SS詳細
『彼女』に与えられた名
登場人物一覧
本当の名を名乗ることは二度と無い。
けれど名を持たねば、他者との付き合いが難しくなる。
いずれ使わなくなるとわかっていても、その名を名乗ることは『仕事の一貫』。
……そういえば、この名前を名乗り始めたのはこの世界に来た時だった。
でも、名付けられたのは……。
これは本名を捨てた彼女が『佐藤 美咲』を名乗る前のお話。
何者かであって何者でもなかった女性の、過去の日常。
●
A02493地球世界。その日、大学生である彼女は逃げ続けていた。
とあるビルで起こったテロ未遂事件。その犯人であると断定を受けた彼女は指名手配されており、顔を隠した状態で人混みに紛れて逃げていた。
――とは言え本当に犯人だったかどうかまでは、わからない。その場にいただけなのか、それとも……。
(……まだ、後ろにいるっスね)
するりと、人混みの中に紛れ込んで気配を消している彼女は傍から見てもただの一般通行人にしか見えない。
ごく普通の大学生で、誰かと連絡を取り合うためにスマホの画面を見続けている。それだけの、ごく普通の一般人。
何もなければこのまま家に帰って、趣味の明け暮れるような大学生にしか見えない。
けれど、わかる人にはわかってしまう。
彼女のその才能は生まれ持っているもので、でも、逃げるにはまだまだ未熟な能力であると。
そんな彼女を追いかける組織の人間が数名、彼女の後ろを同じように歩いていた。
テロ未遂事件の犯人を捕らえることが目的なのだろう。彼女同様、一般人に溶け込んで隙を見せぬように近づいてきていた。
(……撒けるといいんスけど……)
すたすたと、周囲の一般人と同じくらいの歩調で歩く彼女だが、頭の中ではどのように逃げるかを目一杯計算していた。
どこで曲がり、どこで追手を払い、どこで休息を取るか。犯人としてとっ捕まるわけにはいかないのだと、少し眠たそうな頭をフル回転させて計算を続ける。
それでも、上手な人間にはその思考さえも見透かされるもの。
曲がり角を曲がったその次の瞬間には、後ろから追いかけてきていた人間と同じ組織に所属する男が目の前に立っていた。
「■■ ■■だな?」
「……!」
男の低い声で言われる自分の本名。
混沌世界に来た今はもう名乗ることはない、その時だけに名乗っていた本当の名前。
その名前を聞いてしまって僅かに身体が硬直してしまった彼女は、その一瞬の隙に拘束されてしまった。
「よし、連れて行け」
「ちょっ……!?」
目隠しをされて、猿轡までされて、徹底的に拘束されてしまった彼女は護送車に乗せられて何処かへと運ばれる。
罪を暴露するのはこの場ではないのだと言わんばかりに。
●
それから数日。
長らく拘束状態となっていた彼女は司法取引によって身柄を自由にする代わり、ある組織での労働を強いられることとなった。
彼女の隠密能力はある組織――その名は『00機関』と呼ばれる一定の人間しか知らぬ組織――にとって素晴らしい逸材であると判断され、テロ未遂事件の罪を帳消しにする代わりにこの組織で働くことで自由を保証するという形をとっていた。
知識も技術も余すこと無く機関から与えられ、完璧なスパイとして育てられることとなる。
なお、今日は彼女が組織の隠しているセーフハウスへと呼ばれていた。
この場には誰もいない。基本的に組織の人間はそれぞれの関わりを持つことはなく、『上官』と呼ばれる人間から指示を与えられる。
適当に座れと上官が告げると、彼女は眉根を寄せつつもソファへと座った。
「いいんっスか、罪人をこうして適当に放っといて」
「いいんだよ。この組織にはそういう奴は少なくない」
上官は小さく笑いつつ、彼女の手に出来た見やる。
彼女の腕を包むには小さすぎた手錠は手首の肉に食い込んだせいで、アザを作り上げてしまった。
数日もすれば元に戻るだろうが、それまでは『囚われた身』だったことを知らしめている。
――現に、混沌世界に来た彼女の手首にアザは何処にもない。その時限りのものだ。
そんなアザを持った彼女に対して上司は『■■ ■■』の名を呼んで、初の指令を与えようと書類を渡してきた。
初の任務とは言っても一般人に紛れ込む技術を持つ彼女であれば、苦もなく成功するものだそうで。
「ふーむ……」
彼女はじっと書類と向き合って、内容を頭に叩き込む。
ここ数年、一定のタイミングで発生する殺傷事件の犯人像を突き止めたまでは良いのだが、組織的な犯行故にすぐさま姿を消してしまい捕まえるに至っていない。
そこで彼女にはスパイとして集団に潜入捜査をしてもらいたいとのことで、専用で作られた身分証と戸籍を大量に渡された。
「……んえ??」
ふと、彼女は渡された身分証の枚数がおかしいことに気づく。
今回の事件用に与えられた身分証以外にも、後に彼女が名乗ることになる『佐藤 美咲』の身分証やそれ以外の人物の身分証が渡されていたからだ。
上官曰く、今回は別の名を使用するだけでいいというが……。
「なんか、たくさんあるんっスけど……」
「ああ、事前に渡しておいたほうがスムーズに身分移行がしやすいだろうと思ってな」
「ふーん……」
与えられた名前は軽く見ても10は用意されており、身分証も状況や国に合わせたものが多い。
あらゆる状況を想定して機関側で準備してくれたのだろう。必要な時には上官に伝えれば、その名前での活動を行えるそうだ。
とは言えその場限りでしか使えないため、不要になったらすぐに廃棄することを告げられる。これは機関の存在を知られるわけにはいかないという理由でもあり、『■■ ■■』の存在を護るためでもあるとのこと。
「機関は『存在しない』。故に、我々の存在が明るみに出ないようにするためだ」
「ふむふむ……。破棄方法はなんでもいいんっスか?」
「そうだな、何でもいい。完全に消滅さえできればな」
「りょーかいっス」
質問がなければ、早速動けという指示の下、彼女はセーフハウスを出て指令書通りの場所へと向かう。
組織的な犯行を食い止めるには、集団の持つ情報を得ることで先回りが可能になるだろうというのが上官の考えだった。
もちろん、その読みは大当たり。
彼女が殺人集団の情報を得たことで先回りが可能となり、集団は一気に捕縛。一斉逮捕に繋がった。
この逮捕に関しては表向きには警察での処理となっているが、裏ではしっかりと機関が処理をしておいた……という話だが、それは定かではない。
そしてこの任務が終わったこの日、彼女は『■■ ■■』の名を封印した。
しかし混沌世界に呼ばれるまで、『佐藤 美咲』を名乗ることは無かった。
――何故なのかは、彼女だけが知る。
おまけSS『名付けって癖が出る』
「あのー、ところで名付けって誰がしたんっスか?」
「ん? 私だが」
「……」
彼女がじっと見つめるのは、数々の戸籍抄本に記された名前。
どれもこれも似たような名前が多く、下手すると同じ読みで漢字が違うなんてのもある。
それは組織としてどうなんだ?? とも考えたが、上官が言うには『漢字が違えば別人だからセーフ』だそうで。
(……まあ、何かあったら組織がもみ消してくれる……んっスよ、ね??)
少々不安になりながらも、彼女は与えられた名前で活動を開始する。
……時々危ういところもあったが、そこは、まあ、ご愛嬌ということで。