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遥か昔、死ぬほど退屈だった世界より
登場人物一覧
何とも言えない髪から匂う、やっぱり何とも言えない色気がいつまでも胸を焦がす。
美味しそうで、その実それだけではなかった感情。その甘美な匂いは、長く鼻孔に残り続けた。
それは雲ひとつない空、大きな農地が広がる丘の出来事でした。
貧しいわけではないけれど、見えにくい差というものが確かに存在していた世界にて。
少年と少女と幽霊の、不思議で……――。
「※※、ほら観て! あんなに実ってる!!」
大きな木の下で眩しく笑う少女はゆっくり歩いてくる青年に向かって手招きしました。
両手で抱えるほどの籠を背負った青年はそれに笑って適当な返事をします。
たわわに実ったそれは農園で1番人気の果実でした。とても甘く美味しそうな香りがあたり一面に広がっています。
それらを丁寧に捥ぎ取り、青年が背負った籠へ少女が入れて行きます。
青年は実体を持つ幽霊であり、死んだ時と生前の記憶を持っていませんでした。
それ故に所在なく漂う青年を拾ったのが農園の少女です。
彼女は青年に名前を与えるとまるで弟かのように世話をし、農園の仕事を教えました。
青年も衣食住の礼になるのであればと、積極的に仕事をしています。
彼女の両親も実の息子のように青年を可愛がり、幽霊の彼は記憶のない心細さなんて一瞬も感じていませんでした。
この一家には昔から仲の良いご近所さんというのがいます。
特に向かいに住む少年とはお馴染みで彼もまた、幽霊の青年を受け入れてくれています。
近所の学校へ通っている彼は幽霊と少女にも勉強を教え、いつも三人で遊んでいました。
さて月日が流れて少女と少年はちょっとだけ大人になりました。するとどうでしょう、二人の様子が変わってきました。
妙にそわそわして落ち着かなくなったり、少し手が重なっただけで頬を花のように染めるのです。
少女の視線は幽霊から向かいの少年へ、少年の視線は幽霊へ向いていることに気付いたのは、しばらく経った頃でした。
幽霊はなぜだか困ったな、と思いました。
少年の視線はなんだかムズムズして気恥ずかしくて――
学校で起きた面白可笑しい出来事を話す喉仏が、
農作業を手伝う時の逞しい腕が、
町でしか売ってない食べ物をこっそり少女より多めにくれる甘やかしが、
――とても美味しそうで困ってしまったのです。
これは、この感情はなんと言うのでしょうか?
幽霊は困って、困り果ててついにその事を二人に話してしまいました。
少女は悲しく泣きながら、少年は困ったように微笑みながら同じ答えを言いました。
その感情は「恋」。時に人ひとりの人生を台無しさせるほどの力を持つ「恋」。
しかも幽霊の「恋」は特殊でした。
人が生きる上で必要な欲は数多ありますが、食欲と性欲が混じってしまうのは特殊と言わざる得ないのです。
解ってしまった瞬間、幽霊は少年と少女へと襲い掛かりました。
だって気付いてしまったのです、自分の本質に。
だって知ってしまったのです、「恋」をする人間が美味しいことに。
……幽霊は長く人間の中を漂い過ぎたのです。そしてそれは世界の約束を破る出来事でした。
長く漂い過ぎた幽霊は魂が削れていきます。そしてそれを補えないと消えてしまい、次の人生には行けません。
補う方法はひとつ、
「恋」を学び、その本能に気付いてしまった幽霊にとって、もう目の前の二人は友人でもなんでもありません。
ただの甘くて美味しいご飯です。数十年ぶりのご馳走です。
……そして幽霊は、本能のままに二人の人間を殺して魂を喰らいました。
泣き叫んだ表情で死んだ、人間たちを冷たく嗤いながら食べました。
その魂たちは農園のどんな果実よりも甘美な匂いでした。
その魂たちは農園のどんな果実よりも至上の甘さでした。
それから町に降りた幽霊は長く好意感情を抱かせて呪った方が美味しいことに気付きました。
美味しい魂を得る術を見出だした幽霊だった彼は、たくさんの時間を越えて人間の中を過ごしたそうです。
ある女性に出会うまで、ずっと…………――。
クウハはいきなり飛び起き、台所へ駆け出す。蛇口をひっくり返し、水を浴びるように飲む。
上半身はもちろん、床まで水浸しにしながら水を被るが思い出した味は癒えない。
自分が悪霊で、人間の魂は感情によって味が違うことを知った日。
悪霊化で無意識に鍵をしていた記憶だったそれが、今になって浮上したのだ。
思い出した心当たりは環境の変化しかないが、それだけ人間に近寄りすぎだのかと思い返す。
「いや……そうかもなァ…………」
人間の友人を得たのは何世紀ぶりだと冷静に思う。思うが今さら引き返せる場所にいないことにも重々承知している。
得てしまった感情と立ち位置は必要なかったと返す場所も相手も居ないし、とゆっくり立ちあがる。
あまり騒ぐと住人たちに感付かれる。まだ記憶の整理はつかないが、片付ける。
人間の肉は不味いが、魂は美味しくて栄養になる。だから、一枚の分厚い壁が欲しい。
「きっとアイツの魂も美味しいだろうよ……」
脳裏に浮かぶ友人の笑顔に最初の二人が重なる。頭を振っても離れない笑顔。
掃除道具が放り込まれたロッカー、それの近くにある廊下のウォールミラー。
飾り程度の意味しかないそれに、クウハは写るが歪む。
吸血鬼は写らないだけで、幽霊は総じて歪んで写ると気付いたのは随分前だった気がする。
その時はさして何とも思わなかったが、今はどうしてか憎々しい気がした。
鏡へ唾を吐き棄てそうになって、 グッと堪える。今、悪態をついたとて過去と本能は変えられない。
台所に撒いた水を掃除しながら、頭の混乱を少しずつ落ち着かせる。
食べたくなってしまうから、人間に近寄りすぎてはいけない。けれども独りぼっちには、もう戻れそうにはない。
難しいことではある。だが今のクウハには必要な分別管理であった。
クウハがそうであるならば、屋敷の住人たちにも充分可能性のある話でもあったからだ。
実体を持つ幽霊だけが悪霊となるなんて、果たしてそんな都合の良いことがあるのだろうか?
「さぁてと、これ以上はわかんねーから寝るか。明日あたり、調べるだけ調べるかァ」
伊達に長く人の中で悪霊をやっていないのがクウハだ。たった今、思い出したばかりの記憶では情報は無いに等しい。
クウハ自身のことも、それより前の自分の元いた世界のことすら、今のクウハには皆目検討もつかない事だからだ。
自室に引き返したクウハは何人かの知り合いに頭の中で当たりをつけ、今夜は眠ることにした。
思い出した原初の罪と本能、それは軋むような痛みをクウハに与えた。
きっとこの先、知り合いを、友人を、増やす度にこの痛みがクウハを襲う。
美味しそうでも食べてはいけない魂が増えるだろう。増えていく先しかないだろう。
腹の肚がひもじくて、喉奥から手も呪いも出るほど魂を欲しがってしまう日が来るだろう。
そんな時にどうしたら良いのか、きっと迷わないように。
今、痛みの記憶を思い出しのだと、そう思うことにしたのだった。
今の退屈する暇が全くない世界に、弾き出されないように。
クウハは、自分の記憶と向き合うことを決めたのだった。これはそんな夜の夢。