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オヒトヨシとヒトリヨガリ
登場人物一覧
「琉珂」
名を呼ぶことを緊張したのは、彼女自身の立場が宙にぶらりと浮かんでいるような奇妙な感覚を覚えたからだ。覚束ない足取りで綱を渡っているかのように繊細な立場に置かれた少女はまだ20歳にも満たないらしい。
「零さん、で良かった?」
「……あ、ああ」
灰燼と化した道、青い草木の萌える気配も口を閉ざしたように静まりかえったアルティオ=エルムの小道で振り向いた少女は立ち竦む零を見詰めてから「座る?」と問うた。苔生した岩に腰掛けていた少女は広げていたハンカチを譲るように一度立ち上がる。
「琉珂のスカートが汚れるぜ」
「そんなの構わないもの。零さんのズボンが汚れちゃう方が気になっちゃうかも」
へらりと笑った若い木々を思わせた眸に僅かな痛ましさを感じて零はゆっくりと琉珂が示した場所に腰掛けた。自然と共に生きてきた覇竜領域の少女。亜竜集落の中でも最も巨大なフリアノンの姫君と揶揄うように呼ばれた年若い里長は零の傍らに腰掛けてから「どうかしたの?」と問い掛けた。
どうかしたから、やってきた。そんな事くらい琉珂だって分かって居るだろう。少なくとも零に思うことがあったのは確かなのだ。あの時、あの瞬間、彼が何をしたのかを目の当たりにした琉珂ならば――
零なりに考えたことがあった。それは出来ない可能性の高い理想かもしれない。理想とは叶うことがないからこそ想うことが出来る最善だ。木々を目にして森となるように願うような、考え得る最善を其処に産み出す事の出来る人間の想像力の賜でさえある。
万が一、億が一、兆が一。そんな絶望的な数字を数えてでも可能性があるならばやってみたいと考えたことがある。
それを為すならば琉珂がどう考えるのかを聞きたかったのだ。独善的だと言われたならばそれも飲み込む気でやって来た。
零の眸が琉珂を眺める。明るい桃色の髪に、淡い若葉の茂る眸。愛らしいお姫様を形作った亜竜種の少女は零に応えるように向き直って「オジサマの事でしょう」と唇を震わせた。
「……そう。想っただけだから戯言だって聞いて欲しい」
「うん。良いわよ。夢って語るためにあるものでしょうから。アナタの考えた理想を聞いて私だって夢を見たいもの」
零は頷いた。冠位魔種とはつまりは反転してなったのではなくそう生まれ落ちたのだろうと認識していた。詰まるところオールドセブンと分類された純種なのではないか、と。
その思想が正しいのかは分からない。彼の在り方がそもそもが『そう』であったならば冠位暴食と呼ばれた男を只の人に変化させることが出来るのではないか。
「叶いそうなこと?」
「いや、出来ない可能性の方が圧倒的に高いと思う。高いけれど、やれるならやってみたかったんだ。
……いやまぁ、あんだけ啖呵きってたのは視てたし、俺も居たから知ってるけどよ、わざわざこれ言うのもあれかと思ったが……一応、伝えときたいなと思って。
無理そうってんなら聞かなくても、この先のことは全然聞かなくっても良いんだけどさ」
「聞く」
琉珂はぴん、と背筋を伸ばした。分の悪すぎる賭けだ。それでも聞くと彼女が言うならば、零とて語らないという選択肢はない。
聞かせて頂戴よと真っ正面から向き直った彼女の声が震えている。父代わりだった存在の手酷い裏切りを前にしたばかりなのだ無理はしないで欲しいと告げれば琉珂は首を振るだけだ。
「ベルゼー……まぁお前のオジサマの事関連だけどよ。アイツ言ってたよな、『『そう』作られた以上は、『そう』あるだけ』って。
あの言葉にな、俺は正直腹が立った。あの野郎其れを理由に何も語りやしねぇんだよ……! あれ絶対其れを言い訳にしてるだけで言ってねぇだけじゃん!! ってよ」
「うん」
「だから俺は考えた、『そう在る』ってんなら、其処から引きずりおろせねぇかってよ。……人に、変えられないかなって、冠位でもなく、唯のベルゼーに」
それは、と琉珂の唇は震えた。無理だと思うと彼の思考を否定するだけならば簡単だった。
魔種から人に転じさせるという奇跡。其れを為そうとした少女がいた。琉珂にとっても仲良くしようと笑いかけてくれたトモダチの幻想種の少女だ。
彼女が命を賭して願った不完全な奇跡は時限式で、その状態を少なくとも保持するために眠りの淵へと向かうのだと耳にしていた。
琉珂の頭に過ったのは零が、彼に同調した誰かが命を賭してでもそれを成せなかった時の話だ。琉珂とて大切なあの人のためならば命を賭したいと願う事は容易だ――それでも、珱・琉珂は『里長』であるから。その様に簡単に命を投げ出せるほど、己は安くないと知っていた。
「まぁぶっちゃけ出来ないかもしれないし、無理かもしれない、でもやらなきゃどの道できやしねぇしさ。
