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ペリドットの合図
登場人物一覧
――ねえ、先生。おまじないを教えてあげるね。
月の晩に好きな人を想いながらいつつ数えるの。それからお願い事を紙に書いて沈めるんだって。
――せんせえ、これは知ってる? 深夜五時の怖い噂!
昼休みは噂話に花咲く時間。恋に恋するお年頃。姦し、生徒達の語らう言葉を聴きながらシルキィはパソコンに向き直った。
室内には学生服姿の少女達と、白衣を身に纏うシルキィだけ。先生と呼ばれ、養護教諭を務める彼女は所謂『保健室の先生』だ。
柔いミルキーホワイトのロングヘアーを揺らがせる風は夏を忘れかけた秋の焦燥を孕んでいる。穏やかな風が入り込むようにと開きっぱなしにした窓からはカーテンを揺らす秋風と共に落ち葉が時折転がり込む。
くすくす。ささめきごとでも楽しむような生徒達の声を耳にして、11を長針で突いた時計を一瞥する。あの長針が0をぴたりと合わされば、室内の喧噪も波が引くように失われていく。
肌寒くなったと着用するハイネックセーターの上で揺れるペリドットネックレスは沈黙の美を貫き、一抹の寂しさだけを細い糸のようにおんなの頭のてっぺんから足先まで繋いでいた。そんな寂寞を打ち払うように楽しげに笑い合った生徒達が慌てた様子で廊下を移動し始める音がする。昼休みのランチを思い思いに楽しんでいた彼等が教室に戻る気配だ。
保健室を休憩所代わりにする生徒達に「そろそろ休み時間が終わるよぉ」と声をかける。「シルキィせんせえ」と甘えたような生徒達は可愛らしい。此の儘、昼の授業なんて気にせずにのんびりと好きな話しだけを楽しんでいたい――ああ、確かに其れもきっと楽しいだろう。生徒達の噂話はローレットが求める『仕事』二繋がることもあるのだから。
けれど、心を鬼にしてシルキィは生徒達を保健室から放り出した。「ぎゃあ」「せんせえ」と非難がましい声に手を振って扉を閉めれば、不満そうに教室へと背中を丸めて彼女達は戻って行く。
喧騒ばかりが満ち溢れ、言葉の溢れていた室内にしんとした秋の冷たさがやって来る。燦燦と差し込む太陽は未だに夏を忘れずに居るが、それでも室内に立ち込めた静寂がピンと糸を張り詰めさせ冷たい空気ばかりで満たしていた。
話し相手が居るわけでもない。積もる事務作業は山のようになる。次は、確か小学校五年生の健康診断があっただろうか。二学期が始まり成長の度合いを確かめたいと意気揚々と語る彼ら彼女らのかんばせを思い出すだけでシルキィの唇は三日月の形を作った。
キータッチの音だけが響き渡る。イレギュラーズとして忙しない日々を送っている反面、こうした穏やかな日常に溢れる事務作業は現実と乖離した印象さえ感じさせた。現実とは無常だ。人の命はあっけなく、水底に浚われて行ってしまうものだから――癒しの術を身につけて、ひとを救うために力をつけた。
それでも――
シルキィさん、と呼ぶあの声が聞こえないのは酷く寂しかった。「もしもし」と語りかければ何時だって擽ったそうな笑い声が聞こえてきた。
それも遠く、遠く。がらんどうの室内で過ごすのは耐え難くて学校での雑務を多く引き受けてしまったものだ。
喧騒に溢れていたあの屋敷に薄いカーテンのように下ろされた幕は日常を覆い隠してしまったかのような気配ばかりだったのだから。
(廻君――)
キミの名を心の中でひそやかに呼んだ。甘いささめきごとのように。乙女心は可愛らしいマリーゴールドのように花開く。
キミのかんばせを眺める事さえ出来なくては、胸の中心をナイフで抉り取られる様な恐ろしさばかりに満たされてしまうのだから。
紅い血潮が流れるわけでも、病に冒されるわけでもない。それでも悪夢に魘され続けるような心地の悪さは付き纏う。
シルキィはペリドットネックレスに触れてから伏せるようにテーブルに額をこつりとつけた。冷たい感覚に頭の芯が冷えていく。
