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ただの一度も、ありはしない
登場人物一覧
嘘なんか、ついてない。
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向き合うのは本心で。
だからこそ白黒つかない自分の心が嫌で。曖昧で。せめて自分自身には素直であれるようになんて願って。
どうしたらいいんだろうなんて呟いている余裕は一分たりともない。ただ前を向いて頑張らなくては。あれ、頑張るってなんだっけ?
自分自身と向き合うことの難しさ。どうすれば自分自身の満足行く自分になれるかを毎日毎日考えては、どうしようもない現実に打ちひしがれて溜め息ばかりが溢れだす。やるせない現実から逃避してしまえたのならどれほどいいだろう。苦しいのだ。悲しいのだ。それ以上に、己の無力の原因がこれまでの己の努力と歌われた何かで形成されている現実が、恐ろしいのだ。
根拠のない慰めはいらない。中身のない道場もいらない。
己の無力は一番自分がわかっている。誰にだってこの苦しみはわかり得ないのだ。
ひねくれているとわかっている。でもどうしたらいいのかなんてわからない。
迷ったことがなかった。苦しんだこともなかった。だから初めて悩んだ。その苦しみも、葛藤も。同じ道を通ったものにしかわかり得ない。
痛む心に理解なんて、求めていないのだ。
「おはようございます!」
「え? 元気がない……最近実はご飯の材料が高くてちょっとだけ手を抜いてるんですよ。む、むくんでるとは失礼な!!」
「もーーー!!!!!! これくらいのこと、一人でだって出来るんですから!」
「ですから、お兄様は座っていてください。お出迎えはお兄様のほうが適任でしょうから!」
リディアちゃんは今日も笑顔が元気いっぱいだね?
元気そうなのを見ると元気が出る?
馬鹿にしないでくださいよ。貴方が私の何を知っているっていうんですか。なんて、言えるはずもない。だってあなたとわたしは赤の他人。知ろうとしても居ないのだから理解を求める私のほうが酷なのだ。
だから今日も笑顔を貼り付ける。そんな義務的なものだと感じたことはなかったけれど。今はうまく笑える保証ができない。だから、貼り付ける。
何がいらっしゃいませだ。何がゆっくりしていってくださいだ。そんなこと考えている暇があったらすぐにでも強くなる方法を見つけていたいのに。貴方達に構っている余裕なんて無いのに。
……あれ、おかしいな。私は誰を守りたかったんだっけ。
ヨワキヲタスケアシキヲクジク。……そんな大層な夢物語を見ていたのは、私?
忘れない。忘れたくても忘れられない。忘れられるわけがない。
向けられたことなら誰だってあるだろう。だけれども、明確に友人と認識していた相手が殺しにかかってくる。そんなこと、今までになかったのに。
どうして。どうして。どうして。
今だって夢に見る。その度に涙する。
ああ、自分の剣は生易しいだけの空想に過ぎなかったのだと、絶望する。
だからいけないのだ。だから奪われるのだ。
だから、私は弱いのだ。
逃げているようだとわかっている。向き合うことすら出来ない剣を握ったところで何になるのだろう。
私はあの時と同じように真っ直ぐな気持ちで剣を握ることができるのだろうか?
手のひらが固くなって、豆ができて、破れて、運で、痛みを増しても、それを素直に成長の証だと受け入れることが。以前と同じように喜ぶことが出来るのだろうか?
何度も何度もふったとて、己の才能の無さに絶望したとて、前を向くことが出来るのだろうか?