……お前的にやめてほしいってんなら、俺はやめるし、倒すことに注力する。
けどお前が止めねぇなら……やれるだけやってみる、無理だったら期待させといてこのざまって事で謝るしかねぇんだけどな」
「私はね、それに期待はしないし、信じる事も出来ない。その癖、零さんを止める事も出来ないの。臆病だから。
パンドラの奇跡は命を賭して成せる事。強欲に願えば、叶うかもしれない。けど、零さんが死ぬ可能性だってある」
琉珂は肩を竦める。自分には零に「信じるから死んでくれ」と口には出来ない、と。自身が里を背負う立場である以上、同調して共に命を擲ってまでという覚悟さえ出来ない。
「いいよ。これは俺がさ、考えただけの話で琉珂に一緒に死んでくれなんて言いに来たわけじゃないし。
……それにやっぱ俺、アイツがめちゃくちゃ悪いってどうしても思いきれねぇんだよ、アイツなりの方法で抗ってたから、今のお前らが居るって事だしよ」
「そうね。私もオジサマは悪人じゃないと想う。けれど、善人でもないでしょう?」
琉珂の言葉に零はひゅ、と息を呑んだ。どういう、と言葉を震わせれば琉珂は困ったように頬を掻く。
彼は彼なりの方法で亜竜種を護ってきてくれていた。アウラスカルト等に言わせれば「お人好し」「弱者を庇護したがっているだけ」であったのかもしれない。それでも、ベルゼーが与えてくれた愛情が琉珂にとっては大切なものであったことは確かだった。それは確かであろうとも。
「あの人は、私達を護ろうとして誰かを犠牲にしようとしたわ。
次はカロンに手を貸して深緑を――それは私達を護る為だった。オジサマにとって大切な愛すべき同胞を生かすためだった。
分かってるわ。私だって里のために天秤に掛けろと言われたらそうしたかもしれない。それでも……深緑に生きる人だって居た」
もしも、深緑という場所をその目で視ていなかったならば琉珂だって、里を選び抜いただろう。
琉珂は苦しげに呟く。零にとっての愛しい人の大切な場所なのでしょう、と。その場所を眠りに閉ざし、蹂躙し、住まう人々全てと共に終を求める事に力を貸したその人を悪人ではないと言葉に出来るのかと。
「一歩間違えれば……私達が負けていればオジサマはアルティオ=エルムを竜の息吹で包み込んでしまったわ。
大樹ファルカウは眠りに閉ざされて、幻想種は静かな眠りと共に終わってしまった。永遠の夢を見て、そして静かにこの場所が朽ちていく――!
だから、私はオジサマを悪人だと思って居なくても善人なんて想ってないわ」
「それは……そう、だ」
零とて大切な妻にとっての故郷を喪うところだった。抗って戦って、そうして得た勝利の上でベルゼーと名乗る男が悪人だと言い切れないと言う結果を導き出しただけだ。
戦っている最中には、彼は確かに敵だった。彼は確かに、この地を戦火に包み込もうとしていたのだから。
「……だからね、アナタがとても優しくてオジサマを善人だと思ってくれたとしても。
アナタが命を擲つような事はどうかしないで欲しい。覚悟は出来ている。一発ぶん殴って、決別をする為に前を向くことは屹度出来る筈だから。
……その時にね、アナタが居ない方が悲しいわ。アナタが今まで大切にしてきたオトモダチも、大切な奥さんだってそう。オジサマなんてどっちつかずで独りよがりなヤツのためにアナタが犠牲になるなんて、私は屹度我慢できないもの」
彼の在り方が最初からそうだったというならば受け入れなくてはならない。それがフリアノンの里長としての考えなのだと琉珂は俯きながら、そう言った。
「あと、もひとつ理由がなくはないんだけど……これは秘密な?
……アイツ、常に腹減ってんだろ、冠位暴食ってのに成ってるから余計にだろうが。
だから、腹減ってるの治せる可能性もあるんじゃねぇかなって、…腹が減る苦しみは、多少は理解できるしな。
……つまりは、アイツの腹が減ってるから、満たしに行きたい、っていう個人的理由が在る訳だ」
「ふふ、お人好しさん。いいわ。私もね、個人的な考えをこっそり、ヒミツよ。ヒミツで教えてあげる。
オジサマが只の人になって、私達と一緒に過ごしてくれる未来があれば良いなって想う。
全て嘘だよ、此れは気紛れだよって困った顔をして私を抱き締めてくれればいいなって想ってる。
……オジサマが琉珂って呼ぶのが好き。お父さんやお母さんの代わりに教えてくれた事が私にとっての宝物だった、けど」
琉珂はお人好しの顔を見てから困ったように笑った。
叶うことのない夢だから、理想と呼んで口にして悲しくなってしまうのだ。神様なんて存在が理不尽である事を知っているから、これは秘密の夢でしかないのだから。
「――覚悟は、何時だって出来るから」
どうか、優しい人。
アナタが苦しむことのない未来が来ますように。琉珂はそう願うように零の手を握ってから「有り難う」とだけ呟いた。