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雨、雨、俺達の心を濡らして<序>
登場人物一覧
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雨。
雨。
俺達を平等に、好き勝手濡らしていく。
そうして俺達の心に入り込んで隙間を教えるように縫って、抜けていく。
やめてくれ。俺達は、其の隙間を見ぬふりしてるのに。
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「リョウ、大丈夫か」
「ええ」
何てことないお使いのような依頼の帰り道、俺達は急な雨に降られた。
幸い負傷の類はなかったため、二人で近場の宿を目指す。家に帰るには少し遠い距離なのが憎らしかった。
最初はぽつぽつ小降りだからと急ぎ足だったのが、今ではバケツを引っ繰り返したかのように降り注いでいるために、走らなければ濡れ鼠になってしまう。――既に濡れ鼠とも言っても良い。
だけど、風邪は引きたくない。何よりリョウに引かせたくない。から、俺達は知っている宿場の軒先に奔り込んでなんとか雨を凌ぐと、髪を振るって少しばかり水を払った。
「……。テンマ、これ」
「え?」
差し出されたのはハンカチだった。
呆れたような表情のリョウが差し出している。
「使って。振った程度じゃ水は取れないわ」
「……いや、そっちが先に使えよ。風邪引くぞ」
「濡れたのはテンマもでしょ」
「そうだけど。俺は男だから、ある程度はそっちより丈夫だ」
あんまりこういう事は言いたくなかったが、矢張り男女差というものはある。
リョウは女で、俺は男。其れにリョウには余計な筋肉も脂肪もついていないように見えるから、余計に風邪をひきやすいかもしれない。
――少しの沈黙の後、リョウがハンカチで身体を拭き始めたのを確認すると、俺は宿の扉を開いた。何度か顔を合わせた事がある店主がおや、と声を上げる。
「テンマくんじゃないか。お姉さんは?」
「外で身体拭いてる。雨に降られたんだ、部屋あるか?」
「あるよ。今日はだいぶん空いているから、好きな所が使えるとも。一部屋? 二部屋?」
「……ふた」
「一部屋で良いわ」
二部屋、と言おうとして俺は思わず振り返った。
其処には桃色の髪からまだぽたぽたと滴を滴らせるリョウがいて。
――なんで。
「いや、二部屋で良いだろ」
「お金が勿体ないし、私たちは姉弟だから良いでしょ。店主さん、一部屋でお願い」
「良いのかい? リョウちゃん」
「ええ」
「……」
店主は困ったように俺達を交互に見ると、喧嘩だけはしないでおくれね、と言い置いて、プレートがついた鍵を一つ取るとリョウに手渡した。
何で。
何で、“一部屋で良い”なんて言うんだ。
「行きましょ、テンマ」
「……」
「ああ、タオルなら沢山あるからね。足りなくなったら出すから言うんだよ」
心配そうな店主の声を背に、俺達は無言で部屋に向かった。
●
……。
………。
あの後、リョウからタオルを手渡されて俺も渋々と身体から水を拭きとっていた。
心の中では、どうして、という言葉が渦巻いていた。
どうして俺と一緒の部屋で良いんだよ。どうして。俺はお前の事、一人の女として見てるってずっとずっとずっと、言ってるのに。
なあ。
問いたくて思わず顔を上げると、リョウはまるで俺の反論を封殺するかのように同じタイミングで立ち上がった。
「シャワー浴びて来るわね」
――……もう我慢できなかった。
俺はリョウの細い手を掴んでいた。
少し強すぎたのだろうか。リョウの余り動かない表情が、痛みに歪むのが判る。
判ってない、判ってない。
リョウは俺を判っていない。俺という男を判っていない。俺の中に燻る、ずっと燃え盛っているこの炎を判っていない。
「なんでだよ」
「何が?」
互いに苛ついているのが判る。
いや、或いは俺だけかもしれない。俺がどうしようもなく苛々しているから、リョウも同じだと思っているだけかも知れないが。
「なんで一緒の部屋にしたんだ」
「なんでって……お金が勿体無いからよ。二部屋借りたら、二倍要るでしょう。経費では落ちないのよ」
「だからって、男と二人で一部屋なんて」
「言ってるでしょ、私たちは姉弟なんだから」
「俺は姉弟だなんて思ってない」
はっきりと言ってやった。
この女には、鮫島リョウには、はっきり言ってやらなきゃ判らない。俺も甘えていたのかもしれない。生温い湯のような関係に。弟のような、恋人のような、何とも言えない関係性に、俺も甘んじていたのかもしれない。
そんな俺自身を殴ってやりたかった。
俺がこうやって安穏としている限り、リョウは俺を男として見てくれない。ずっと、俺は“リョウの弟”のままで踏み出す事なんて出来やしない。
本当なら踏み出してはいけない。そんな事判ってる。俺達は姉弟で、間違っているのは俺の方だ。
どうして恋をしたのがリョウだったんだろう。もしも、リョウが……例えば近所に住んでいる“血の繋がっていない人”だったなら、何か違っていたのか?
