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IF//花が散るように
登場人物一覧
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柔らかな手。空に溶ける白糸。
それから。それから。
……嗚呼、夢か。
夢だと思ってしまう程に、夢で笑う彼女は、愛おしく微笑むのだ。
だから手を伸ばす。
微笑みかけて。大切だと言って。共に歩いて。君のどこがどれだけ特別であるかを飽きる程に語って。……それでもまだ足りなくて。
心から溢れんばかりの想いを伝えたい。
それなのに、どうして。
目を覚ましたとき、君に抱くのは嫌悪感なのだろう?
●
ほろり、ほろり。それは脚が崩れ去る音。
ひとの命が潰えるのはあまりにも早く。そして時の前にひとはあまりにも無力だ。
そしてそれは衰弱しきったネーヴェにも当てはまる。ぜえぜえと肩で息をし、かひゅ、と気管支から情けない音が漏れる。
久しく笑っていない口角と頬の筋肉は、自虐的に笑った女をたしなめるように痛んだ。
長らく履くことの出来ていない義足には埃が被り。今は雪が降るように埃が踊る部屋で、ひとり、死を待っていた。
背負った贖罪は。あまりにも重く。
そしてそれを支える両足は既に無い。
きっと手を差し伸べてくれただろう優しい彼には。何故か嫌われてしまった。
だから彼女は此処に居る。
知る人もなく。きっと彼女を知ろうとする人もなく。緩やかに。泥濘に落ちるように。そうして、ニ年を過ぎる頃が今だった。
自身を診てくれた医者に通うことも出来ず。……彼と出会うことがないように。そうやって、息をひそめて。遠ざけて。なるべく世界に己を晒さぬように生きていた。
情報は多ければ多いほど貴方が辿ることが出来てしまう。貴方が死ぬまでわたくしは死ねない。だから、だから生き続けなければ。それが贖罪だから。
そう、思っていたのに。
少しだけ時を戻そう。ネーヴェが、冬を越すことができない理由を解き明かそう。
あまりにも高い熱が続くものだから。なるべく頼らぬようにと決めていたのに、ついに医者を呼んでしまった。
それがいけなかった。そんなことならば呼ばなければよかった。
壊死した皮膚と皮膚下の神経から細菌が感染している。
投薬治療は初期段階なら可能だった。けれどあまりにも時間が経ち過ぎている。
もはや手の打ちようがない。大きな街にいかなければ、どうしようもない。
淡々と告げられた事実。ネーヴェの病的に白い肌を赤くする方法はもうない。せめてもの救いとばかりに掌に握らされた解熱剤は2ヶ月分。
「……街にいけば、あなたのそれは治るんですよ」
「いえ。いい、え。もう、街には。いかないと、きめて、いるのです」
「……そうですか」
健気なのか。愚かなのか。
熱を排出するためか。あるいは。生理現象だと片付けて、ぽろぽろこぼれだした熱い涙を拭う。きっと彼がいたなら、なんてこの期に及んですがってしまう自分が嫌いだ。
「……ありがとうございます」
医者に合鍵を渡す。
風呂に行くのも億劫で。寝たきりになることが増えて。
目を覚まして。デジタル時計で『今日』がいつかを確かめる。
毎日飲めと言われていた薬。もう何日さぼってしまっただろう?
せめて終わりくらいは彼のことを想いたくはない。
……嘘だ。死んだならきっと思い出してくれる。だから、死にたい。でも死にたくない。こわい。
捜さないでほしいと、離れるに最もらしい理由をつけて一筆したためておいたなら。一切を調べずに居てくれたのだろうか。わからない。
(そんなことを思っても、もう、遅いのですけれど)
だって体がひどく重たくて、指の一つだって動かせない。
呼吸で精一杯だ。
瞼を開けることも、難しくて。泥に飲み込まれていくみたい。
ほろほろと雪が降る日のことだった。
身体を起こす力もない。身体がやけに軽い気がする。……捲る余力もないけれど、下半身がまた崩れているのだろうと。解った。
死が近付いているのだろうと理解した。
ようやくこの苦しい生から解放される。そうして、貴方も。わたくしから解放される。
解き放たれたのならば。貴方はきっと、幸せな人生を過ごせるだろうか。あまりにも不確かで、確証を持つことはできそうにない。また笑みが漏れる。……癖だ。笑ってごまかして。寂しさを嚥下する。
(どうしたら、貴方が、幸せでいられたかしら?)
