SS詳細
宵色にかくれて
登場人物一覧
●
波の音が寄せては返す。聞き慣れた音色は何処か遠く、移ろう視線は紫黒の髪に注がれる。
少しだけ開いた丸障子から銀月の光が畳に落ちていた。
卓上にひらく花札。白に赤と黒が織りなす象形化された絵柄。
あるいは、だからなのだろうか。流れる空気もふわりと揺れたように。
潮風と花の香。畳の編み目に並ぶ札。カス、雨三光、それから花見で一杯。
蜻蛉が艶やかな笑みで、膝を叩いていた。
「いや、約束はした。したが……」
十夜はどこか憮然とした面持ちで視線を上げる。交わる蜻蛉の艶やかな金瞳が弓なりに細められ。
蜻蛉は膝に小鼓を二度打つ。嫋やかな指先は、けれど力強い意思を主張していた。
「ほら、何だ、もうちっと物欲があっても――」
賭け事は得意な方だった。日陰に生きてきた十夜にとってそれは造作も無い遊び事だったから、大体の相手には勝てるだろうと踏んでいたのだ。目の前で微笑む月夜の君であっても、程よく良い勝負をして勝っても負けても軽い『願い事』を聞いてやれば良いと思っていたのに。
それがまさかの『膝枕』ときたものだ。
右目の黒子を見遣った十夜は先刻の言葉を思い出す。
「――うちと勝負して、勝ったらお願い事聞いてくれん?」
目の前の翡翠の瞳は煙管を燻らせながら口元に少しだけ笑みを浮かべた。
これは自信があるときの顔。きっと花札では負ける事が無いと十夜は思っているのだろう。
けれど、それは太夫の杵柄とでも云うべきか。
郭の中、美しい着物を纏い『恋人』を迎える。
歌に舞い、三味線や盤上の遊びも、仮初の愛が為。
花札とて、いかようにも『上手く負けられる』蜻蛉が、勝てぬ道理はない。
決して自分からは触れてはくれない十夜に対する、少しばかりの――そうこれは少しばかりの『意地悪』と切ない『期待』の戯れか。
「あきまへん、約束……こうでもせんと、膝枕させてくれへんし」
ほんのり頬を染め蜻蛉を見つめる十夜は口元を抑えながら小さく溜息を吐いた。
そろりと衣擦れの音と共に水の香りが濃くなる。
蜻蛉の膝に確かな重みが乗せられた。
――――
――
少しだけ硬めの髪を遊ぶように指を入れる。指の間から零れる黒髪。
その黒髪を割るように海色の魚の耳が生えている。
奇妙な感覚だと子供を宥めるように十夜の頭を撫で、蜻蛉は緩く微笑んだ。
ゆっくり引いては返す波の様に温もりが落ちて行く。
最も自分自身にも黒猫の耳が生えているのだから、同じようなものかもしれない。
「たまには、ええやない」
耳を擽るのは透き通る声色。思ったよりも近くに聞こえて十夜は畳の編み目を爪で掻いた。耳から伝わるのはそれだけではない。もう片側。着物越しに感じる膝の柔らかさ。
約束だと観念して膝に頭を乗せてみたはいいのもの。蜻蛉の方に向けるはずもなく。
赤い顔を見せるわけにもいかなくて、十夜は畳に落ちる月影を見ていた。
「……四十近いおっさんの頭なんて、触っても楽しくねぇだろうに」
いつもより緊張した声が十夜から漏れる。精一杯の『悪態』に、蜻蛉はにっこりと微笑んだ。
こっちを向いてなんて言ってしまえば、きっとこの重みは離れてしまうだろう。
掴もうとすると海の底へ逃げてしまう魚のように。
だからこそ『勝負の約束』をわざわざ取り付けて逃げられないように策を弄した。
遊び心と言ってしまえばそれまで。戯れに触れるだけ。
それでも、頭の上を流れる指先の重みは心地よくて。
十夜は翡翠の瞳を落とす。久々に感じる安らぎに暫く身を委ねた。
ふわりふわりと揺れるのは、銀月の光と瑠璃色の夜空。
