカップに波紋を浮かばせ、そしてその波が自身の命を賭けてでも仕えたい者の顔を脳裏に浮かばせる。
――余計な事は言うでないぞ。
浮かんだのは明らかにそう言っている表情だった。
フェルディンは苦笑しながらさて、妹にどう話したものかと思案する。
彼女と自分の事は出来るだけ二人の間だけの事にしておきたい所でもある。
途方も無く広がる大海原に落ちる一粒の鯨の涙(52ヘルツの声)。海水に交じり消えるそれを現状見つける事が出来るのは己だけなのだと言う自負と責任を感じていた。
であればこそ話し相手が心から愛しい妹であれど、おいそれと話す事は憚られる事でもあった。
「そう言えば、この紅茶を初めて飲んだのも彼女と一緒にでね」
「それはもう知ってます」
「あれ? ボク話したっけ?」
「ええ、それはもう嬉しそうに」
おかしいなあ、と首を捻る兄を見ながら妹はその紅茶を一口啜る。
それに倣う様に、兄もまた一口啜る。馨しい花の薫りが鼻腔を擽った。
「そうだ、海洋の片隅に千果の泉と言う場所があってね」
香りで思い出したかの様に兄は妹に語り掛ける。
「此処もまた、クレマァダさんと行ったのだけど。紅葉の葉でその泉の水を掬って飲むと色々な味に変化するんだ。ボクの時は一口目は桃、二口目は柘榴、三口目はこの紅茶と同じ味だったんだよ」
凄い偶然だよね、と屈託なく微笑む兄にリディアはもう「御馳走様」以外何も言えないのであった。
「あちらは今、どうなっているのでしょうね……」
食後の束の間、兄妹二人の間に穏やかに流れた時間。そうするとどうしても考えてしまう事がある。
リディアの言うあちらとは、無論二人が元居た世界の話だ。
「なる様になる……と言うか、今ボクたちに出来る事をするしかないね」
リディアは既にこの混沌で二年、フェルディンに至っては五年の月日を過ごしている。
フェルディンがリディアから聞いた情勢や王位の継承については、二人が再会までに要した三年と言う年月だけでも相応に事情が変わっていた。
ならばフェルディンだけでなく、リディアまでもが消えてしまったあの世界は今、どうなっているのかと不安になるのも仕方のない事であった。
そしてその『事情』は二人が元の世界へ戻る事が出来るなら戻りたい。そう考える理由でもある。
だがその輪郭は今や……それこそ長い年月を掛けて徐々に削れ、削がれ、曖昧模糊な物となり。
反対に今いるこの世界への愛着、絆、縁が削れた部分を補う様に寄り添い、重みを増している。
その重さが増す事が愛おしいと思う程に、二人は既にこの世界を愛していた。
思考では己の責務を、感情では己の人生を、と反発し合い混ざり切らず答えの出ない『本当の願い』を探す様にリディアは幼い頃に目の前の兄に貰ったリボンへと手を伸ばす。
ーー面倒な事は、ボクに任せてくれ。
思い出すのは昔の記憶。
幼い頃からリディアにとって優しい『お兄ちゃん』であったフェルディン。
何時からだったろうか、人前で『お兄様』と呼ぶようになったのは。
あの時自らの代わりに全てを背負おうとしてくれた兄の背に、今の自分はどれ程近付けただろうか。
もし『お兄ちゃん』に何かあるならば、その時は……
「どうかしたのかい」と微笑む兄に妹は「お昼ご飯はどうしようかな~と考えてまして」と答えて、今はその覚悟をそっと胸の奥に仕舞うのだった。