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希望ヶ浜で日常を
登場人物一覧
ニルにとって学園生活は新鮮そのもの。ひとりぼっちで眠りについていた事は余り覚えて居らずとも、今を精一杯に生きている。
希望ヶ浜学園の校門前で『待ち合わせ』に誘ってくれたのは音呂木・ひよのその人だった。イレギュラーズが希望ヶ浜に訪れた際の案内役を買って出た『皆の先輩』であるひよのは「ひよの様は擽ったいので先輩と呼んで下さいね」と約束を交した際にニルへと告げて居た。
様々な事を学び続けるニルをひよのに任せたのは、ニルと懇意にしている練達の研究者達であった。
――あんなぁ、ニィちゃんに希望ヶ浜の生活を色々教えたってくれへんか?
――……宜しく頼む。
にんまりと笑ったのは東九之助。その傍らではゼリー飲料を吸い上げながらモニターと睨めっこを続けて居るナヴァン・ラグラン。
ひよのは希望ヶ浜の住人の中では珍しく『外』に寛容だ。故に、九之助とナヴァンの『お願い事』を引き受けたのだろう。
「いってらっしゃい、ニィちゃん」と手を振った九之助に「いってきます」と元気よく挨拶をしてニルは足取り軽く校門へとやって来たのだった。
「こんにちは、ニルさん」
「こんにちは、ひよの様。今日はよろしくお願いします」
「こちらこそ」
ひよのがニルに最初に教えたのは希望ヶ浜という場所は『混沌世界の在り方』を受け入れられなかった者達の揺り籠だという事だ。目を逸らし続けたいファンタジー世界。本来の彼等は希望ヶ浜が『再現』した場所からやって来たらしい。その場所を忘れられず現状を受けられなかった者達に撮っての心の拠り所なのだ。
「つまりは、此処ではニルさんも普通の人間扱いなのですよ」
「秘宝種ではないのですね?」
「はい。あなたの綺麗なコアもアクセサリーの扱いになりますし、私達が相対する夜妖だって彼等の中では有り得ざる存在なのですよ。
幽霊や神様なんてものと同類の扱いをされているのです。悪性怪異:夜妖<ヨル>……そう呼ばれている怪異ではあるのですが――」
ひよのはニルを見詰めてからにこりと笑った。ナヴァンからニルについての詳細はある程度聞いている。
もしも、強すぎるほどの悪意を有した怪異とニルが出会えば、きっと記憶からそれは消失してしまうのだろう。だからこそ敢えて、説明を重ねる。
「今日は、かなしい思い出のある人形を供養しに行きましょうか。……怪異は、あなたから私と過ごした時間を失ってしまいそうですから」
「ひよの様との時間をですか?」
「ええ。友人として、先輩として、あなたが私に親しみを覚えて下さるかも知れない限られた時間を怪異に持ち去られてしまうのは悲しいでしょう」
ニル・アドミラリは真なる知性そのものだ。ニルがそうして、全ての衝撃に備える力を有していても失われた記憶はきっと、心に穴を開けてしまう。
仕事に行くまでは商店街を食べ歩きましょうとひよのはニルの手を引いた。学生と言えば食べ歩き。ニルは人間の形をしている。故に、口腔と呼ぶべき器官の形成は叶っていても味覚そのものを認識できない。
ひよのが肉屋で購入したコロッケを口腔に放り込んでもそれが粗めに潰したジャガイモとミンチ肉が混ざり合った『コロッケと呼ぶ料理』であると認識できるだけ。それ以上の「おいしい」も「うれしい」も沸くことはない。ひよのはニルを一瞥してから「美味しいですね」と敢えて告げた。
「はい、『おいしい』です」
「コロッケは揚げたてが『おいしい』のだとナヴァンさんに教えてあげて下さい。
それから、『外に出ないと食べられない』と言ってあげましょうね。彼は欲求に耐えかねてニルさんと街歩きをしてくれるかも知れません」
「忙しそうです」
「いいのですよ。人間というのは一つの事ばかりでは参ってしまいますから、ニルさんがナヴァンさんを連れ出すことだって立派な行いなのです」
コロッケを食べ終えてひよのは商店街を慣れた様子で練り歩く。その背中を追掛けるニルは不思議の国に迷い込んだかのような感覚を覚えていた。
『おいしい』が沢山並んだ店先に『うれしい』の笑顔が輝いている。歩いて行くひよのが「こっちですよ」と笑って手を差し伸べてくれるその『ぽかぽか』も不思議で仕方が無い。