ネーヴェさん!
はつらつと笑いかけてくれたあなたの姿を想う。
(わたくしが死んでも、幸せでいてくれるかしら?)
……ネーヴェさん。ほら、こっちですよ。
熱を帯びた瞳と視線が絡まる瞬間を、思い出す。
力が抜けていく。
まっしろな大気に溶けていく。
(いつだって、願っているのです。貴方に幸あれかしと)
もう、息をするのさえ煩わしい。
瞼を閉じる。
息を大きく吸って。
それから、吐いて。
時が止まるようだ。
(クラリウス様、心の底から、大好きです。側にいる約束、守れなくてごめんなさい)
涙が一筋落ちて。
それは誰にも拭われることはなくて。
「ネーヴェさん」
「……くらりうす、さま」
「ああ……」
貴方が。迎えに来てくれたのですね。
それはある雪の日のこと。
誰にも知られることはなく。
誰にも気付かれることはなく。
……たったひとりのおんなが死んだ。
愛したおとこに会うことはついぞ叶わず。ただ恋していたのだと笑いながら。
雪の日に、とけて消えた。
同時刻より、少し前。
彼は。
彼――シャルティエは。彼女を思い出す。
きっと大切だったのに、嫌悪に蝕まれている感情。忘絆病だと医者は語っていたか。
彼女のために強くなりたいと願っていたはずなのに。
彼女がもう何も失わないように強くなるのだと誓ったはずなのに。
それに付随するのは気持ち悪いほどにくすんだ感情ばかり。嫌悪の前に抱いていた感情の色が解らない。
解らない、はずだった。
雪が降る。
彼女を思う。想い、思い出す。
治療法は。確か。
電話をかける。問いただす。
「っすみません、あの、ネーヴェさんは!!!」
「……思い出しましたか」
「そんなこと、……いや、そんなことじゃないんですけど。ネーヴェさんは、どこにいるかとかって、解りますか?!」
「解りません。それに、貴方が思い出したのなら――」
――もう、この世には居ませんよ。
「え……?」
電話が手からこぼれ落ちる。
この世には居ない。つまるところ死んでいるのだ。
あまりにも呆気ない返事。
「……なんだそれ。じゃあ僕が治ったって事は……ネーヴェさんはもう……?」
唯一の治療法。
嫌っていた。否、大切だった対象の死別。
唯一の薬。そして永遠の別れ。
永遠に嫌い続けるよりも幸せだったのだろうか? いいや、いいや。そんな筈はない。
だって。もう、貴方が僕の名前を呼ぶことはないのだから。
「嘘……嘘だよ。嘘でしょう? だってそんな。あんな酷い態度取って、それで終わり? あんな顔させておいてもう会えないって?」
酷く、不快だった。
その人の声も、姿も、視線も、何もかも。
記憶を辿っても理由も原因も分からず、それでもただ、どうしようもない程の不快感と嫌悪だけが湧いて来る。
大好きだった。大切だった。なのにどうして、こんなことに。
記憶をもっと辿れば良かった。そうすればもっと早く貴方を思い出せたかもしれないのに。
どうして名前を知っているんだろう。
彼女が僕の大切なひとだから。
不愉快だ。だから見ないようにして。聞かないようにして。
不安げに揺れる赤い瞳。上塗りされていく感情の名前は『嫌悪』。
不愉快なはずない。
彼女が不安な時は傍に居たかったのに。どうして気持ち悪いだなんて。あんなにも優しい瞳を、僕は拒んでしまったのか?