夢現のハザマ。
ゆったりと心地よい波の音。
寄せては返す二人の心音(こころ)。
●
夢の中へ誘われ、金瞳に睫が陰る。紫黒の長い髪がはらりと落ちた。
膝に乗る重みに哀愁が広がる。ほんの一時の仮初めの恋人に、こうして膝枕をしたような。
そんな曖昧な記憶の一滴。
昔の事を思い出してしまったのは、きっとこの膝に乗る温かさのせいだ。
触れたいのに、触れられない。切ない心。
臆病なのはどちらだろうか。
これ以上望んでしまえば欲が出てくる。
待っているだけならば、自分自身が耐え忍べばいいだけの話だ。
期待して望んでしまった時、それは相手の枷となる。
その枷が重いと感じるか軽いと感じるかは人によって違うだろう。
蜻蛉はその枷を十夜に背負わせたくなかった。
一方的に押しつける事は可能かもしれない。
けれど、受け取って貰えなかった時の禍害に蜻蛉の心が耐えられない。
それならば、想っているだけでいい。
微笑んでくれて言葉をくれるのを待つだけでいい。
待つことは苦にならないから。
だから『傍に居るだけ』でいい。
想いを向けられるべき存在じゃないと十夜は自分に言い聞かせる。
己が仕草に一喜一憂する月夜の君をみていると胸が締め付けられるのだ。
日陰者として暮らしていた自分にとって、降って沸いた儚い光を思い出すようで――
悲しみを背負った彼女との日々が夢の中に流れていく。
ああ、その先には行かないでほしい。深い深い海の底に沈んで戻れなくなってしまいそうだから。
ぽちゃん――と水音が落ちて。
十夜は翡翠の瞳を勢いよく開けた。
「……ああ、何か夢を見ていたようだ、すまねえ」
謝りながらゆっくりと上体を起こす十夜。くたりと撓垂れかかるように蜻蛉の頭が降りてくる。
十夜は咄嗟に彼女の肩を支えた。これは意思のある行動ではない。
よく見れば首を支えることもせず、項垂れるように黒い髪が畳に流れていた。
「なんだ。寝てるのか?」
問いかけにぴくりとも反応しない蜻蛉を見て、十夜は小さく息を吐く。
仕方が無いと悪態をつく心の裏側、少しばかりの安心感を滲ませ十夜は蜻蛉を支えた。
●
いつの間にか眠ってしまった蜻蛉をゆっくりと横たえ、十夜は自身の羽織を被せる。
首が苦しそうだから、これは相手を思い遣る為だから仕方が無い。
そう言い聞かせて十夜は蜻蛉の頭を自分の膝に乗せた。
着物越しに柔らかい頬が当たる。さわり心地の良さそうな黒い耳と艶やかな長い黒髪。
「本当に……仕方のねぇ嬢ちゃんだ」
自分がされたのと同じように、十夜も蜻蛉の頭を撫でる。
柔らかい花の香りが蜻蛉の髪から広がり、十夜はより一層溜息を吐くことになった。
――からかわれているだけだ
蜻蛉の好意も。想いも。触れてしまえば何処かへ立ち消えてしまうものなのだ。
本気であるはずがない。
怖いのだ。失ってしまうぐらいなら。
最初から無かった方が。届かないものだと諦めてしまった方がいいに決まっている。
期待して叶わなかった時の絶望は、味わいたくない。
臆病すぎる自分自身に眉根を寄せた。
手を伸ばして足掻くには年を重ねすぎたから。そう言い聞かせないと際限など、無くて――
うつろう意識。蜻蛉は頭に温かさを感じる。
大きな手でゆっくりと繰り返される動き。
少しだけぎこちない。けれど、優しい撫で方。
ふいに、止まった手の動き。
頬に感じる指先は慈愛に満ちたもので。
蜻蛉は安心して、また深い眠りに落ちていった。
波の音が寄せて返して。
宵色に二人の想いは夢の中に遠く儚く消えていく。
雲掛かる月の如く、未だかくれて――