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毒に砂糖
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その幽霊は鍋に入れた苺のジャムの面倒を見て欲しいと言われた。
この屋敷の者は、皆、善い者ばかりで、皆笑顔で客人を迎え入れ、使用人を丁寧に扱い、時に共に屋敷で掃除や料理を自ら行った。
ここには、手伝いで動く妖精も居れば、からかいに来る、ここから少し離れた町の妖怪も居る。
それらを全て朗らかに受け入れる優しい空間、なめらかで甘い飴を転がすような心地の居場所。
だから、屋敷の者から、この鍋の中の苺に、苺と同じ量の砂糖をまぶして煮て欲しいと言わたら、当然皆従う。
幽霊だというのに実体のある『それ』もまた同様で、隣でジャムを入れるための瓶を洗っている妖精が、味見しちゃだめよ、と言うので、幽霊はその通りに従った。
この屋敷の誰もが知っている、この幽霊は勝手に味見なんかしないし、言われた通りのことをやってくれる、善い者だと。
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幽霊が屋敷に迎え入れられたのは、冬の日だった。
ともすれば手や足が凍りついて、やがて腐ってしまうのではないかと言う寒さの中、屋敷の付近は雪で道が塞がれてしまい、行く宛もなく佇む幽霊を、家人が見かねて招き入れた。
実体のある幽霊は不明瞭な部分が多く、寒くないか、腹は空いてないか、と家人はあれこれと聞き、結局本人の返事を待たずして、暖炉の火に薪を焚べ、毛布を被せ、少し冷めていたシチューを温めて食べさせた。
幽霊は自分がどうしてここに居るのか、それすらも不明瞭でもあったが、シチューが温かく美味しいことに違いはなかった。また、家人は苺のジャムを入れた紅茶も飲ませた。甘く染み渡る味と暖かさのそれに幽霊の体は芯から暖まるようだった。屋敷の長は、泊まる場所がないのならばここに居なさい、春までもう少しかかるから余所に行くことも厳しかろう、と言った。
善い者のふるまいに、幽霊は有り難くその言葉を頂戴し、ただ居座るのも心地が悪いから、雪解けまでここで働くことを申し入れた。屋敷の長は快く受け入れた。
しかし、厳しい寒さの中で、幽霊の手と足はしばらくうまく動かないのではないかと家人は心配した。まずは体を温めて元気になりなさい、屋敷の長がそう言うと、屋敷のいちばん末の男子がぼくの部屋に来るといい、ぼくの部屋は広いからと言って、余っているベッドを入れて、二人で住むことになった。
広い部屋に暖かさを届けるための、いっとう大きい暖炉の火に薪を焚べながら、末の男子は、ぼくはりっぱになるから、きみはその時にいちばんに使ってやろうと言った。ぱちぱちと燃える暖炉の前に椅子を引いて、そら、手と足を暖めてごらんと示す。それでも尚ひんやりとする手に小さく暖かな手が触れた。
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その幽霊は日毎に屋敷の者と親しくなっていた。特に同室の末の男子は幽霊に懐いていた。
末の男子は簡単な玩具をこさえて、幽霊に遊びを提案したり、幽霊に自分のおやつを分けたりもした。幽霊は、末の男子の、悪いものをやっつける玩具遊びに付き合い、貰ったおやつの甘さを噛みしめる。
冬が過ぎて雪が溶けると、町の住民が訪ねてくることがあった。幽霊は詳細こそ知らないが、この屋敷の長は町の者の相談役らしいということは分かっていた。なぜなら、屋敷の長を訪ねたあとは、妖精も、妖怪も、自分以外の幽霊ですら、皆笑顔で去っていくからだ。しばしば出かけている上の男子と真ん中の女子も、帰ると笑顔だった。幸せそうだった。
春が過ぎた頃には、幽霊はもう余所の町の借家を借りることのできる程度には資金と信頼を得ていたが、屋敷を離れる理由が特別無かったし、ここには善い者しか居ないので、尚更離れることもなかった。
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春と夏の中間の頃合いに、屋敷では苺を作っていて、厳冬に備えて今の収穫期にジャムにする、と幽霊は教えられた。
あの冬の日、紅茶に入れられたジャムはそれか、と、幽霊が理解すると、真ん中の女子と末の男子が苺の農園へと幽霊を連れていく。そうして真ん中の女子が苺を摘んで、食べてご覧なさいと言う。口に入れると甘酸っぱさが広がる。甘いでしょう、でも物足りないでしょう、と真ん中の女子は言い、ジャムは砂糖と苺を同じくらい入れて煮詰めるから、とても甘いの、と得意げに言った。今日、広い農園での苺を一斉に摘むから、あなたも手伝ってねと言われて、幽霊はそれに頷いた。
苺摘みは骨の折れる作業だったが、幽霊は善く働いて、他の使用人達も同様だった。また屋敷の長、上の男子、真ん中の女子、末の男子、親戚郎党といった、家人もそれに加わった。皆でやるから美味いのだ、と上の男子は笑い、そら、お前も苺のひとつふたつ食べていいぞと言って、幽霊の口に詰め込んだ。