彼女は仕事の前に、と言っていた。持ち主が病で亡くなってしまい、大切にしていた人形を捨てることも出来ないと家族から依頼を受けたそうだ。
「それは『かなしい』ですね……」
「ええ。ですが、きちんと供養してあげれば、その『かなしい』も『たのしい』思い出に変化してくれるかも知れませんから。
たこ焼きでも買ってから向かいましょう。あ、それからお土産も。向かう先は澄原病院の夜妖診療科なので気を張らなくって大丈夫ですからね」
文房具屋の軒下で営まれているたこ焼きをお土産に、たこ焼きをエビ煎餅に挟んだたこせんを手にして二人でベンチに腰掛けた。
少し時間があるからと購入したラムネはニルの体でも『しゅわしゅわ』を伝えてくれる。放課後の伸びる影、学生達が食べ歩きをする様子を制服姿で二人で眺める。
此処ではニルも普通の人間、普通の学生。誰かと変わりない、同じように生きている人間として扱う。
そんな言葉に少しだけ、ほんのちょっぴり、不思議な感覚を覚えた。知らないことが多くたって、希望ヶ浜ではそれはそう言うものだとして日常の中に溶け込んでいくのだ。
「ひよの様。お人形さんは、供養? をすれば、『かなしく』なくなるんですね」
「そうですよ。ひとりぼっちになってしまったと、悲しんでしまう儘では夜妖だと呼ばれてしまう日が来るかも知れない。
そうならないように、持ち主の元に送ってあげるんですよ。先に逝ってしまったその人も、きっと寂しいだろうから――追掛けて手を繋いであげてね、と」
微笑んだひよのに、ニルはぱちりと瞬いた。
もしもニルが自分の大切な人を喪ったら、その時その記憶は消え去ってしまうのだろう。
何もかも、無かったように忘れてしまって、大切な人の死に様も、その時に残された言葉だってきっと忘れてしまう。
忘れてしまうかも知れない『たいせつなこと』を大切に抱き締めていることで夜妖に転じてしまうとするならば――忘れててしまう方が幸せなのだろうか。
ぶらぶらと脚を揺らがせて伸びた影をぼんやりと眺め続ける。
「夜妖は『わるいもの』なのですか?」
「どうでしょう……。かなしかったり、つらかったり。そんな気持ちの人を助ける事、なのかもしれません。
夜妖にも人間のように様々な事情がある者が居ます。真性怪異と呼ばれた神様達だって、かなしかったりさみしかったり、辛かったり。そうやって、人に害をもたらす者も居るのですよ」
「寂しかったり……?」
「忘れてしまわれた事を悲しんで、真性怪異はそうやって独りぼっちで過ごしていたのですもの。
誰か来て、忘れないでと手を伸ばす者も居るのですよ。そうやって伝奇を様々な場所に残して、欠片を探しに来た人を取り込む程に」
人にとっては恐ろしいことですけれど、とひよのは肩を竦めた。
ニルは神様にとってそれはどれ程、寂しいことだったのだろうかと考える。元はと言えば誰かに求められた存在だったのだろう。
それが忘れられて、一人になって、誰かを蝕む呪いに転じた。倒さなくてはならない程。強固な呪いとなって、人を蝕み、最後は消え去る命。
「……それは、こわいですね」
「ニルさんなら、大丈夫だと救ってあげられるかも知れませんね」
ひよのはゴミ箱に食べ終えた紙くずを放り投げてからうん、と一つ伸びをした。時計を見遣れば、約束の時間が近づいている。
これ以上の寄り道は『依頼時間』へと遅刻をしてしまうだろうか。名残惜しいと商店街に立ちこめた『美味しそうな匂い』に後ろ髪を引かれた様子を見せながらひよのは土産として購入したたこ焼きをビニール袋へと仕舞い込み傾かないように注意する。
「さ、そろそろ叱られてしまいますから行きましょうか。
『おいしい』を沢山得られたことを、きちんとナヴァンさんに伝えて下さいね? ニルさんの面倒をひよのはちゃんとみましたよ、って」
くすりと笑った彼女がもう一度、手を伸ばした。伸びた黒い影を追掛けるように、ニルはその手を取って歩き出す。
鴉の鳴く声に、少し肌寒くなった希望ヶ浜の夕暮れをのんびりと歩きながら人形を迎えに行こう。
その人形が抱いた『かなしい』にさようならを告げるために――