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嗚呼懐かしき我が過去よ
登場人物一覧
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遠き日の夢を見た。
遠い遠い、過去の夢をだ。
トリエル、と。呼ばれていた頃の。不変の檻に囲まれていた頃の、ちっぽけな人生の夢を見たのだ。
まだ生きることの価値を受け入れることが出来なかった覇竜での暮らし。
ニヒリストとして生きていた頃の。無の信仰を受け入れていた頃の、ムエンの日々の夢。
平和だったというよりかは凪いでいた。揺らぐこともなければ変わることもなかった。
無彩色の日常に変化がもたらされることを期待していたのだろうか、今となってはわからない。今の日常には鮮やかな色がついた。それだけのこと。モノクロの世界はもう過去のことだ。
「トリエル」
そう呼ばれていたのもまた、過去のこと。
思い返すのも苦々しい。そんな記憶が、今日はなぜか鮮烈に甦る。
夢見が悪い、と。端的に伝えられたならどれほど良かっただろう。今日はやけに思い返すのも憚られるような夢だった。
「……」
幻想、ローレット近くにある酒場にてたらふくと食事をする。音楽を聞いて、ぼんやりと考える。
そうだ。これは夢だと言い聞かせたかったから。
それが夢であったなら、どれほど良かったかを願いたかったから。
美味しいものを食べて忘れてしまおう。なんて単純な考えだろう。我ながら……我ながら。名案だと、そう思った。
生きる喜びを。人生に色を見いだせた喜びを。遠き日の己に伝えられたなら、どれほど良かっただろう。
ムエンがトリエルの名を捨てるきっかけに至った事件が、今日の夢だった。
無の信仰から離れるということは、自分の生き方を大きく変化させることを選ぶということだ。宗教を信仰するものにとっては宗教こそが軸となる。けれども『トリエル』は疲れてしまった。
顔を見知った友と戦うことに。同じものを信じていた筈なのに、相手を否定して殺さねばならない現実に。宗教のありかたは、本来はそれではないはずなのに。
何人、斬ったろう。
味がぱっとしない。こんなにも濃いステーキを朝から食べているのに。
なんて冷静に考えてしまえる自分に苦笑してしまう。
今ナイフを握っている手のひらは。あの日友人を屠った手のひらと同じだ。いや、殺せているかはわからない。確認するのも恐ろしかった。
「トリエル」
そう呼んでくれて。共に笑えていたはずなのに。
宗教の起、なんて些細なことが友との絆を別ってしまったのだ。
――遅かれ早かれ全ては無に還り合一する、終末派。
――全ての生命は無より生まれた物とする、起源派。
全てが終わるならば始まりとてあるはず。
話し合って解決することも出来たはずなのに、同胞たちが選んだのは議論の場ではなく武器を手に取り戦争することだった。
奪い合うことに何の意味があるのか。ただお互いに話し合い認め合えばよかっただけなのに。
信仰のあり方はそれぞれ違う――解っていた筈なのに。
「――そうか。トリエル。君は、そちらを選ぶのだね」
「じゃあ、お前とは敵ってわけだな」
「違う……違う、私は!」
手を伸ばせども届かない背中。
奪い合わなければ。殺さなくては。生き残ることすら叶わなかった。
魔法を放ち。剣で貫き。血を浴びて。そうすることに何の意味があったのだろう。
問うても。叫んでも。その答えは解らない。誰も教えてくれはしない。
だから飛ぶしか無かった。戦うしか無かった。殺すしか無かった。
その選択が甘えだと解っていたはずなのに。
いつだって、心にはさめざめと鮮血がかかったような冷たさが残っていた。
「トリエルッ、貴様ッ!!」
顔を見知った友を斬ることに躊躇いが無かったわけじゃない。
「……そうか、終わりは、君が連れてきてくれるのだな」
命を奪うことに抵抗が無かったわけじゃない。
心がみるみる死んでいく。諦めることすらも出来ないままに、砕け、折れ、朽ちていく。
だから――遠く、離れた此処に居る。
「……さて、どうしたものかな」
溜め息をついた。
己を知ろうとしてくれている友がいる。仲間がいる。
そんな彼等に、少なからず己を形成した一端となる『無の信仰』は見せてみたい――けれど。
(……危なすぎるよな)
対立宗派との戦いは今もなお続いているのだと聞いた。
もしもそうなのだとしたら、自分の『友』である彼等が襲われない保証もない。
強くなったと思う。変わったとも思う。だけれど、仲間が手にかけられるのは耐えられない。
我ながら薄情な事だ。今一人で此処にいる間も、同じ宗派の仲間は戦っている筈なのに。
「ほんと、……弱ったなぁ」
大切なものほど、失いたくはない。
無の信仰をしていた頃よりもずっとずっと強くなったはずなのに、どうしてこんなにも辛いのだろう。
心を満たすさいわいにはまだ気付かず。ムエンはそっと、水を飲み干した。