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いわしな日々
登場人物一覧
漁師に拳骨を食らったと思って夢から醒めれば、エンジェルいわしたちに頭を小突かれていた。
何事? 東からは爽やかな眩しい朝日。なるほど起こしてくれたのかと気付き、アンジュは皆のおでこにキスをしてあげる。
そうだった。今日は士官学校で日直の日だ。顔を洗って歯を磨く。手早く朝食の準備を始めれば、いわしたちはますます集まってくる。
食材はどれも当然いわしフリーだから、食いしん坊でおっちょこちょいのジョセフィーヌにも安心だ。だけど今日ばかりはゆっくり食べすぎないようにお願いね……だって今日は最後まで面倒見てあげられない朝だから。
慌ただしく登校の準備をしなくちゃならない日でも、身だしなみばかりは完璧に。だって、そうでしょう? あんまり下手な格好をして、いわしなんて大したことない魚だと思われてしまったら堪らない!
だけど化粧品や道具をエンジェルいわしたちが次々に持ってきてくれるから、ネイルやチークの色合いはもちろん、まつ毛の反り方にまで気を配る余裕ができる。もちろん、手のかかるジョセフィーヌも張り切って、除光液やらナイトクリームやらを持ってきてくれた……ごめんね、それは夜なら歓迎だからね。代わりにこっちのエンジェルいわしヘアピンを使わせて貰うね。校門に入る前に外しておかないと服装チェックで取り上げられてしまうから、つけられるのは登下校の間だけなんだけど。
登校中、やっぱり海軍さんは違うねぇと感嘆する眼差しが、制服と自分とに注がれる。清々しい朝に相応しい、背筋が自ずと伸びてゆく気分だ。こうやって心地の良い使命感に全身を奮わされる度に決意を抱く……いかなる国難からもいわしたちを守ることこそが、未来の士官たる自分の任務であると。だからいわし禁食文化の広がる達成感も感じさせて貰えるようになればいいな。今進めている研究が世に出れば、いかにいわしを大切にすべきか誰もが知るだろうけれど。
日直として授業の準備に勤しむ間にも。廊下で行き違う上級生や教官へと敬礼し、足を止めている間にも。思考の奥底では論文が組み上がってゆく。士官学校という厳しい場所じゃ、ともすれば気もそぞろだと鉄拳制裁が飛んできてもおかしくないというのに、それでも脳裏を駆け巡る
大丈夫。
その程度でボロが出てしまうなら、今の自分であることなんてとっくに諦めてたはずだから。
東にいわしなんて弱い魚だと笑う者がいれば強いと言い直すまで張り倒し。
西にいわしを食べる者がいれば物陰から呪ってイワ死兆を与え。
そんな士官学校生と読モの二足の草鞋を履く多忙な生活を今日まで耐えてきたのは全て……そう、この世のありとあらゆるいわしを大切に想う、生まれつきこの身に備わったかのごときいわし博愛のお蔭!
放課後は空中神殿を経由して、海洋から幻想のローレットへと向かう。校門まで向かう間には校庭の随所で各運動部のしごきの光景が目に入ったが、特異運命座標としての活動で部活動を代替できるアンジュには無縁な話。もしかしたら上級生の厳しい指導に音を上げる下級生たちは、そんな彼女を羨むのだろうか? じゃあ彼女の代わりに魔種と戦ってくれるのかと問われれば、誰もが死ぬ直前で許してくれる先輩のほうがまだマシだと答えるだろうけど。
もっとも当のアンジュは今日は魔種と戦うどころか、すっかりオフになりそうな気分だった。だって、今日はいわし関連の依頼がなさそうだから。
そんな日はローレットとその周辺の食堂を見回って、いわし料理を食べる者がいないことを確認したり、ついでに無銭飲食犯をしばいたり。けれども……そんなことしてばかりではいられない! 家でも可愛いエンジェルいわしたちが待ってるけれど、エルキュールカンパニーにはもっとたくさんの彼らが待っている!
「社長。先月の売上ですが……」
秘書からの報告を聞くのもそこそこに、アンジュは社屋隣の鰯舎へと飛び込んだ!
