SS詳細
絡廻るグルグルアイランド。或いは、ドロドロの脳髄…。
登場人物一覧
●胎児よ胎児、なぜ回る
……ブウウン――――ンン――――ンンンンン―――……。
スウスウと心地の良い寝息。母の腹のうちでまどろむ赤子のような安らぎは、低く、高く、遠くで近くで、飛び回り、這い回る蠅の翅音のような“何か”の音色でもって終わりを迎えた。
目を覚ました白い面の細身の女。名を沁入 礼拝 (p3p005251)という彼女は、フッと眼を開いて、数度ほど瞬きを繰り返す。眩しいような、暗いような、奇妙奇天烈極まる螺旋の空模様には、得も知らぬおどろおどろしさと、複雑な色彩の妙に由来する優美さとが同居していた。
ァア――ここは、きっとこの世であって、この世ではない何処かなのだ。
知らず、礼拝は恍惚とした溜め息を零す。
吸い込まれるような空を見ていた。
空に向かって落ちていくかのような奇妙な感覚だ。寝起きの直後か、高熱に浮かされた時にしか味わうことの出来ない独特の浮遊感を暫し楽しむ。
――ブゥウウン。
また、蠅の翅の音が聴こえた。
否、どこか甘ったるい香りもする。これはもしかして蜜の香りか。であれば、きっと翅音の主は蜜蜂か。
なんて、纏まりの無い思考。
アァ、とてもとても心地が良い。
このまま、いつまでも……ぐるぐると。
「Nyahahahahahahahaha!!」
脳髄を素手で搔きむしるかのごとき奇怪な嗤い声。ノイズの走る脳の裏に、三日月みたいな赤く裂けた口腔が浮かぶ。
途端、フツフツと胸の内よりドロドロとした昏い憎悪が湧き上がる。
甘い香りは蜜ではない。これはきっと、ホイップクリームの芳香だ。
▶夢の中で揺蕩うことに幸福なんて見出したって、所詮それは紛い物。貴様の脳髄が貴様に見せた、我々の脳髄が我々を騙そうとする悪辣で狡猾で恍惚な幻想の誘いに違いない。そも幸福とは蛋白質の化学作用でもって作られた、ホイップクリームの真似事に過ぎないというのに、なんとなんと滑稽なのか。Nyahahahahahahahaha!
耳障りな女の声に、礼拝はギリと唇を噛んだ。
薄皮が裂け、舌の上にとろりと血の雫が垂れる。
甘くて、苦くて、熱い血を喉に飲み込んで、礼拝はとつと言葉を吐いた。
「うるさいですよ」
思い出した。
此処なるは“グルグルアイランド”。
全てがくるくる回り続ける、止まることのない輪廻の楽園。
●木洩れ日の午後にグルグル回る
踊る阿呆に、見呆とはよく言ったものだ。
そも、この世の中に聖人君子は一握り。およそ意思のある生物の大半はクサレ外道かアンポンタンか、そうでなきゃ路傍の石ころのような“取るに足りない”者ばかり。
それを忘れていたのだから、アァ、なんと救い難い己の脳味噌か。
珍しく殊勝な態度で「謝罪をしたい」などと言うので、ほいほいと誘いに乗った自分が阿呆であった。つまり自分は踊る阿呆だ。となればそれを眺める彼女は、見る阿呆に違いない。
あぁ、簡単明瞭ではないか。
あぁ、開いた口が塞がらない。
否、塞いでおかねば胃の中身を、滝か何かのように戻してしまいそうなので、それはあくまで言葉の綾というものであるが。いっそ吐いてしまえば幾らか楽になるのに、そもそも細い己の食堂と、仔猫のごとき極小容量の胃袋がひどく恨めしい。
「どうした? 食べないのか? ン? ホイップクリームがたっぷりだ! 女というのは甘い甘い砂糖の海に悦び踊るものだと物の噂で聞いたが、さては貴様は女ではない何かだったか? であればさっさと正体をばらせ。きっと生きるのが楽になる」
