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ゴーストハウスの眠り姫
登場人物一覧
- クウハの関係者
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枝を踏む音。
パキリ、と折れる音すらも、冷たくあたりにこだまする。
鬱蒼と生い茂る森は、空に広げた木々の枝ぶりと、地面に落ちた葉で暗く足元を隠し、やってくる旅人を惑わせる。コブの多い立ち木の群れの一帯は、ぐにゃりと奇妙に曲がりくねっている。奇妙なことに、これを目印にしようとしても難しい。振り返ればだれもかれもそっくりに見える。
ほら、今日も好奇に駆られた人間のきょうだいが森をさまよっている。
先ほど出たはずの場所に、もう戻れない……。
兄のほうに、出かけたときには、とても勇ましく「幽霊屋敷の幽霊を捕まえてやるぞ」なんて言っていたのに……。妹のほうはもう少し穏当で、「幽霊と友達になれたらいいな」くらいだった。けれども、今はもう、すっかり勇気もしぼんでしまっていた。お兄ちゃん、と泣きべそをかいている妹に、兄もまた泣きそうではあったけれど……妹の手前、大丈夫だよと繰り返していた。
おや、振り返れば、入口はすぐそこ。
昏くならないうちにお帰り、と言っているかのよう!
小さな兄妹は一目散に元の道を戻っていった。
……もしもう少し運が良ければ(あるいは、悪ければ!)、招かれることもあったかもしれない。けれどもこの簡易結界は、やっぱり、引っ込み思案のゴーストたちには必要なものだ。ちょうど閉め切ったカーテンのように。必要とされる場面がある。
森の奥にぽつんと佇んでいるらしい洋館は、かつて陰惨な殺人事件が起こったという――血みどろの夫婦喧嘩だとか、だってその証拠に、女の泣き叫ぶような声が聞こえたとか――、男と言い争う声が聞こえたとか――そういう噂話がどことなくささやかれているけれど、「それはない」、と『悪戯幽霊』クウハは否定するだろう。
だってその洋館の壁はじゅうぶんに厚く、言い争いの声が外に聞こえただろう、なんてことは起こらないからだ。
太陽の光を快く思わない者たちもいる。そう、人と同じように……人だって、好みは千差万別のはずだ。ぎらぎらした日差しが大好きだって浜辺に繰り出すやつもいれば、ここが一番だっていつも隅っこを自分の場所にする者もいる。
同じことだ。
そう、虚構の存在ではない。ほんとうに、「気ままなゴーストハウス」というものはある。幻想の深い森の中の、古びた洋館。
ある種のゴーストたちにとっては、ここは涼しい木陰のように、羽を休める場所なのだ。
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「気ままなゴーストハウス」には、もともとの持ち主であった幻想貴族の蔵書もあった。加えて、この家の本棚は、住民が好き勝手に持ち込んだ本がいっぱいひしめいているから、蔵書はバラエティに富んでいる。「見識を広めるため」というまじめな読書習慣を持ち、死してなお自己研鑽にいそしむ幽霊たちもいれば、「投げ心地が素晴らしい!」などという不届きの悪霊もいるのだった。
赤い背表紙に執着するものもいた。それから、表紙の、技巧の凝らされた刺繡細工に魅せられるものもいた。ただやってきて、すすり泣くだけのバンシーが、刺繍とみるや目を輝かせ、針を動かし、本を修復するなんてこともあった。そうして、バンシーはいつの間にか満足して、どこかに行ってしまったりもする。
それでいい。満足したならそれでもいいし、戻ってくるならまた立ち寄ればいい……。
ゴーストにはいろいろな事情がある。それだって無理に問いただしたりしないのがこの館の主だった。
館の主は、かぶったフードが模している猫と同じくらい、好奇心旺盛で、目についた者へふらりと寄ってはちょっかいをだす。そのくせ、クウハは絶対に、相手が本気で嫌がることはしないのだ。
不思議なことに、である。何をされたくないのか、はっきりと口に出すことがなくたって、敏感に人の心を察し、心の一番柔らかいところにだけは、いたずらの手を引っ込める。
それで、それ以上は踏み込んでこない。
だからこそ、ゴーストたちはこのお屋敷を気に入っている。
館の主が彼であるからこそ……。
『知ってるか、クウハがこの屋敷に住んでるのは俺っちのおかげなんだぜえ!』
今日も、気ままなゴーストハウスでは、お騒がせなポルターガイストがガタガタと棚を揺らして自己主張に励んでいる。
