SS詳細
解放の序曲
登場人物一覧
- マッダラー=マッド=マッダラーの関係者
→ イラスト
■男は救われたのである、それを望んでいたかどうかは定かでないが
気怠い暑さに音を上げ、早々と畑仕事を切り上げては馴染みの酒場に向かっていた時のことだ。耐えきれずにまくり上げていた股下を涼を少しも与えちゃくれない怠惰な風が生ぬるく通り過ぎていく。ゾクリともしない。憎たらしい太陽は山の上でしたり顔を見せており、あたりは少しも陰る気配がなく、ただただ、いい加減涼しくならんもんかと思うだけだ。
それにしたって今日は異常なほどの暑さのようで、いつもなら喧しく鳴き耽っている虫やら鳥の気配が少しもない。暑さにでもやられたのだろうか、それなら仕事を切り上げたのは己にしては珍しく賢い選択だったように思える。
酒場にある薄いが冷たいエールを想像して思わずゴクリと喉が鳴る。氷室に納めてある氷を馬鹿みたいに入れるもんだから薄くなってしまって少しも酔えやしないが夏場はアレが何よりの贅沢品だ。いつも顔を見れば溜息を吐いて俺のことを見下してくる村長の娘だって奢ってやれば陶器みたいな顔が綻んで別嬪な笑顔を見せてくれるアレだ。
最近は女子供が都会で見知ってきたじぇら~となんぞに憧れて氷を買い込むもんだから氷の値が張って仕方ないが、それでも今日の暑さなら少しぐらいの出費は許されるだろう。誰かに財布を握られているわけでもないのに俺は自分を納得させた。
いつもより二刻は早い到着。汗ばむ右手の中にエールの代金を握りながら、酒場の扉を叩く。流石に早すぎただろうか、西日が背中に当たってたまらない。無理やりにでも中に入れさせてもらおうと扉に手をやると、あっさりと開いた。なんだ開いているのか。不用心極まりないが、これ幸いと駆け込むように店の中に入る。
まず違和感を覚えたのは匂いだった。卵の腐ったような胃が寄せ付けない匂い、仮にも飯を提供するところからは考えられない類のもの。誰かいないのかと声をかけてみるが、無音だけが返ってくる。いや、無ではない。かすかに囁くような音がする。虫の羽音みたいな、耳の奥からむず痒くなるような音が厨房の方から聞こえてくる。暑さで身体がどうにかなりそうだというのに震えが止まらない。竦む足をどうにかこうにか動かして酒場の奥にある厨房の方を覗き見る。
視界に入ったのは黄色い何か、液体、濁り切ったまみれ、ちぎれた人の指や髪の毛が見える、黄色い何かに混ざり合っている、吐瀉物のかたまり、それが座っている、崩れもせず、人型を保ったまま、目も鼻も口も無い無貌がこちらを覗き込む。
気が付けば俺は酒場を飛び出していた、腰が抜けなかったのはきっとアレが何かを理解しなかったからだ、わからない。なにもわからない。しらない。見ていない。誰かいないか、誰でもいい、とにかく一人になるのが恐ろしかった。村長の家が目についた、普段であれば威張り散らした大きな家は大嫌いだったが今この時はその大きさがありがたかった。扉を叩く、開けてくれ、とにかく誰かに会いたかった。一人でいれば正気でいられないと思っている、いやもうすでに正気ではないのかもしれない。開けてくれ、頼む、中に入れてくれ。部屋の中から聞こえてくる妙な音楽のせいで俺の声は聞こえないのかもしれない。すぐ隣の壁にある窓を叩き割ってでも入ろうかと思ったとき、中に居る女と目が合った。よかった、人だ。村長の娘だ。いつもとおんなじ陶器みたいに綺麗な肌に黒くて大きな瞳が俺の方を見ていた。違う、村長の娘は緑色の目をしていたはずだ、それに窓を隔てた部屋の中にいる娘の瞳の色なんてわかるはずがない、娘が窓に近づいてきた、黒くて大きい瞳じゃない、なにか。黒い何かが娘の瞳の中にいるのだ、僅かに蠢く何かが娘の瞳からポロリと落ちて窓の縁にへばり付く、蛆だ、黒い蛆が娘の瞳の中に巣食っているのだ。