ゆるゆると回るテーブルに、ゆるゆると回るティーカップ。色とりどりのケーキを乗せたスタンドも、ゆるりゆるゆる回っていた。そもそもからして、建物自体が回っているのだ。
瞳にそんな思いを込めて、礼拝は目の前の黒い女……オラボナを見やる。口元にはいつもの赤い赤い“にぃ”とした笑み。すっかり見慣れて、寝ても覚めても脳の内から離れない。
「ゆっくり座ってお話でもと……オラボナ様のそんなお言葉を信じた私が愚かでしたわ」
愚かであった。
誘いに乗った、礼拝は己の愚を正しく悟った。
そして同時に、これはオラボナの仕掛けた“勝負”であると正しく知った。
当然だ。彼女とは元より、1人の男を取り合う仲だ。香る紅茶に甘いケーキを供として、ゆっくり午後のお茶会でもと、そんな関係であったことなど一瞬たりとも無かったではないか。
ケーキの1欠片を完食し、たったそれだけで胃が満腹を訴えている礼拝と違って、オラボナは今もこれ見よがしにクリームたっぷりのケーキを口へ運んでいる。
これで一体、幾つ目だったか。
1つや2つじゃないはずだ。
「ケーキの1つ程度でどうして苦しそうな顔をしている? それくらい、どうってことないはずじゃあなかったのか?」
オラボナは問うた。
礼拝は、喉の手前まで逆流して来た胃液をぐっと飲みこんで、掠れた声で言葉を返す。
「"It's a piece of cake"といいたいのですか?」
それは確か「どうってことない」「容易にできる」といった意味の言葉である。
いけしゃあしゃあ、とは彼女のことだ。
ケーキの1つで限界を迎えた礼拝の胃の調子を知って、そのうえで煽っているのだろう。猫がいたぶる獲物の鼠に愛を注ぐことがあるなら、きっと今のオラボナのような顔をしているはずである。
それを理解した礼拝は、無言のままにフォークを取った。
挑戦であれば受けて立たねば女が廃る。
女としてのプライドもある。
皿に乗った2つ目のケーキにフォークを刺して、ひと思いに口へと運んだ。
脳を模したプリンがあった。
フォークで突いて形を崩して、どろりと垂れる脳漿を楽しむ。
この時期にしか提供されない“グルグルアイランド”の限定メニューだ。誰が喜ぶのか知らないが、あまりにも“見て来たような”精巧な造形の脳味噌プリンは、訪れた者にほんの一時“人ではない何か”の気分を味わわせてくれると評判である。
なお、件の評判が“好評”であるか“悪評”であるかは誰も知らない。
「それにしても、よく食べたものだなァ」
そう呟いて、オラボナは視線を床へと向けた。
そこには、腹いっぱいにケーキを詰め込み、ついには意識を失った礼拝がいた。
長い睫毛が震えていた。
胎児のように体を丸め、スウスウと寝息を立てている。
苦しそうだったのも束の間、いつの間にやら礼拝の寝顔は安らいでいる。
母の胎のうちはさぞや心地が良いのだろう。この世のあらゆる不幸や不運や悲しみなどとは、無関係だと思っているのだ。或いは、母に守られているという安心感が彼女にそんな顔をさせるのかもしれない。
「――――」
礼拝の口から言葉が零れた。
それは、オラボナの“彼氏”の名前ではなかったか。
人の“彼氏”に夢で逢うなど度し難い。これだから、恋する女は怖いのだ。
そっと伸ばした長い手で、礼拝の耳を優しく摘む。
それから、すぅと息を吸い込み、オラボナは嗤った。
「Nyahahahahahahahaha!!」
つまり、いつも通りである。
空で小鳥が回っていた。
明るく昏い雲と空と太陽も、ぐるぐる螺旋の色彩である。
遥か遠くに観覧車。
ゴトゴトと音を立てながら、走る山羊の乗り物は、ぐるりと園を一周していた。
見よ、空中ブランコの旋回を。
見よ、4重に廻るジェットコースターの描く軌跡を。