『俺が暴れたからこそ、この屋敷を買えたってもんだろ!? こーやってめいっぱい暴れたから、値段が目ん玉飛び出すほど安くなってさあ!』
「オマエさん、適当なことをいうもんだよな。オマエが来たのは屋敷を買い取った後だろ?」
『アア? そうだったっけぇ?』
「そうだ」
クウハは断言する。
『そうだそうだ』
『よく覚えてるなァ! あったり~~~~!』
姿の見えない幽霊ですら、クウハはよく把握していた。勢いで落ちてきた本に目を止め、せっかくなので、戻す前にひも解いてみることにした。
『古今東西ブーケ・ガルニ』と記されたそれは、かなり古い料理書だった。自身を幽霊と称するクウハであったが、人並みに寝たり、食べたりもする。それに、クウハの料理の腕前ときたら素晴らしいものなのだ。
古いレシピは実に不親切で、ページがぼろぼろの上、今どきのように材料の一覧は載っていない。クウハが字を目で追いながら、頭の中で使う分量を数えていると、控えめな来訪者の気配があった。
キイ……。
書斎の前で逡巡した影は、扉を、ほんの僅かだけ開ける。見なくたって相手が誰だかクウハにはわかる。
ミレイだ。
(おっと、姫さんか)
ミレイは、クウハが取り込み中なのを察すると、透き通った海のような目を丸くして、そーっと扉を閉めようとした。
「ああ、いいって。それ持ってたら開けられないだろ? 待ってな。今開けてやるから」
「……いいの?」
「本は逃げないが、お前さんは逃げるだろ? 幸運ってヤツは、来た時に掴み取らないとな。姫さん、ようこそ」
「に、逃げないよ、逃げないもん……」
と、ミレイはちょっと気まずそうに言った。実際、忙しそうなら出直そうかな、とは考えていたのだ。
大人なら「少し大きい」だけですむような本は、少女にとっては両手で持つのがやっとのサイズになった。
「……あのね。隣に行ってもいい……?」
「誰のためのクッションだと思う? 姫さん」
いつのまにか、ソファーの上には、ふかふかのクッションがしつらえられている。
(私の分の場所がある……)
ミレイは感激し、控えめにぎゅっとクッションを握った。
ほんとうは、心の中で飛び跳ねるほど嬉しかったのに。嬉しかったけれど、クウハの顔を見るとなんだか恥ずかしくなってきて、小さな声で「ありがとう……」と言うのがやっとだった。
うれしかったのに、どうしてうまく伝えられないのだろう。
でも、クウハはわかってくれているのではないかとも思う。
(だって、私が部屋に来るのなんて、分かっていなかったはずだし、声をかける勇気がなくたって、いつだって気が付いてくれるから……)
――いつもありがとう。だいじょうぶだよ。
――私、なんにもいらないよ。
――それでいいの。
……どうしてもそれがいい、だなんて、わがままを言えるようになったのはいつからだろう?
生前、ミレイはずっとおとなしい子供だった。
記憶を思い起こそうとすると、いつだってベッドの記憶を思い出す。でもそれは、不幸な記憶というわけじゃない。でも、だって、だから……。
わかっていたから。
だいじょうぶだよ、というのがいつしか口癖になっていた。
クウハになら、言える。ちょっと甘えてみることができる。
どうしてもミレイが読みたかった本は、ミレイには難しいものだった。文字通り背伸びして、本棚からやっとの思いで抜いた本だった。
でも、ミレイはどうしてもその本が読みたいと思ったのだ。
だってその表紙の挿絵のシルエットは、どことなくクウハに似ていたから……。
(それにね、この黒いインクはね。光の当たり具合で、ほら、紫色に見える……から)
黒猫ケット・シーの冒険譚は、子供にだって、いや、子供相手にだからこそ手加減しないような本だった。難しい、古めかしい言葉でいっぱいだった。なにごとも大げさなケット・シーは大きな身振りで、容赦のない難しい言葉を浴びせかける。
冒険の最中に、ページをめくる手はたびたび立ち止まる。真剣なミレイの目はクウハを見上げた。
「ちょうあい……ちょうあい? 寵愛されるべき我が至宝の玉、ってどういう意味?」
「そりゃ、姫さん。大好きってことさ」
あまりにもさらっと言ってのけるので、ミレイは思わず目をそらし、本の文字の形が急に気になるというふりをした。
「愛されるべき、大好きな宝物ってな。ケッケッケ! 口説き文句だな。聞いてたか? もう一回説明しようか」
「……」
ふるふると頭を横に振るだけで精いっぱいだ。
ミレイが立ち止まるのは、難しい言葉の前でだけではない。
ミレイは、外の世界というものをほとんど知らないのだった。深いエメラルド色の海を、自由に泳ぎ回る人魚たち……。いっしょうけんめいに想像してみるけれど、合っているだろうか、どうだろう?