俺達の間に聳え立つ“血縁”という壁は何も言ってくれない。
一瞬手の力が緩んだ隙に、リョウが逃げていく。するり、と其の白い手が俺の手を抜けていく。
「シャワー、浴びて来るから。帰ってきたらテンマも浴びるのよ」
扉が開いて、閉まる。
……俺は頭を抱えた。正直に言うと、雨に濡れたリョウを見る事すら出来なかったのに。この上湯上りのリョウを見なきゃならないのか。
青臭いと言われれば其処までだが、俺は……俺は、本当に、リョウを大事にしたい。其の場の情動だけで傷付けたくなんて、ないのに。
リョウの手を掴んでいた手を見る。痛んではいないだろうか。――でも、俺だって。いっそ二部屋にして俺を避けてくれたら、何も言う事なんてなかったのに。
鮫島リョウという女が判らない。俺を避けているのか、受け入れているのか。俺の事を弟として見ているのか、其れとも男として少しは意識してくれているのか。
何もかも判らなかった。
ただ、雨だけが降り注いでいる。先程より強く、豪雨となって部屋の中にまで降り続く音が聞こえていた。
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リョウが戻って来て、無言のまま俺はシャワーを浴びに行く。
湯上りのリョウを見て衝動に身を任せるのが嫌だったし、……少し冷えていた、というのもある。
シャワーがいっそ、俺の恋心ごと流してくれれば良いのにとずっと懊悩している。
ぱたぱたと落ちていく水滴に、俺の恋心が滲んでいやしないだろうか。そうしてこのシャワーを浴びて戻ってきたら、俺はすっきりとリョウの事を姉として――
「……無理に決まってんだろ」
拳を握った。
リョウの瞳。春の空を映したような薄青。リョウの唇。最低限の手入れしかしていないのにとても綺麗な桃色。リョウの肌。滑らかな、俺のものとは違う白。
リョウ。……俺の姉。……俺が、想う人。
忘れられる訳がなかった。ずっとずっと、狂おしいまでに慕うこの心を抑えきれる訳がなかった。俺は、リョウが好きだ。ずっとずっとずっと、想い続けてきた。赤子を抱いて、二人の間に子が生まれたらなんて想いもした。いつだってあの薄青い瞳に吸い込まれるんじゃないかと思った。
リョウは俺のたったひとりだった。
俺のたったひとりのひと。たったひとりの愛する人。
このシャワーに魔法が篭っていたって、俺の想いを拭える筈なんてなかった。
――のに。
リョウはきっと、俺の事を弟だとしか思っていない。
手の掛かる、少し我儘な弟。そんなところか? 思わず自嘲の笑みが漏れた。“あんたが好きだ”と我儘を言う弟が何処にいるんだよ。
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シャワーを浴びて、髪をタオルで拭いながら部屋に入る。
リョウは「お帰りなさい」と言った。宿の人が用意してくれたのだろうか、軽装を纏っていた。
「……其の服は?」
「宿の人が貸してくれたのよ。テンマにもあるわ。…サイズは合わないかもしれないけど、って」
リョウが視線で示す先には、俺がさっきまで座っていたベッド。上に服が置かれている。
……まさか此処で着替えろっていうのか。
「……なあ」
「何?」
不思議そうに首を傾げるリョウ。
判っていない。何も、判っていない。
俺がどうして“着替える事を躊躇うのか”も、何も。判っていない。
「……なあ、リョウ」
俺は服をベッドの端に避けると、そっと座った。
荒っぽくならないように。詰問にならないように。俺はぐっと奥歯を噛み締めてから、向かいのベッド端に座るリョウの目を見た。
「俺とリョウは、どういう関係なんだろうな」