「……目が回りそうです」
「否、既に目は回っているのだ。回っていないものなど無いのだ」
この世は“回転”で出来ているので。
“回転”こそが、すべての理の根源なので。
思い出してみてほしい。我らが暮らすこの星からして、そもそも終わりなき回転の中にある。
つまり“回転”は終わらないのだ。
観覧車、ジェットコースター、空中ブランコ。
喫茶店を後にしてから小一時間は経っただろうか。初めはオラボナが引き摺るようにして、礼拝をアトラクションへ投げ入れた。しかし2つ目のアトラクションには、礼拝は進んで乗り込んだ。3つ目もそうだ。
お前の考えは読めているぞ。
お前の思い通りにはいかない。
お前の歪に捻じ曲がった性根を真っ向から叩き直してくれる。
言葉にこそしないものの、礼拝の意思は正しくオラボナに伝わっていた。
面白くない。
そして、面白い。
愚かで、可愛らしい女の意地と敵意を叩きつけられるのは、なんと心地のいいものか。
嫉妬も混じっているだろう。
恨み辛みも混じっているか。
けれど、礼拝にも理解ってほしい。
真正面から受け止めるには、礼拝は些か強敵なのだ。
ここぞというタイミングで、礼拝がぶつけてくるであろう全身全霊を真っ向から受け止め、そして平たく叩き潰してやりたくて、狂おしいほどその瞬間を乞うていた。
脳髄が掻き回されている。
世界がぐにゃりと歪んで見える。
否、そもそも世界が平らだと、どこの誰が決めたのだ。
時間の間隔も曖昧だ。吐気もそろそろ限界だ。
胃袋はきっと、とっくの昔にぐるりとひっくり返っている。
いったい幾つのアトラクションに乗っただろう。
オラボナの手により引き摺り込まれた物もある。
礼拝が進んで乗り込んだ物もある。
喫茶店に入ったころ、太陽は空の高くにあった。それが今では、東の空に沈みかけているでは無いか。
あぁ、せっかくの休日が、回転の中で過ぎていく。
右も左も分からないまま、勝負の終わりも見えないまま、無為な時間を過ごした気がする。
否、そういえば誰も今日のこの日、この時の出来事を指して“勝負”なんて言っていない。強いて言えば、礼拝自身が「これはオラボナからの挑戦である」と、喫茶店の一幕以降のあらゆることをそのように認識しているだけだろう。
「貴様よ。勇往邁進せよ。悦び勇んで、逆立ち、渦巻き、宙返りせよ」
「え、なに?」
「Nyahaha! つまり、あれを見よ!」
そう言ってオラボナが指差したのは、軽快な音楽に合わせぐるぐる回る“コーヒーカップ”。
鍛えた猫の三半規管も潰してみせると評判高い“グルグルアイランド”の目玉であった。
チャカチャカ、スカラカ、チャカポコ、スカラカ――――♪
ノイズ混じりの陽気な音が鳴りやまぬ。
ぐるぐる。
ぐるぐる。
行ったり、来たりを繰り返す。気を抜けばうっかり逝ってしまいそうなほどに、内臓と脳が右へ左へシェイクされる感覚に、礼拝はギリリと歯を食いしばる。
けれど、弱音を吐くことはしない。ついでに胃の中身も吐き散らさない。
「う……フフ。回転が足りないのではなくて?」
お前より先に心を折ってなるものか。
一速、さらに加速する。
オラボナは、にぃと笑みを濃くした。
三日月のような口腔は、もはや耳まで裂けている。
礼拝の手を上から押さえた。ヒヤリと血管の中から凍えるようなオラボナの体温に、礼拝は一瞬、肩を竦めた。
ぞぞ、と鳥肌。背筋に走る悪寒はまるで、骨の内に鉄の針でも刺したかのよう。
「Nyahaha! Nyahahahahahahahahahahahahahahahahahahaha!」
哄笑。
さらに一速、コーヒーカップが加速した。