今までならきっと頷いたことだろう。そんなことでは己の歩みを止めることなどできようはずがないのだと、胸を張って答えただろう。だけども今は違う。もう遅いのだ。
強くなりたい。強くなりたい。強くなりたい。
呪文のように唱えれば唱えるほど、己の浅はかさが嫌になる。今此処でどれだけ剣を振ったって上手い人にはかなわない。才能には負けてしまう。
嗚呼、きっと全てが無駄になる。
押し殺した心が痛い。痛いと理解すれば痛みを増すから、平気なふりをして。取り繕った心の仮面がひび割れていることを理解したくはないのだ。
平気だ。大丈夫。まだ頑張れる。そう思っていれば、大丈夫。
本当のところは全然大丈夫じゃなかった。挫折を味わったからこそ。立ち上がることに意味があると理解しているけれど。だけれども実際に実行できるかどうかは別なのだ。
いつものことをいつも通りに行うには案外気力が必要だ、と知ったのも、今回の経験だ。笑顔でいることだって難しい。そう気付かされた。心の健康とはありがたいことだ。
剣を振って。敵を倒して。誰かのために戦って。そんな『当たり前』のルーティンから感じ取った意味。日常のありがたさ。そして、己が剣を振るう理由。まだ不確かで曖昧な、自分自身だけの答え。
どうしたら良いのだろう、と迷い悩んで枕を濡らして朝を迎えることもあった。薄い化粧でくまと腫れぼったい頬をなんとかかんとか元通りに直して平静を取り繕ってみたり。二度と剣を持つことは叶わないのだと絶望して、遠ざけて、叫んで、部屋をめちゃくちゃにして。そんなことをしたって意味がないと解っているから、『もう一回』がないように荒れたままの部屋を放置して。かと思えば、今のまま時間を無駄にすることなんて出来やしないのだと剣を振るってみたり。焦っている。解っている。だけれどもどうしたらいいのかなんてわからない。
今日は後者が当てはまる。ただどうしようもなく弱い自分が嫌で、もがきたくなって、夜の街を走り出した。闇雲に振るったって意味がないと解っているのに。ちゃんと考えて振ることに意味があると解っていたはずなのに。今までのどの瞬間よりも自分が弱い気がして我慢ならなかった。誰かのために戦って。勝って。笑顔でいられる自分を取り戻したかった。
(強い、って何?)
わからない。
(正しい、って、どういうこと?)
わからない。
(どうしたら、強くなれるんだろう)
わからない。
わからない。わからない。わからない。
だから早く強くなりたい。大人になりたい。一人前になりたい。誰からも認められるような強さが欲しい。
「――――ッ、ああ!!!」
キン、と金属にあたって弾ける愛剣は、まるで強くなりたい自分を引き止めるようで。そんな錯覚に陥ってしまう自分がますます情けなくて。
泣いてしまいたかった。泣き出したかった。叫びだして、おかしくなれたならよかった。
どうしてこんなにぼろぼろになっているの。苦しいの。私ばっかり。おかしいでしょう。
自分の弱さから逃げ出したくなった。どうしたらもっと変われるんだろう。逸る焦燥。よろよろと歩くしか無かった。どうしてそうなったのかはわからない。時間が足りないとすら感じていたのに。どうしたら、こんなに人は弱くなるんだろう。
剣についた埃を払いながら立ち上がる。大きく振りかぶったその手を。
止めるに、至らせたのは。
「――精が、出ているようで御座るな」
鈍く笑った男の、たったの一声であったのだから。
●
近寄るなと叫べば良かったのだろうか。
関わるなと走ればよかったのだろうか。
そのどちらも叶わなかった。答えずに剣を振り下ろすことも出来なかった。ただ、振り下ろそうとした腕をおろした。その腕を引いて、幻介が穴場たる湯浴処へとリディアを連れる。何も言わずに風呂へとリディアを送り込む幻介。
久方振りに肩まで使ったお風呂。丁度ひとりだったのか。女将が気を使ってくれたのか。そのどれが答えであるのか、正しいのか。リディアは知る手段を持ちはしない。
誰かが必要以上にリディアに気を使うわけではなく。むしろいつも通りだと構ったり茶化したりするのでもなく。「いってこい」やら「ごゆっくり」やら、簡素かつ簡潔な言葉で身勝手にリディアを一人にする。そんな距離感が、今だけは心地よかった。
からからと扉を開ければ、夜の紺が水面を紺碧に染めていた。そのくらい広くて、だからこそリディア一人なのは不釣り合いなような気がしたけれど、良いところだった。
まだ青い紅葉がはらはらと風に揺れる。入浴剤を入れているのだろうか、それとも天然なのだろうか。良い匂いがする、とちょっぴり感動。とりあえずは身体の汚れを落とさねばなるまいと身体を洗うことに。
ぐちゃぐちゃに絡まった髪を解きほぐしながらシャンプーを。柔らかくも品のある甘い香りに斜に構えた心までもが絆される。毛先には丹念にリンスを宛てがい、あたたかな水で汚れを落としていく。ほ、と。息が漏れた。
そういえば。夜に瞬く星を見たのは何時ぶりだっただろうか。こんなにも何も考えずにお風呂に入ったのは久しぶりだっただろうか。
泣きたいわけじゃあ無かった。だけれども。あくびをすれば涙が落ちるように。それは、雨のように。ぽろ、ぽろ。乳白色のみなもを、揺らしていった。
(……泣きたいわけじゃ、ないんだけど)
どうしてだろう。どうしてだろう?
