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duomo
登場人物一覧
空が高くなって澄みきる秋の昼、乾いた風が頬や髪を浚うように吹き渡る。多くの人々がそれに髪を、または服の裾を抑えている。
「きゃ……っ」
女性が1人、スカートを抑えるのにバランスを崩しハイヒールのヒールが欠けた煉瓦に嵌まって転びそうになる。
そこに逞しく筋肉が発達した腕が伸びて女性の肩と腰を支える。
「おっと、レディ」
低いながらも穏やかに響く声が女性の頭上から降り注ぎ、ゆっくりと傾いた上体を元の位置へと戻す。陶磁器を扱うような優しい手付きだった。
「あ、ありがとう」
女性が見上げた先には美男子が微笑んでいた。
ラズベリーチョコレートを写し取った前髪だけが長い髪色から夜明けの陽にそっくり同じ色の瞳が緩やかに光る。
そこに新月色のトレンチコートはシングルで通常よりも長い9分丈、しかも裏地は情熱的なワインレッド。
シャツも同色だがブロードの生地に見える。コートの裏地と同じワインレッドのしっかりセンタークリースのついたスラックス。
ラペルドのシングルベストでポケットはない洒落たデザイン、ネクタイも無地だが高級な生地を使っているのが見てとれる。
背は高く鍛え上げられた身体は引き締まり、つり目で切れ長だが愛嬌のある笑みが似合う美貌。
『満月の緋狐』ヴォルペ(p3p007135)、その男である。
「こちらこそ。咄嗟のこととはいえ、レディの美しい御身に許可なく触れた無礼をお許しください」
片膝ついて頭を下げれば、うっとりと見つめていた女性はたちまち頬を染めてはにかむ。そのまま別れを告げてヴォルペは街中の雑踏へ消える。
向かった先は人気のない丘、柳の下だった。下を覗き込めば豊かで賑やかな街並みを見下ろせるお気に入りの場所だ。
柳の幹に頭と肩を預け、コートの裏ポケットに仕舞った煙草とライターを取り出し、一本咥えて火を付ける。
上等な黒革で作られた特注の指ぬきグローブ越しに手がほんのり暖かい。
またコートの裏ポケットに煙草を仕舞い、どこともない空間を見上げる。
喉にタールが重く、ラム酒が香るそれは苦く辛い。しかしそれが良い。
嗅覚が敏感で香りが強いものや味の強いもの、そして甘いものは身体が受け付けない。だが煙草は混沌に来て吸い始めた。独りの時に限って。
ヴォルペ、人の中にあれば軽薄で美意識の高い、それでいて人の世話を焼くことが楽しいという人だ。
けれども。けれどもそれは、人の中での話だ。人の中から外れたヴォルペは何も持たない。
独りでは空っぽなのだ。独りではこんなにも無意味なのだ。
褒め称えるべき宝石も、恭しく甘やかすべき華美な花も、全ては他者がなければ意味がない。
美しい他者のために言葉を尽くし、その存在を高めていく。これが最上の娯楽であり意味だった。
そもそもヴォルペが何者なのか、本人を含めて誰も知らないのだ。
人の中で人として生きるため、順応しやすい仮面を被り続けた。
それはあまりにも永い時間だった。幾人を見送り、何百回と時代の変動を迎えたのか忘れるほどの時間だった。
結果として本当の姿を見失い、どれが嘘だったのか、もう誰にも分からない。
それゆえにヴォルペは人形素体でピエロであった。
オーディエンスもスタッフもない劇場で踊るピエロだ。オーディエンスがいないのにピエロでいる苦痛を誰が分かろうか。
笑い声のひとつ、拍手のひとつ、笑顔のひとつ。
どれか1つでもあってくれと心の底から渇望しながら独りきりで踊り血を滲ます。
嗚呼、想像しただけで惨めで痛々しい。寒さで喉が絞められて身の内から爆ぜてしまいそうだ。
だからヴォルペは完璧を目指した。だからヴォルペは戦いに明け暮れた。
人の役に立ちたい。守らせて欲しい。この身が削り尽くすほどに使って欲しい。
人は他者の中に自己を見出だすが、ヴォルペは他者の中に存在理由を見出だしている。
柳の下から離れ、街並みを見下ろす。時刻は何時の間にか夕陽がこちらを伺い見る頃だった。
色鮮やか屋根が立ち並び、道を歩く人々の頭が揺れ動いて規則性のない音たちが鳴り響く。
「そろそろ、帰ってくる時間だな。今日はどんな手入れをしてやるか」
煙草を燃やし尽くしてなかったことにする。何の蜃気楼か、狐の豊満な尾がその背後で揺れ動いた。
満月を背負いし緋色の狐、ヴォルぺ。人の中で愛を語り忠誠を誓う男。
ただひとつ、虚空を埋めるために。明日も幾千先も、人の中でその身を捧げ続けるのだろう。