彼女を見ていると、胸の中にある空虚な気持ちまで掘り起こされる。
当たり前にあった物が跡形もなく消えたような、大好きだった筈の暖かさが思い出せないような、虚しくて冷たい感覚。
そうだ。当たり前にあったのは彼女の優しさで。それすらも拒んでしまったのだから、空虚になってしまったって仕方ない。
自業自得なのだ。
「……嘘。嘘だ!」
錯乱する。混乱する。
そして、心の底から。
酷く。動揺する。
死んでしまっただなんて。見てみないとわからないのに。
雪の降る街を走る。
「だって違うのに……不愉快な訳ない! 嫌いなんて、憎いなんて、そんな事……!」
涙がにじむ。
貴方に会いたい。
貴方に会いたい。
ただ、貴方に会いたい。
「僕は傍に居たかったのに……居て欲しかったのに、こんな、たかが病気の一つで! ふざけてるだろう!? ふざけるな、ふざけるなっ……!!」
寒い。
肺が痛い。
それでも走り続ける。
貴方がどこにいるかなんてわからないのに。
叶うなら。抱きしめて。謝って。どれだけ貴方が大切なのかを1から10まで伝えて。それから、それから。
伝えられなかった好きだを伝えたい。
もう、貴方はこの世界には存在しないのだ。
酷く痛い。
涙が溢れる。
どうして。
いかないで。
貴方が居ない世界なんて、これっぽっちも生きている理由なんて無いのに。
雪が降る。
この世界に貴方は居ない。
抱きしめることも。名前を呼ぶことも。出来ない。
(きっと、ネーヴェさんはこんな事望まない。きっと、僕の事を恨んですらいない。……分かってる)
熱い。
痛い。
寂しい。
会いたい。
(でも、駄目なんだ。僕はもう背負えない。耐えられない。罪も、罰も、……貴女の居ない世界を生きる覚悟も、ない。もう、無理なんだ……)
続ける理由も。生きる理由も。
何一つみつからない。
他の誰かなんかいらない。
ただ。貴方がいい。
(結局僕は、ずっとずっと最後まで弱いままで)
歩く。
宛先も。行き場もなく。
もう。心は決まっていた。
彼女の居ない世界にこれ以上長く居る理由はない。
(今だって償いの気持ちもなく、ただ歩くことが出来なくなって、全て投げ出したいだけで)
死んだ。
その事実が何よりもつらい。苦しい。
会いたい。会いたい。会いたい。
けど。きっと今会えるのは貴方の亡骸なのだろう。
一人で苦しんだのだろうか。自殺なのだろうか。
もうこんなに長く会わなかったことはないから。寂しくて。悲しくて。なにも考えがまとまらない。
(……もしもまた会えたら、呆れられてしまうかな。怒られてしまうかな)
長い剣は。
あの日貴方を守れなかった後悔よりも軽い。
この足取りは。
貴方が僕のせいで負った傷に比べれば、痛みなんてあってないようなものだ。
「ネーヴェさん」
貴方が恋しい。
「ネーヴェさん」
貴方に会いたい。
「ネーヴェ、さん」
貴方を想っている。
「ネーヴェさん……」
貴方に触れたい。
「……っ、ネーヴェ!!!!」
貴方に恋をしている。
もう届かない想い。
願っても。想っても。どれほど名前を呼ぼうとも、貴方には届かない。
金糸混じりの髪紐は。
貴方が誕生日にくれたものだった。
今はもう髪に結ばれることはない。あの日、全ての終わりを示すかのように切れてしまった。
(……それでも良いから、何を言われても良いから。どうかまた、貴女に──)
会いたい。
その日。
一人のおとこが死んだ。
大切だったおんなを想って。またその隣にある日を望んで。
けれど。嗚呼。そうだ。
たったひとつの治療法があった。
衰弱死であれ。病死であれ。自殺であれ。
忘絆病患者に忘れられた対象は。一度、死を帳消しにできる。
忘絆病患者が。
忘れた対象を想いながら死ぬこと。
「…………」
雪の日に死んだのは。
いったい、何だったのか。
誰の想いだったのか。願いだったのか。
そうして今息をしているのは、一体誰だ?