わからない。だから笑ってしまう。行儀が悪いとは理解していたけれど、誰も居ないのだから気にしたって仕方がない。びちゃん、と頭まで温泉の中に潜ってしまえばもう何も考えることはない。嗚呼、あったかいな。だとか。夏だからやっぱりちょっと熱いなとか。そんな些細な、どうだってリディアには構いやしないことを考えた。
だからなのか。だってなのか。どう形容するのが正しいのかはわからない。
自身もちゃっかり入浴を済ませたのだろう。幻介の髪がしっとりとしていた。用意されていた浴衣に着替えればその姿はまるで恋人――というよりも兄妹のようで。ただしフェルディンのほうが誇らしいに決まっている。嘘かも。ついてこいと言われるままに幻介の背中を追った。
「……此処に座れ」
ぽんぽん、と己の前に座るように促されたリディアは、叱られるのだろうと思い正座で座る。のだが。幻介はその後ろに回り、べっこうの櫛をリディアの髪に通し始める。
何が起こっているのかわからなかった。だけれども、今はどうだって良いと思ってしまった。久方ぶりの穏やかな心地。今ならば殺されてしまったってもう悔しいという気持ちも湧いてこない。そんな気がした。
リディアの柔らかな金糸を手で弄びながら、幻介は穏やかな声色で問う。
「なに、髪の一つでも結ってやろうと思ったまで……で、どうしてこんな事に?」
それはまるで年下の妹を慰めるように。きっとそんな意図はないのだろうけれど、ああ、と。ごまかす気力すらわかなくて、ついうっかりと本音が零れ落ちていく。
普段ならば乙女の髪に触るだなんて! とはねのけていたかもしれない。活き餌侍のくせに女の子に触れる口実を作って、と怒っていたかもしれません。だけれども、今はそんな事をしようと考える気力すら無かった。手のひらから伝う温度。髪を揺らす吐息。毛先が傷まないようにゆっくりと櫛を解いてくれる姿。誰にやってもらったのか。教えてもらったのか。気になるところだけど、なんとも言えない。
だから、ただそれを受け入れて、待つ他無かった。そうすることでしかリディアは開放されないともわかっていた。
案外、口からは素直に言葉がこぼれ出た。
「……強くなりたかったんです」
「……」
驚くだろうか。とか。悲しむだろうか。とか。考えたけれど、そんなことはどうでもよかった。口からは際限なく言葉が漏れていく。話そうとなんて想っていなかったけれど、この穏やかな空気と湯上がりの満足感からかも知れない。それが幻介を攻めるような小t場になってしまわないように注意を払いながら、リディアは呟いた。
「あの日。貴方に倒されたあの日。貴方が見せてくれた剣は、私の信念とは真逆のものでした」
輝かんばかりの太陽の光を受けたものがリディアの剣であるならば、幻介のそれは月の光を反射する獰猛なる剣だと。命を守るためではなく、奪うために存在しているそれは。たしかにリディアに向けて、真っ直ぐに振り下ろされようとしていたのを覚えている。
――よもや、卑怯とは言うまいな?
いつもへらへらと笑っている幻介の本気は、酷くリディアの心を打ちのめした。ただそれだけのこと。
誰かを守りたいという気持ちに嘘はなかった。でもおごりはあった。誇り高き剣では会ったけれど、守ることは正しいことだと。義務感でもあり指名でもあるのだと。ただの一度も疑ったことはなかった。
けれど。誰かを守るために誰かを速やかに殺す幻介の研ぎ澄まされた鋭い刀を間違いだと叫ぶことは、とてもではないがリディアには難しかった。
一応はそれなりに剣の鍛錬を受けている。師匠と仰ぐ人物もいれば。これまでに沢山の強敵を相手にしてきた。そんじょそこらの傭兵よりかはそれなりに腕も立つと感じている。だからこそ、幻介の強さを疑う真似も、ましてや介が強くなるために覚えたであろう技術の否定も、リディアには出来なかった。となればリディアが自分自身を攻めるのは当然の帰結で、だけれどもそれを認めたくはなくて、だから苦しくて泣いていたのだ。泣くことしか出来ない己の無力を呪ったのだ。
はらり、はらりと青紅葉は散っていく。またたく天穹は青く、高く。きらめく星々に背中を押されるように、リディアは次の言葉を紡ぐ。それを、幻介は金糸を結い上げながらただ耳を澄ませて聞いて。
「……どうしていいのかわからなかった。だから……こんな手段に出てしまったのは、謝ります。だけど、……もう、いいんです」
「……」