大きな部屋の中でひとまとまりになり、群れなして泳ぐエンジェルいわしたち。アンジュがその中央へとダイブしたならば、ぱっと広がるいわし玉。
幾匹かがその際に頬を撫で、アンジュを幸せでいっぱいにする。よし、これでいわし分の補充は完了。そのまま寝転がって自撮りをしはじめたちょうどその時、一度は散ったエンジェルいわしの群れは、今度はアンジュを中心に再び集まってくる。
まるで天使たちがこぞってアンジュにキスするような写真が撮れた。今月の会社広報誌の表紙は決まり。
はっ表紙……そういえば今日は『ザ・ラサヴィジョン』の表紙に使う写真を撮影する予定もあったんだっけ。時間は……まだまだ十分にある。学校と会社用のお固めメイクから、ラサのセレブ受けする派手めにお色直ししよう! ……会社の更衣室で!
時間よりちょっと早めに空中神殿のポータルを通過したならば、ラサでは既に案内スタッフが待ち構えていた。
今日の撮影場所は富豪のプール。砂漠では貴重なはずの大量の水は、殺人的な日差しを受けて目映く光る。
一緒に連れてきたエンジェルいわしたちの腹が、その光を受けてまるで銀色の宝石のよう。アンジュの髪もシルクでできているかのようだ……そのシルクの川にもエンジェルいわしが泳ぐ。登校時には外したあのヘアピンだ。
タダでさえ暑いのに長い間レフ板の光も浴びていたから、気付けばすっかり汗だくだった。富豪はプールを使って休むといいと気を遣ってくれたけど、今日の撮影はこれで終わりだ。アンジュ自身は構わないのだ……だけどパートナーのエンジェルいわしたちがそろそろ限界だろう。
撮影ギャラとお土産を手に、再び空中神殿から会社へと戻る。涼しい部屋でエンジェルいわしたちを十分に休ませたなら、彼らの体調をしっかりと観察して記録に残す。
愛を注がれたいわしがエンジェルいわしに進化するとする、アンジュの論文『エンジェルいわし・オリジン論』。その後どこかの邪悪な研究者が実験して発表をした、憎しみを注がれたいわしがデビルいわしに進化するとする『デビルいわし・オリジン論』。それらを受けて今度は先日の学会で、エンジェルいわしが憎しみを注がれるとフォールンエンジェルいわしに進化するのではないかと予想する『エンジェルいわし堕天仮説』が提唱されていた。
もしもその仮説が真実ならば、エンジェルいわしをペットとして可愛がろうという人は大幅に減るだろう。どんなにペットを愛する人だって、決してペットを邪魔に感じて放置してしまう時がないとは言い切れないだろうから。
万が一その魔の差したような瞬間に、エンジェルいわしがフォールンエンジェルいわしに進化してしまうとしたら?
そんな不発弾のような危険なペットを手元に置きたい者が、この世にどれほどいるのだろうか?
だけど今日の撮影を共にしたエンジェルいわしたちを診察したところ、命の危機にもなりかねない猛暑の中の撮影にもかかわらず、堕天の兆候はどこにも見られていない。もちろん、愛していないからハードな撮影をさせたわけじゃないのは、他ならぬアンジュが一番知っているけれど。
ただ、アンジュのこれまでの顧客調査でも、それらしい結果は見つかっていなかった。仮に堕天仮説が間違いではなかったとしても、極めてレアケースだという傍証になるはずだ。エンジェルいわしペットの管理に失敗して堕天させてしまうリスクより、いわし食がデビルいわしを生む危険のほうがよっぽど高い。もうちょっとばかりデータが集まれば、確かな形で論文が書けるはず……。
……でも、今日の研究はここまでにしよう。
放置された程度じゃエンジェルいわしは堕天しなくても、アンジュのほうが会えない寂しさで辛い。
「ただいま!」
そわそわと家へと駆け込めば、ジョセフィーヌが朝の約束どおり、除光液を咥えて待ち構えていた。ぎゅっ……と抱きしめてあげたいけどその前に、みんながキスの拍子に化粧品を口にしてしまわないように、メイクをしっかり落とさないとね!
夕食とかお風呂とかいろんなことが終わったら、ようやくみんなとのふれあいの時間。
今日はばたばたしてあんまり一緒にいてあげられなかったけど、明日はこんなに忙しくないはず。
だから名残惜しいけど……今日は、明日の朝までお休みなさい。