そういうときは、クウハは「正解」を教えてくれたりしない。真剣な顔で本をいくつか抜いてきては、絵や写真を見せてくれたりする。あとは想像してごらん、と目を閉じて、ときおりは人の冒険譚や、もしかするとクウハ自身のものかもしれない話を聞かせてくれた。
寄り道が楽しくて仕方がなくて、本の外にも無限に世界が広がっていくようだった。
〝……特別な猫、ケット・シーは愛しい家族を危険な場所に連れていくことをよしとせず、嵐の中、船に乗り込んだ。置いてきぼりの家族。海に濡れたネズミよりも哀れな彼らであったが、己を奮い立たせ、ケット・シーを見送ることにした〟
残された家族の肖像が描かれているページ。ふと、手が止まった。ケット・シーの家族は一瞬だけ悲しみにくれるものの、打ちひしがれず、ケット・シーの帰りを待つためにエプロンを身に着け、おいしいパイを焼き始めるのだ。……彼の好物のパイを。
それを見て、ミレイは急にさみしくなった。
ミレイは、大事にされていなかったわけではない。大好きな両親だった。むしろ、ミレイのために、両親は必死でお金を稼いでいて……。
「私、邪魔になってたりしないかな……?」
「気にすんな。
邪魔ならとっくに追い出してる。
それに、俺が姫さんを追い払ったことが一度でもあったか?」
クウハはきっぱりと、言い切った。
いちどだって、ない。
心の空白をすべてぎゅっと埋められたようだった。ミレイは微笑んだ。
一行、また一行。
二人で、冒険を追いかけていく。
あっという間に、愛しい時間は過ぎていく。
あれはなあに、これはなあに、と、文字を追っていけば、お話の世界は無限に広がっていく。本は、自由だ。ミレイをどこへだって連れ出してくれる。
ケット・シーは長い戦いの末に、無事にお姫様を助け出し……。
……そうしているうちに、ことりとミレイの頭が落っこちた。
「おや」
ミレイはいつの間にか眠りに落ちていた。かわいらしい寝息を立てている。こうやって心を開いてくれるのはうれしいものだ。
クウハは読みかけの本にしおりを挟み、そっと置きなおす。こちらの冒険の続きは、また別の話になりそうだ。
別の幽霊がやってくる。双子のパタパタ駆ける足音。部屋を覗き込んでお互いに人差し指を立て、大切に守られたお姫様を起こさないように、くるりと身をひるがえして駆けていく。
ひょっとしたらいたずらのひとつやふたつ、考えているのかもしれないが。それはこの愛しい姫が目覚めてからのことだ。
「クウハ……。待って、私も一緒に……」
「夢の中でも俺の後追い回してるのかよ」
微睡みの中。ミレイが見ている夢が幸福な夢であるようにとクウハは願う。優しく頬にかかった髪を払うしぐさを、眠っているミレイが知ることはないだろう。
けれども、夢の中でにっこりと微笑んだ。
「……どんな夢を見てんだろうな」
無邪気な少女。全身全霊でこちらに心を預けてくる少女。
さて、姫さんに見せるために、起きるまでに物語に登場したパイでも焼いてみようか。
クウハはブランケットをかける。やさしさは、幽霊にだって必要だ。
おまけSS『糖分はほどほどに』
「えーと、何々……セルリアックが2分の1に、あとはコショウ、それと……」
「「それと同じ分だけの血液!」」
古いレシピを解読しているクウハの横で、いたずら双子が茶々を入れる。
「どこまで読んだっけ? なーんてな。覚えてるさ、忘れられないもんでね」
「「隠し味にトカゲの黒焼き!」」
「入れねぇよ」
「丸々太った子豚も一匹。はぁ……吾輩、生前を思い出しますな。首がちゃんとつながっていれば……少々通り抜けても?」
自由奔放な幽霊たちが、思い思いにクウハの料理を見守っていた。
それぞれに幽霊としての生態は違い、味覚や生活習慣の違いはあるが、クウハの料理を楽しみにしているのであった。
「……料理はいいけど、ちゃんと見える位置を通って運んでね? それ、楽しみにしてるんだから。見るのを」
「えー、砂糖はカップで……カップで1杯? いや、仕上げぶんがあるからもっといるじゃねぇか。恐ろしいレシピだぜ、まったく」
まあ、死んでいたら、砂糖の量など些末な問題なのかもしれないが……。