SS詳細
皿の上、腹の中、闇の奥
登場人物一覧
一人の若い男がすっかり頭から爪先まで闇を装い、ぴかりとも光らぬ拳銃を懐に潜ませ、白いバイクや黒い車の影に怯えながら走っておりました——
親だの先生だの弱くて偉そうで下らない人間に押さえつけられるのが我慢ならなかった。人生の主役が自分だっていうなら、もっと自由になるものが欲しかった。道を外れたきっかけなんてそんなもんだ。だからその先でまで優劣を付けられ、顔色を窺って頭を下げ、地べたを這いずり続ける生活に嫌気が差した。いつまで経っても変わらない現実が悪い。そうだ、俺は悪くない。
ヤクザの下っ端の使いっ走り。血が通っているかも怪しい末端の末端。そこいらに掃いて捨てる程いる不良チンピラの類い。それが他所の事務所の留守を狙って盗み出した金を元手に伸し上がる壮大なストーリーの始まり——のはずだったってのに。
「クソがッ……最悪だ……」
窓からずらかる時に目が合っちまった俺もアイツも運がなかった。悲鳴よりもはっきりと『空き巣』『通報』と叫ぶ、端末の光に照らされたどう見てもカタギの男の白い顔。金庫破りに成功した興奮は一瞬で消し飛んで、咄嗟に黙らせる方法は拝借したばかりの拳銃を構える以外に思いつかなかった。
とは言ってもこっちは動画で撃ち方を知った程度のド素人だ。ヘタに当たってみろ、こんなつまらないところで人殺しになってたまるか——と壁を狙った威嚇の銃声で警察は呼ばれるわ早々に界隈には知れ渡るわ、結局始まったのは命からがらの逃走劇だ。脇役でしかなかったのに、もう映画の主人公みたいだ? 冗談じゃない! こんなスポットライトは願い下げだ!
「……チッ、またかよ」
路地裏の奥、街灯もネオンも無い薄汚れたビルの隙間に舌打ちがいやに響く。埃やら何やらで濁ったガラス窓には顔も映らないし、ロクなテナントが入っているかも怪しい。わかるのはサイレンも聞こえないくせに喧しい自分の心臓の音と、何かの視線を感じることだった。
こんな街の掃き溜めには他に誰もいない。何度も何度も確認したからそれは間違いない。逃亡生活のせいで過敏になってるとかいう話じゃない。どれだけ見渡しても覗き込んでもネズミ一匹いやしなくて本当に気味が悪くて、それがずっと——
「誰かいんのかッ?」
——今、何かいた。動いた。確実に、俺が必死で溶け込もうとしていた暗闇の中に異物が混じっている。気のせいなもんか。内ポケットで人肌を吸った金属が指先よりも温かくて気持ち悪い。散々不安を煽ってくれやがった何かがそこにいる。いっそもう警察だろうが組のモンだろうが一般人だろうが構わず何かされる前に撃つ、今度こそ撃つ、殺す、消す、殺してやる、逃げ切るんだ絶対に——
——パァン!