今は学校業務の最中なのだから、憂いている場合ではないというのに。どうしても、寂寞は名前をつけることの出来ない関係性に絡み付いてくるのだ。
頭を振ってからキーボードに指を滑らせる。無心にならねば、どうしてもそればかりになってしまうから。
ちらりと時計を見上げれば14:55を差していた。遠く離れているようで、少し近いような。短針と長針はゆっくりと歩みを進めて行く。
部活動の声ももう直ぐ聞こえ始めるだろう下がり始めた時刻にシルキィはある程度の作業は済んだとうんと伸びをした。
こん、こん、とリズミカルなノックの音が響く。テーブル上の書類を区分分けしながら「どうぞ」と声をかければ控えめに扉が開いた。
そろそろと顔を覗かせたのは保健室で騒々しい声音を響かせるお決まりの顔だ。
「あのぉ、先生、転んでしまって」
「消毒しようねぇ、傷は洗ってきた?」
穏やかに微笑むシルキィに生徒はこくりと頷いた。部活動の最中に転んでしまったのだろう彼女の膝には擦り傷が出来ている。
消毒液と脱脂綿、絆創膏の準備をするシルキィの背中をまじまじと眺めていた生徒は「せんせえ」と間延びするように呼んだ。
「はあい?」
「先生、何かあった? 今日、あたしも思ったけど……皆がね、最近、先生が上の空だって」
どきり、と。音を立てた心臓が驚いた様に跳ね上がる。ぴょんと飛び上がった兎のように上手に心臓が着地した事を確かめてからシルキィははあと息を吐く。
「どうして?」
「なんか寂しそうだし」
見透かされてしまう感情は、身体の中を巡る血液のような、じぶんを動かす心臓の半分のようなそんな存在を失ったことに起因していたのだから。
きっと、誰の目から見ても明らかに気落ちしていて。「大切な人が遠くに行ってしまって、寂しいだけだよぉ」とシルキィは誤魔化すわけでもなくそう告げた。
「引越しとか?」
「そうだねぇ」
生徒達にとってはヴェールの向こう側に隠されている世界だ。一生涯知らなくても良い
保健室でいつだって穏やかに笑っているシルキィとて
怪異は、おそろしいものだけれど。彼が居なくなってしまうことこそもっと恐ろしい。
そんなシルキィの表情を眺めていた生徒は居心地が悪くなったように肩を竦めて「引っ越しかぁ」と呟いた。
「寂しいね」
「そうだねぇ」
キミの声を聞きたい。ペリドットのネックレスはことのはを届けてはくれないだろうか。
帰れども「おかえりなさい」と笑ってくれる人が居ない寂しさは、どうしても心をぎゅうと掴んでしまう。
大切な人は、いのちのはんぶん。身体の中を巡る血液のように、だいすきを廻らせてくれるひとだから。
処置の為に出していた道具を片付けながら生徒の言葉を思い出す。昼休みに、先程の彼女が噂話の様に話していたおまじない。
――ねえ、先生。おまじないを教えてあげるね。
月の晩に好きな人を想いながらいつつ数えるの。それからお願い事を紙に書いて沈めるんだって。
――その紙に花を挟むと良いんだよ。マリーゴールドを挟めば神様も気分をよくしてお願いを叶えてくれるかも。
可愛らしいおまじないだとシルキィはおかしくなって笑った。マリーゴールドの花のように、乙女心が花開けば逢いたいばかりが募るから。
がちゃりと施錠する保健室から飛び出せば、蚕のむすめは養護教諭ではなくひとりのイレギュラーズとなるから。
ローレットからの仕事は何かあっただろうかとaPhoneの通知画面をちらりと見つめた。
そんな事を思いながら、ふと、ポケットの中で指先をつついた紙の存在を思い出してシルキィは小さく笑った。
逢いたいの四文字は「さみしい」と同じ意味。ことのはにこめた願いは、彼も同じであればいいとそう願って。
今日は月が良く見えるだろうか。
咲いたマリーゴールドは可愛らしい。
花壇に揺らいだそれに己の心を寄り添わせてポケットの中の願い事共に唱えたいのは、彼の名前だった。