強さの理由。剣の意味。ずっとずっと悩んで、付き合っていくであろうそれ。間違いはあれども正答はないのだろう。でないと、迷いながらも進んでいくことの出来る証明にはなりえない。自分自身が大切に想っているものを守ることすら出来ない無力感を味わうのは、きっと自分だけでいいと考えているから。
だからこそ、対局にあるような彼の剣はひどく悲しくて。お前の事なぞいつでも殺すことが出来ると宣言されたのも、どうしても苦しくて。だから、ずっとずっと嘆いていたのだ。
「なんとなく、答えがわかったような気がしたんです。剣に正解はない……なんて、当たり前のことかもしれませんけど」
幻介は答えない。
長い長い、長い沈黙が心地よく二人の間を通る。点滅する蛍の光は穏やかで。
涼しい夜風と、風鈴の音が耳をくすぐったと感じる頃には、幻介の骨張った手がリディアの髪を編み込みのポニーテールに仕上げてしまう。
背中から仄かに伝っている幻介の気配。待てども暮せども、やはり言葉は一つも無かったが、逆にそれが有難かった。
肯定も否定もない。それはただ理解を示してくれているのだろうと、考えることが出来たから。
まだ毛先を解すために櫛が通っていく。一度。二度。三度。
きっと、梳かされているのは髪だけではなくて、心もだ――
複雑に絡まった複数の思考を、ゆっくりとほどき梳かされている。
思えば、最初は只の負けん気だったように思う。
自分が学んできた騎士の剣は、何一つ間違っているはずはなくて。だから、普段からかっていようとも、幻介に負けるような甘い剣ではないと信じていた。
けれど現実がそう甘いはずもなく、そんな陳腐な夢物語は幻介自身の手で打ち破られた。
己は弱い。まだまだ未熟だ。自分が学んできた剣の道を自分自身で示さなくては、どうしたらいいのだろう。敗北を認めることは容易いけれど、己のこれまでの道のりの過ちを認めてしまってはいけないと思って、全力で抗った。
けれどあの時、彼が振るった刀に救われた自分がいた。怖かったけど、恐ろしかったけど……彼の振るう刀も確かに間違ってないと、理解するしかなかった。
いいや、きっと正解なんてないのだ。
守るために剣をとったか。奪わせないために剣をとったか。きっと二人の間にあるのはその程度の差でしかない。それから先は――心のどこかで……『私だって』と。
信じたかったのだ。
己は弱いことを知っているけれど。あなたの独りよがりで死なせたくはない。
私だって……『貴方と同じ場所で剣を振れる』と。
(うん、私はずっと、そう叫びたかったんだ……)
心の中にすとん、と落ちてしまえば、案外落ち着きは早いものだ。
ずっと悩んでいたはずなのにすうっと心の中に染み込んでいく。それは嬉しいような悲しいような、複雑な気持ちだ。けれどああ、きっとこれでいいのだろう。
リディアの顔は、晴れやかだったから。
「私、今まで。ただの一度も、間違っていないと。自分の剣こそが一番ただしいものだと信じていました。それは、誰かを救うことだけが正義だと信じていたからです」
確かに、正義ではある。誰かを助けることはローレットの
けれど、処刑人として研ぎ澄まされていた幻介の剣だって間違いなんかじゃない。
これ以上大切な人を、ものを、場所を奪わせない為に。これ以上悪人のせいで傷付く人がないように。
生まれた世界も環境も、剣を取るに至った経緯もそれぞれ違う。同じところなど内に等しい。そして二人の道は交わった。あまりにも正反対な剣ではあったけれど、けれどきっと、通ずるものはあったのだ。
「……だから、ごめんなさい。私、ずっと、あなたの優しさに甘えていたんですね」
「いいや、そんなことはない。仮にそうだったとしても、年長者にはそれを正す義務がある」
はい、と髪から手が離れた。揺れる金糸はかつての輝きを取り戻していた。
「ありがとうございます。……きっと、私。間違えたりなんかしません」
きっとまた悩みぶつかり葛藤することはあるだろう。それは己が弱いからでも未熟だからでもなく、己がもっと強くなりたいと願うからこそだ。
きっと貴方の剣に嫉妬していた。貴方の才能が羨ましかった。貴方のようになりたかった。
憧れみたいな嫉妬だ。背中を追いかけ続けるだけでは人は摩耗してしまう。今回の教訓だ。
明日からはよりいっそう頑張れそうな気がする。闇雲に振るっていただけだから間違ってしまうこともあるかもしれないし、腕も落ちたかもしれない。でもこれ以上停滞することも、交代することも、しばらくはないだろう。何となくそんな気がした。
夏の夜風に揺れる二人の髪。
素直になった心は叫ぶ。そして、リディアもまた頷く。幻介を振り返ったリディアの顔は、うんとすっきりした、ただの少女のそれであった。