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ハインツ=S=ヴォルコット(p3p002577)
あなたは差し出した
ハインツ=S=ヴォルコットの関係者
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 状況を、整理してみよう。
 この4年間、ハインツ=S=ヴォルコットは、愛しいメアリアンと共に尋常ならざるオカルトに関わり、記事を作る傍ら、探偵の真似事のようなことを行ってきた。
 行ってきた、つもりだった。
 実際には、メアリアンという人物はとうに他界しており、この世の理を外れた某を持ってしても、その蘇生は叶わなかった。そうして、その事実を認められなかったハインツは、心の中にメアリアンの続きを作ったのだ。
 彼女は生きている。生きて、今もハインツを支え、隣で笑ってくれている。そのような空想を、妄想を、自身の現実として構築し、いつだってそのように振る舞ってきた。
 手ずから淹れた珈琲を、メアリアンによるものだと錯覚していた。とうに答えの出ている疑問を、彼女に尋ねるような言動をわざわざ行った。何もいないはずの場所を、守るように動いた。
 長く、長く紫煙を吐く。
 狂人である。改めて自分の言動に気づけば、そのように評価せざるを得ない。
 メアリアンと過ごしてきた日々が全てだった。それらがあったから、この狂いようしか無い世界の中で、正気を保ってこられた。生きてこられた。
 だが、最初から狂っていたのは自分の方だったのだ。
 それならば、この4年間はなんだったのだ。自分には一体、何が残っていると言うのだ。
 心に大きな空洞が出来たような気分。いいや、正確には、ずっと開いていた致命傷に、気づかないでいただけなのだろう。
 哀れな狂人が、取りこぼしたものを認められなかった。それだけの、たったそれだけのことだったのかもしれない。
 今すぐにでも舌を噛み、ただ突っ立っているだけの人生を終わらせたい。思うに、本当にそのような顔をしていたのだろう。何せ、自分は空想を表に出し続けているほど、わかりやすいのだから。
「なあ、どうかしたのかよ」
 隣で、同じように煙草を燻らせていた男が声をかけてくる。
 この、Nと名乗る男が事務所に帰ってきたのは、日が昇ってからだった。
 ハインツが別件で手を取られている中に舞い込んできた仕事を、夜通しかけて解決してきたのだという。
 はじめは素人同然。危ない世界に惹かれてしまっただけの男。本当に、ただの一般人N、だった。しかし今では、そんな風に、ひとりで依頼を解決できることも増えている。
 正直、助かってはいる。だが、いつからだったろうか、とも思う。靴の踵を踏まなくなり、スーツをストレッチ素材のものに着替え、だらしなさが消えた。そこまでは良かった。
 だがいつしか、常に用心深く周囲に眼を配るようになり、室内だろうと革の手袋を外さなくなり、時折、何もない場所に目を向けて会話するような素振りを見せるようになった。
 いつからだろう。本当に、いつからだろう。この男は、こんなにも、目に深い隈を浮かべていただろうか。こんなにも、現実を疑うような眼をしていただろうか。こんなにも、存在に危うさを滲ませていただろうか。
 いいや、認めるべきだ。いつから、ではない。明確に、あの時だ。
 Nが、うっかりと、超現実たる片眼鏡を身に着けてしまった時から。現実と、ほんの少しだけズレた別の現実。その存在に触れてしまった時から。
 だからこれは、自分の責任なのだと、ハインツは考える。
 Nがこのような形でこちら側に渡ってしまったことは、引きずり込んでしまったことは、自分の責任であるのだと。
 何が残っているのか、などと。思えば、これが自分に残っているものだ。
 時間は戻らない。過去は覆らない。それはもうわかっている。痛いほどにわかっている。だが、生きている。Nは現実だ。現実の、はずだ。
「なあ」
「ん?」
「お前さんは、そこにいるよな?」
「なんだそれ、リモートで同煙してるように見えるのかい?」
 意味のない質問だ。だがなんとなく、確かめたくなったのだ。自分の心はたやすく、現実にないものを錯覚してしまうと、痛いほどに理解したから。
「いや、いいんだ。それより、聞いてくれ」
 そう言って、銃を突きつけた。
「おい、何して……いや、どこ狙ってんだよ?」
 突きつけはしたが、Nを相手にではない。もはや一人でも仕事を任せられるほどに成長し、信頼をおいた相手にこのような真似はしない。
 突きつけているのは、Nの隣りにある虚空。見えはしないが、そこにきっといるのであろう、誰か。
「狙ってる、つもりさ。ちゃんとな。なあ、そこに誰がいるんだ?」
「誰って、なんだよ。誰もいねえだろ。おいおい、怖いこと言うなよ」