あぁ縁起でもねぇ、黒猫が横切るなんて。だが人間様の前に出てきたのが悪い。
あれから見えるんだ。見えるのに振り返るといないんだ。
にゃう、にゃあお。
逃げて、逃げて逃げて、逃げて、逃げ続けるしかない。
何から? 人の目も、猫の目も、全てから逃げてやる。
どこへ? もう逃げられる場所も、思いつかないのに。
逃げて、逃げて逃げて、逃げて逃げて、逃げ続けても。
にゃあ、にゃおう。
ほらまた聞こえるんだ。仲間を呼ぶようなあの声だけが。
たかが猫一匹だろう。そうだ、だから。俺は何一つ悪くない。なのに、なんで。
「ッ、勘弁してくれ……」
本当に本当の最悪だ。やたらめったらに走り回ったせいで変なところへ迷い込んだらしい。十字路とY字路を足して折り曲げたような道は、自分が来た方向すら狂わせる。
下手に戻ればバッドエンドなら、と行き止まりを振り返った。古めかしくて時代錯誤な木造の建物は廃屋にしては状態がいいように見えるのに、人気はない。アレの気配も今はしない。振り切ったか? しばらくは静かに潜伏できるかもしれない。誰かいたら脅すか買収するかして匿わせるだけの持ち合わせはある。
「なんとか之森?」
掠れた看板から『茶屋』と読み取れた途端、ぐう、と鳴る腹。施錠を確かめた引き戸は呆気なくカラカラと乾いた音を立てた。空気を読まないヤツらに舌を打ち、薄暗い店内に目を凝らして——あれ、もうそんな時間だったか? 肩越し、赤から紺色へ変わるグラデーションに目を逸らした、ほんの一瞬。
「いらっしゃイ」
目の前にいた。中学生、直感を信じるなら女。いつの間に? 登場の仕方にはビビったが、まぁ子供相手なら上手いこと騙し通してやれ。黄色い目がにこりともしないで繰り返す歓迎の挨拶に答えた。
「飯屋を探してたら迷っちまってな。嬢ちゃん、ここの店の人か?」
こっくり頷く黒い帽子の頭に目が吸い寄せられた。猫耳。いやいや、そんなことより。
「表開いてたってことはやってるんだろ。なんかあったかいの頼むわ」
「……まずは席に案内するナ」
愛想は悪いが、こっちに興味を持たないのは好都合。なんなら最悪の中の唯一の救いだ、と笑えないことを考えながら、一つ、二つ、と戸を潜って奥の座敷へ上がった。
俺が脱いだ靴を揃えた店員は「上着を預かル。貴重品類はその籠にどうゾ」と隅の蓋付きの籠を指差す。少し悩んで体で隠しながら現金が詰まった鞄と、その中に拳銃も仕舞い込んだ。どうせ子供なら腕一本でどうにかできるし、ジャケットに入れっぱなしで触られるよりはマシだ。
「用意は十五分と待たせなイ。すぐ食べられるからナ」
受け取ったものをハンガーに掛けてから小さな店員が襖を閉じる。一人きりになって座布団に腰を下ろすと体が急に重たくなった。思った以上に疲れていたのか、もう溜め息を吐くのも億劫だった。
卓上に備えられた塩や酢の瓶をぼんやりと眺めていて、ふと我に返る。——遅くないか? 締め切られた小部屋には時計がない。逃亡生活を始めてから一度も電源を入れていない端末は鞄の中だ。
そもそも子供一人に任せる店があるもんか。他の店員がいるはずで、とっくに素性がバレて警察を呼ぶ時間稼ぎをされていてもおかしくない。
「……落ち着けって。様子を見てからだ」
もう黙って待っていれば料理の前に破滅を食らわされるとしか思えなくても、慌てたら負けだ。冷静に、冷静に、と襖に手をかけた——瞬間、ぞわりとあの気配がまた背中を舐め上げた。
「ッ!?」
振り向いても何もいない。わかっていた。にゃあお。鳴き声が聞こえることも知っていた。でも、これは知らない。にゃう。気配が、音が、増える、増えていく。どうして。襖がびくともしない。にゃお。嘘だ。あけてくれ。ここはおかしい。だれでもいい。たすけてくれ、
——にゃあお!
「あーあ、死んじゃっタ。折角こっちが準備していたってのにせっかちだネェ。ま、いいカ。そんじゃ、いただきまース」
『茶屋:猫之森』。ここは一人のうつわと[ねこ]達が棲む一軒家。どなた様もご遠慮はありません。
「どうぞ、おなかへお入りくださイ?」
おまけSS『間に合わなかった白い猟犬の話』
——今月△△日深夜、︎××町で発砲した男が未だ逃走している事件について続報です。
昨日午後19時頃、男が所持していたと見られる拳銃と多額の現金の詰まった鞄が、遺失物として××町交番に届けられたとの情報が入りました。
鞄と拳銃に付着した指紋や現場に残されていた銃弾との照合結果から間違いないとの見方を示しており、警察は拾得者に事情を聞くなどして引き続き男の足取りを追っています。
しかし、現金には血痕の付着もあったとのことで、本件は⚫︎⚫︎組が絡む事件として既に男が死亡しているケースも視野に入れた捜査を——