もはや意地と意地のぶつかり合いである。
或いは、醜い女の争いだと言う者もいる。
「何を考えているか、手に取るように分かります」
「Nyahahaha! それは重畳! 実際にこうして手を取っているのだから、手に取るように分かって当然とも言える!」
「減らず口もすぐに叩けなくなりますわ」
加速。
加速、加速、留まることのない加速。
ぐるぐる、ぐるぐる。
コーヒーカップを回しているのは、もはやどちらなのかも分からぬ。
ただ、ただ、回る。
世界の色が混沌と混ざり合う。形を失い、溶けあって、そこにあるのはただの流れる色彩ばかり。まるで非合法な薬をキメた後に見る、出来の悪い夢の景色さながらであった。
そして。
それから。
世界が回転を止めることは決して無いが、コーヒーカップはそうじゃない。
始まったからには、いずれ終わりを迎えるものだ。
チャコポコ、スチャラカ……チャンチャン♪
曲が停まった。
コーヒーカップは次第に回転速度を落とす。
ピタリ、と停止したかしないかと言うタイミングで、初めに転がり落ちたのは黒い巨躯のオラボナだった。
「Nyahahaharrrrrっれぇぇ“え”!」
地面に倒れたオラボナが、胃の中身をぶちまけた。
次いで、這うようにしてコーヒーカップから脱出した礼拝も、数瞬の間を置かないうちに限界を迎えた。
「う……ぉえぇ」
あぁ、意地の張り合いは。
虚しく醜い女どうしの争いは。
かくして幕を閉じたのである。
●嗤う女の悪い夢
服はよれよれ。
髪はすっかり風に乱れて、化粧は涙と鼻水でべっとりと張り付く泥のよう。
視界は未だに揺れているし、どうしたことか大地までもが回っている。
三半規管はショート寸前……いやさ、すっかり焼き切れて、元の機能を取り戻す日がいつになるかも怪しい始末。
勝者は無い。
鎬を削い、競い合った恋敵との間に友情などが芽生えるはずもない。
結局のところ、今日と言う日は何だったのだ。
腹いっぱいにクリームをケーキを詰め込んで、回って、回って、回り狂って嘔吐した。
鏡を見れば、そこにいたのはげっそりとした幽鬼染みた女である。誰だ? 己だ。悲しいかな、見慣れぬ幽鬼の顔形は、見慣れた礼拝のものであった。
あぁ、無様。
何たる無様。
無様を晒して、くたびれたばかり。強いて戦果を挙げるなら、オラボナにも一泡ほど吹かせてやったことぐらい。
達成感は微塵も無かった。
ただ、狂おしい感情の渦が……愛と憎と恨と怒と情けないやら虚しいやらみっともないやら、それから悲と哀と人人ヒトヒト……あぁ、数えるのも馬鹿らしくなる感情の渦が、心の奥で、脳髄の奥で、汚泥のように渦を巻く。
「うっ……うぅ、えぐっ……」
噛み締めた唇の隙間から、噛み潰せない嗚咽が零れた。
よたよたとした足取りで、オラボナが礼拝へ近づいた。
あぁ、見慣れたにやけ顔。
嘲笑か、侮蔑か、それとも元々そういう顔をしているのか。
とにもかくにも、憎らしく。
もう、何だって構わない。脳髄は物を考えるためにあるのだが、今日は些か考えすぎた。これ以上、脳髄を酷使すれば、きっと脳の内にある大事な何かが外に染み出してしまうだろう。
だから、何も考えない。
「う、ぇぇぇ…………!!」
鳴き咽びながら放った平手は、思ったよりも勢いがついた。
バチン、と渇いた音が鳴る。
鳴き咽び、駆け去っていく後ろ姿を見送った。
その背へ向けて、オラボナは言葉を吐きつけた。
「――私は貴様が※※なのだよ、グロテスクな奴め」
それっきり、後はいつもの笑い声。
Nyahahahahahahahahahahahahahahahahahahaha!