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薄暮にて動くは──
登場人物一覧
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くえっくえっくえっくえっくえっくえっくえっくえっくえっくえっくえっくえっくえっくえっくえっくえっくえっくえっ……
「──!」
身体をびくりと揺らして少女は目を覚ました。図書館に勉強に来ていた筈だったのに、いつの間にか居眠りをしてしまっていたらしい。慌てて窓の外を確認すると既に空の大部分は茜色に染まっており、その事実が時刻が夕方の遅い時間であることを意味していた。なんなら閉館時間ギリギリらしく、既に周りに生徒の姿は無い。
「……最悪」
全くもって彼女にとって最悪だった。勉強に充てる筈だった時間をほとんど睡眠で消費してしまった事実も最悪なら、もう帰らなければいけない時間であることも最悪。極め付けは寝起きも最悪だ。そもそもうっかり居眠りをしてしまうほど寝不足な原因が、夏になって急に騒がしくなった蛙のせいだというのに、何が悲しくて夢の中でまで蛙の鳴き声を聞かなければならないのか。夢から覚めた今も耳の奥に蛙の鳴き声が貼り付いていて、それがたまらなく不快だった。此処が図書館じゃなければ絶叫していたに違いない。ほら、今も、
くえっくえっくえっくえっくえっケッケッくえっくえっくえっくえっくえっくえっくえっくえっゲッくえっくえっくえっくえっくえっ……
ああ、止めろ、うるさ──
「おや、まだ残っていたのですか?」
涼やかな声に祓われる様にピタ……と蛙の声が止んだ。少女が振り返った先にいたのは、夏にもかかわらずストールで首元を覆った男。……恐ろしく顔の造形が整っており、中性的でもあったが少なくとも少女は男だと感じる。ついでに言えば、少女は彼の顔に見覚えがある。
「……司書、さん」
「早く帰宅なさい。夜が来てしまいますよ」
少女の問いかけに小さく頷いて司書……セス・サームはそう促した。確かに、夜になってしまうと不味い。少女は希望ヶ浜で生まれ育った生粋の"東京"人ではあったが、まがりなりにもこの学園に在籍している以上は『ヨル』の恐ろしさはしっかりと教えられてきている。慌てて参考書やノートを鞄に仕舞っていると、近くからまた蛙の鳴き声が聞こえてきて少女はため息を吐く。
「蛙ってなんであんなに五月蝿いんだろ……」
「蛙、ですか」
つい零れ出た愚痴を拾い上げたのは目の前にいるセスだった。少女は周りを見渡して誰もいないことを確認すると、セスに向かって更に愚痴をこぼす。
「最近、周りでやけに蛙の鳴き声が五月蝿くて……。梅雨だなーとか、夏だなーとかは感じるんですけど、蛙って見た目キモいし近くにいると思うと落ち着かなくて」
「求愛、ですよ」
「へ?」
「鳴いているのはオスですね。メスの蛙へパートナーになってほしいとアピールするのです。後は他のオスに、メスと間違われた場合も鳴くのだとか」
図書館の外に向かって歩き出した少女を見送る様に随伴しながら、セスが自身の持つ知識を披露する。少女は初め興味なさそうにしていたものの、セスの話し方が上手いのか次第に感心した様に頷いたり相槌をうったりするようになっていた。
「ふーん……そうなんだ。あんな顔だけど一生懸命、恋愛してるんだね。ありがと司書さん」
図書室の外に出るとクルリと振り返ってお礼を言う少女に、セスは首を横に振ると穏やかに応えた。
「それがわたくしの、御役目ですから」
図書館の外は真昼の名残の様な暑さが肌をじっとりと撫でていたものの、天気予報の通りに少女が家に帰るまで晴れは続いてくれそうだった。
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図書室にて締めの作業をしていたセスは、不意に懐へ仕舞っていたaPhoneが震えてメールを受信したことに気がついた。ちょうどキリ良く作業が終わり、aPhoneを取り出すと慣れた手つきで操作し受信BOXを確認する。……新着のメールが、1件。
【件名:『花』のこと】
【現時刻まで施設周辺に異常なし】
【警戒態勢は維持している】
【君達には引き続き防衛と調査を依頼したい】
aPhoneを再び懐へ仕舞い込むと、セスは首元のストールに手をかけてゆっくりと外した。晒された喉元に埋め込まれる様にして輝いているのは藍色の宝石。希望ヶ浜において一目でセスを『異物』たらしめるそれは、
昼に学園の司書として業務をしていたセスは、夜になると本来の役目である夜妖の対処へと動き出す。人のフリをする必要がなくなるために外されるストール──それは偽りつつも穏やかな『日常』が眠り、覆い隠されていた『非日常』が姿を現す希望ヶ浜の在り様そのものであった。
「それでは向かいましょうか」
セスの表情には緊張も高揚も見られない。為すべきことを、求められるままに。それはセスにとっての当たり前だ。そして"前提"であるゆえに、そこには油断も存在していない。窓の外を眺めると茜の空は完全に墨色の帳に覆い隠され、ちょうど夜が訪れるところだった。
「……長い夜に、なりそうですね」