上の男子は気前の良い男で、真ん中の女子は御転婆ながらも気品のある女だった。末の男子だけ年が離れていて、屋敷の長の死別した妻のあとにできた後妻の子だという。末の男子は幽霊に、自分は家族にあまり似ていないんだ、自分はどこか皆から離れているんだと言った。後妻はあまりこの家に馴染めず、早々に末の男子を置いて去っていってしまったらしい。
だからなのか、幽霊が上の男子や真ん中の女子に構われると、末の男子は幽霊を取られたと頬を膨らませた。しかし、皆善い者であるから、それを微笑ましく見て、幽霊に、そら、末の男子を構ってあげなさいと言った。
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幽霊は煮込まれる苺と砂糖が溶け合ってジャムになるのを見ていた。火加減も見ておかなければならない。煮えるそれに、末の男子が、ああ、それじゃあ、砂糖がちょっとだけ足りないよ、と言ったので、手渡された小瓶から砂糖を入れた。それから、明日、瓶に詰めたジャムを家人が食べるから、きちんと瓶に詰めるようにと言った。
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一族郎党が倒れているのをいちばんに見たのは、重たいものがいくつも落ちる音を訝しんだ幽霊だった。
食堂は、ジャムの入った紅茶が、机からこぼれ、滴り、ジャムの瓶は倒れて、中身はべちゃべちゃと断続的に鈍い音を立てて、床に落ちていた。何が起きているのか把握する前に、唯一起きていた末の男子が悲鳴を上げた。
ああ大変だ、きっとジャムに毒が入っていたんだ!そうして慌てて駆けつけた使用人達は一様に幽霊を見た。
この屋敷の誰もが知っている、この幽霊は勝手に味見なんかしないし、言われた通りのことをやってくれる、善い者
善い者でないものは、この屋敷に不要だった。皆、幽霊に実体があることをいいことに、殴り、蹴った。何も、誰も、分からなかった。ただ、ジャムを見ていた幽霊が毒を混ぜたに違いないとして、床に這いつくばらせて、幽霊にジャムを食べさせた。明確によくないものだと分かるそれに幽霊は吐き戻す。そうして、その一連に加わらない末の男子を見た。末の男子はぱくぱくと口を動かした。
ありがとう、と。
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ぼろぼろになった幽霊は、家人の死骸が運ばれていくのを見ていた。実体があるとはいえ、幽霊をどう処刑しようと相談している者たちは、時折、末の男子に、きみだけが生き残って可哀想に、と言った。周囲の善い者であったはずの者達は、幽霊にとっては、ただの理不尽な加害者に豹変した。幽霊への醜いものを見るような目は、数刻前の、あの善い者たちと同一とは到底思えないものだった。
末の男子は、もう幽霊は動けないだろうから、ふたりきりにさせて欲しいと言った。幽霊に裏切られて、さぞつらかろう、好きに扱えば良い、但し危なくなったらすぐ呼ぶようにと、使用人や近所の者は一度退散した。
それを見届けると、末の長男は幽霊の前にしゃがみこんで囁いた。
屋敷の長はぼくのお母様をすぐ捨てて女を漁っているから、ぼくと一緒だったお母様のぶん部屋は広かったんだよ。上の男子は屋敷の長と女癖はそっくり!真ん中の女子は男をたぶらかしては破滅させてる。それに、この屋敷に来る人が、なんで皆笑顔で帰ると思う?他人に悪さをする知恵を、屋敷の長が与えるからさ。この家は、代々そうしている。あの小瓶のような毒も、その手合で家にいくつもある。
ここは、善いふりをしているだけの悪い家だ。
それが真実か幽霊はとうとう分からなかった。だって皆、幽霊から見れば善い者たちだったから。善い者たちだったから?でも、自分を殴って、蹴った。善いと思っていた者たちは、皆、今は自分の敵だ。
末の男子は、ここに善い者なんて居ないと言った。ぼくも善いものなんかじゃないし、きみもどうせ善くないものになる。
みんな、みんなが醜くて、この世界はどうしようもない。げんに、根拠もなしに、あいつらはきみを殴って、蹴った。
幼いこどもはそう世界を悟っていた。それはこのこどもの主観でしかないが、少なくともこの狭く閉ざされた屋敷の世界は、毒に砂糖をまぶしたようなものだったらしい。
末の男子は幽霊の手を優しくとった。
あの冬の日の暖炉の前と、同じの手の暖かさ。
ぼくはりっぱなことをした。この家は醜いから、ぼくが全部なくした。
約束通り、きみを使って!きみが味見をしなくて良かった。さあ、逃げるのなら今のうちだよ。
それは、しばらく共に住んでいた者への愛着故なのか、罪を曖昧にするための方策なのかは知れない。
ただ、幽霊は、そこから逃げ出した。逃げる他なかった。
善いもの
痛む全身と、胸に軋むなにかによって、陽が落ちゆく中、その影を色濃くした。
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毒に砂糖をまぶしているのか、それとも、砂糖の上に毒を塗っているのか、その事実を知るのは毒と砂糖を持つ本人だけ。
べとべとと床に落ちていったジャムと同じように、記憶が断続的に降り落ちていく。
この記憶はいつごろのものだったろう。
ともあれそれが毒だろうと砂糖だろうと、その事実を舌の上で転がして飲み下せるほどには、時は経ち、そして朽ちている。