娘の腕が窓を突き破って俺の胸元を掴もうとする、飛んでくるガラスを避けようと尻もちをつく、アレはなんだ、娘じゃない、血が噴き出る手を気にも留めずに窓に開いた小さな穴からこっちに来ようとしている。だめだ、今度こそ腰が抜けてしまった。喉はカラカラだというのに粘っこい唾液が口を開くのを邪魔をして声が出ない、たすけてくれ。誰か助けてくれ。
ガチャリと開いた扉を聴いて俺と娘の動きが止まる。いつの間にか部屋の中から聞こえていた音楽は止んでいた。
そこに立っていたのは化け物だった。人の手足を持ち、貴族の使用人みたいな服を着たソイツの頭は大きなラッパの形をしていた。ラッパの化け物だった。
「これはこれは。怖がらせてしまったようですね、申し訳ありません」
どこから声が出ているのかわからないが、ラッパ頭から男の声が聞こえてくる。
「止まりなさい、あなたにはあなたの生き方があるでしょう」
ラッパ頭が娘だった何かの方に頭を向けてそう言う。娘だった何かはゆっくりと部屋の中へと戻っていく。落ち着いた、頼りになる男の声だ。若い頃の父親の声に似ていた。た、助けてくれたのか。
「助けたのではありません。あなたはこれから助かるのです」
何を言っているのかわからない、わからないがラッパ頭の声を聴いていると今まで心の中を支配していた恐怖が取り除かれていくような感覚がある。
「苦しみの中に生きる日々は今日を持って終わりです。全てから解放され思うままに生きましょう、大丈夫ですよ、あなたがあなたであることは変わりありませんから」
ラッパ頭の腕が俺の顔を優しく撫でる、涙と鼻水でぐちゃぐちゃだったそれがラッパ頭の白い手袋を汚してしまった。
「さあ、目を閉じて。解放です。今この時をもってあなたは新しいあなたへと生まれ変わるのです」
そうして、俺は……
■記録
ローレットには小さな村で起きた異変が記されていた。総住民は30にも満たない小さな村だが、近隣の村や町からの報告によってその村の住人がめっきり姿を現さなくなったことが伝えられた。モンスターに襲われたか、あるいは伝染病の類か。どちらにせよ被害の拡大が想定される事態だ。捜索班を向かわせて持ち帰ってきた情報では、村人の姿はどこにもなく、しかし血痕の類は全ての家屋を確認したが発見されず。しかし、明らかに人為的な放火を受けた家や、踏み荒らされた畑など、人ほどの大きさをした何かが暴れまわった形跡があるとされている。何かの事件があった後に夜盗の類が荒らした可能性もあるが、それにしてもあまりにも奇妙。しかし近隣の村や町はそれ以降に新しい報告もなく至って普段通りに生活をしているという。
新たな捜索班を出すべきか判断に悩んでいるところだったが、他の地域での依頼が立て続けに舞い込んできている、浮遊島アーカーシュに天義のセフィロトの影、竜宮城の攻防に豊穣では死臭に似たキナ臭さもある。小さな村の異変には違和感があるが、影も形もわからない異変を捜索するのに回せるほど今のローレットにゆとりはなかった。
まるで、そう対応されるのがわかってやっているような、嘲わらうかのような、そんなおぞましさを纏わせながら小さな村で起きた異変は膨大な記録の中へと沈んでいく。いつかどこかで行われる解放がローレットに気付かれるまで。
- 解放の序曲完了
- NM名ナーバス
- 種別SS
- 納品日2022年08月15日
- ・マッダラー=マッド=マッダラー(p3p008376)
・マッダラー=マッド=マッダラーの関係者