 Nがおどけて場の空気を和ませようとする。それでも、銃を下ろそうとは思わなかった。そこにいるのかはわからない。だが、何かしらがここにいるのだとは、確信を持っている。
「そうだ、誰もいない。誰も居ないように見えているさ。だが、お前さんは本当にそうなのか?」
「―――!」
 Nが言葉に詰まる。わかっていたことだ。Nに何かが憑いているのは。きっと別次元の何か。触れ合えない隣りにいる誰か。はじめは、気のせいだと思っていた。次は、何かしらの対処手段を探そうとした。今ではもう、何も見つからないままここまで来てしまった。
 Nに憑いているそれは、Nをこちらがわの存在性から遠ざけてしまう。彼が優秀になるほど、頼りになるほど、それを実感していく。彼はもう、こちら側の人間ではなくなりつつある。
「な、なんのことだかわかんねえよ。なあ、メアリアンさんも何か言ってやってくれよ」
「メアリアンは、死んだ!!」
「っ―――!!」
「お前さんは、彼女に会ったことなんて、ないはずだ」
 心臓が締め付けられうようだ。その事実を認めたはずなのに、だけど本当はどこかでと、思わずにはいられない。なのにそれを口にすれば、世界が事実で染まってしまいそうだ。
 目の裏にこみ上げるものを懸命にこらえ、震えそうになる声をなんとかひとつに繋ぐ。
「見せてくれよ、その手袋の中。前はそんなの、つけてなかっただろ」
「それより―――」
「なあ、見せてくれよ!」
 強い語気で促すと、観念したのか、犬歯で手袋の中指を挟み、顎をそらして引き抜いた。
 今度は、こっちが絶句する番だ。
 Nが外した手袋。その中には、何もなかった。透明だ。Nの手首から先は、すっぱり消え失せている。
 切断された、のではない。彼は自分のマッチケースを、透明の手でつまみ上げて見せた。
 何も見えないが、そこにNの手は存在している。手で起こせる物理現象のみがこちらにあって、視覚的な存在性はもう向こうのものになっているのだ。
 こちら側の人間ではなくなりつつある、のではない。彼は既に、一部がもう向こう側の存在になっているのだ。
 ハインツの中にあった、いくつかの、まだ未完成な、Nを助けるためのプランが崩れていく。それらと同じように、彼の拳銃もまたその手からするりと落ちて、地面に硬い音を立てた。
 暴発の心配はない。最初から、弾なんて込めちゃいない。
「なんで、そんな、いつから……」
「指先が消えたのは、結構前だ。最初はゆっくりだったけど、指が全部見えなくなってからは、結構早かったな」
 その声に、絶望の何かは含まれていない。彼はもう、先がどうなるかわからないというのに。まっとうに死ねるのかどうかさえわからないというのに。彼はとっくのとうに、ハインツの知らないところで、覚悟を決めていたのだろう。
「最初はそりゃ、興味本位さ。オカルティズムなんてものが本当にあるって知ったら、目を輝かせるのは当然だろ。わかってる、それは撒き餌だってことも、今じゃあさ。でも、そんなのはすぐにどうでも良くなってさ。なんていうかアンタの役に立ちたかったんだ。アンタの助けになりたかった」
 手袋を嵌め直す。そうすればまだ、こちら側の人間のように見える。
「そりゃ、どうやったら元に戻れるんだって、考えてこともあったよ。でもさ、あっちもこっちも見える俺のほうが、こっちの世界じゃあ『らしい』だろ。そう思ったら、こういうのも、アリかなって」
 言葉が出ない。何を言えばいいのかわからない。眼の前の彼は、いつしかひとではなくなるのだ。
「なあアンタ、死のうとしてるだろ」
 下げかけた頭を跳ね上げた。驚愕の顔で、彼の目を凝視してしまう。
「違うって。そんなの見えてない。見えてなくなってわかるだろ。なあハインツ。ハインツ=S=ヴォルコット。もうちょっとだけ生きてみないか。もうちょっとだけ。そうだな。俺が消えてなくなるまででいい」
 それは呪いのようなものだ。ハインツはNが消えていくのを指を咥えて見ているままなどできないだろう。なにか方法を、なにか方策を、ずっとずっと考えてしまうだろう。Nは言っているのだ。自分を助けたいと思うなら、生きてくれないかと。
「なあ頼むよ。俺を、助けてくれよ」
「なんで、そこまで……」
 どうしてこの男は、自分のことを、ハインツのことを助けようとするのだろう。自分は、彼にとっての何だ。
 先達か、雇い主か、兄貴分か、相棒か。
 どれも違うものだと、直感する。それらはすべて、Nにとって相応しくはない。
 だって、と、彼は苦笑する。甘いところの抜けた顔に、その仕草は妙に似合っていた。
「アンタ、ほっとけねえよ」
 きっとこれを、友情というのだろう。

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