SS詳細
ポールナチ
登場人物一覧
陽も差さぬ場所に草花は育たない。高く全てを隔てた壁は常人が立ち入ることさえも赦しはしない。巡回する看守の靴音のみが高らかに響くその場所で
それも、可笑しな話だ。殺し屋一団『ルイバローフ』と云えば聞き覚えのある者も居るかもしれない。その一味であった少女は殺しに手を染めてこの場所に収容されたのだ。
幻想王国の暗部、淀む停滞の澱で貴族に搾取される側であった幼い少女は荒ら屋の中から救いの手のように殺し屋の手を取った。殺し屋達からすれば道具でしかなかったのだろうが
永遠を思わせる牢獄。絶海の孤島にぽつねんと立っているという監獄。其処に変わり者の看守がいた。囚人との交流を好む何とも奇妙な男だ。囚人を番号で区別する島で看守は最初に彼女の翼を褒めてから名を問うた。彼女は――
「名前は決まったか?」
「いえ」
首を振った少女に「そうか」と看守は頷いた。雨風を凌げ、食事が運ばれてくる。硬いとは云えどもベッドまでも存在し、ある程度は清潔なリネンが供給される以上は何の文句もなかった。外に出たくはないと言えば嘘になるがぼんやりと高い位置の窓から差し込む光を眺めるだけで満足だったのだ。いや、少しの下心はあった。真面目に、波風を立てずに過ごせば模範囚として情状酌量の余地が生まれる可能性に期待していた。故に看守に対しても利口に振る舞っていたのだ。
食事を終え、空を眺めてベッドに滑り込む。代わり映えもしない一日であったと瞼を閉じた少女の耳に喧噪が響いた。
脱獄を求めた男が看守を殴り倒したらしい。こんな場所だ。牢の鍵を開けることが出来る者は多い。少女とてその一人であった。
騒ぎの中心で脱獄を狙った男が地へと這い蹲り無数の看守に足蹴にされている。腕の骨が拉げようと、頭蓋が陥没しようと、人としての形が変わろうともこの場所では関係などない。そもそも人権などこの場所では保証されていないからだ。死したならば窓から投げ捨て海獣の餌となるだけである。
濃い血潮の気配に囚人達の心はざわめいた。祭り騒ぎだと云わんばかりに飛び出した者達は自由に島内を歩くことの出来る看守達へと暴行を加え始める。少女はその中に何時も声を掛けてくれる男が存在している事に気付いた。軀の小さな少女に手を伸ばした囚人から彼女を護るように男は盾となり喧噪へと飛び込んで行く。
どうして、と問う隙も無いほどに男は少女を守る事だけに注力していた。「子供に手を出すな」と男は叫ぶ。
看守の男はコンバットナイフを手にし応戦していたが、そのナイフが手から転げ落ちたのだろう。少女の前へと音を立て転がってくる。無数の囚人の影に飲み込まれ、伸ばされた腕だけが少女の視界に入る。下品な笑い声と久々に与えられた自由に囚人達は興奮を隠すことが出来やしない。
無数の人が死にゆく様を少女は呆然と眺めていた。人波から転がり出てきたのは見慣れた男であった。
「ああ、囚人番号――」
男は蚊の鳴くような声でそう云った。
「違う。名前は……チェレンチィ」
少女は囁くように云った。とある人が物語の登場人物の名前を与えてくれたのだ。気に入ってはいた。薄汚れた罪人の檻でその名を名乗ることも憚られたそれを久方振りに口にする。
「良い名前だなあ、チェレンチィ」
笑った男のかんばせから血の気が引いて行く。傍らに立っていた少女――チェレンチィは男が死の際に存在することに気付いて居た。
此れまで無数の命を奪ってきたのだ。分からぬ訳がない。人が死ぬ刹那の様子。今まではそれが仕事の成功を顕わしていた。だが、此れは。
チェレンチィは男の手をそっと握った。空虚な想いだけが胸を締め付け、喉奥から掠れた声が漏れた。チェレンチィは男の名を知らず呼びかける事もできない。
呆然と死に至る男の軀を見詰めているチェレンチィの耳にかつり、かつりと音が響いた。その靴音こそがこの小さな世界の全て。この小さな世界の象徴であるとチェレンチィは知っている。その靴音が聞こえれば喧噪は止み場は静まり返る。
「ハウラは死んだのかい」
ハウラ、と。この男はそんな名をしていたのか。
「お前は……ああ、ハウラの気に入っていた翡翠のおん――坊主か。看取ってやったのかい?
相変わらずお人好しな男だよ。ガキを殺して収容された癖に反省してガキを護るんだとほざくだけの事はあったんだねぇ」
女、と口にしなかったのは声の主がチェレンチィが女であることを不都合であると認識していると察したからなのだろう。対する相手は女であることを武器にしている筈だ。
チェレンチィは唇を震わせ、声の主を――その悪辣な薔薇を呼んだ。
「
女の切れ長の眸はチェレンチィを見下ろして擽るように笑う。その声音は心の弱い所を撫で付けて、的確に女の存在を刻みつける。
「人死ににゃ慣れてる筈なのに酷い顔だね。けれど、気に入ったよ、
彼女は敢えてチェレンチィを男として扱うことを選んだのだろう。監獄の主がそう云ったからには誰もがこの場所ではチェレンチィに手出しは出来まい。
囚われた身でありながらこの場所の絶対的権力者である女は落ちていたナイフを拾い上げ、手渡した。
「このナイフの持ち主は子供を無数に死に至らしめたのさ。その癖、その奪った命の分まで救って見せるだなんて莫迦みたいな思想に至って此処で死んだ。
お前もそうだろう? 今まで人を殺してきた癖に、誰ぞの死で心を痛める時が来る。その時、どうするだろうね、このナイフで自刃を選ぶかい?」
チェレンチィは震える手でナイフを握りしめる。唇がかたかたと揺れた。女の言葉が心に突き刺さり、心臓から血がぷつりと溢れるたかのような恐怖が身を包む。
自由奔放に振る舞い、悠々自適に暮らしている奇しき薔薇。人の死を踏み台に、生を貪る在り方は憧憬の傍らに強い畏怖を感じさせた。
「――分かるかい? これは『慈悲』だ。
死をも自由に選べる慈悲。この監獄は死すら自由に選べやしない。
けれどね、囚人。このナイフを手にできたという事は自分で死を選ぶ選択が出来ると言うことさ」
奇しき薔薇は唇を吊り上げ笑ってからチェレンチィの頬を撫で、その場を後にする。遺されたのは男の亡骸と、座り込んだ儘の囚人だけだった。