SS詳細
月のように眩しいのは
登場人物一覧
パチパチ……バチン!!
「……あ゛?」
重たい目蓋を開け、鬱陶しい前髪の隙間から先を見れば、夜闇を赤く染める薪の揺らぎ。
砂漠での野営中にうたた寝とは、我ながら気が抜けていたか。
時折爆ぜる薪の声に起こされるとは。
「……俺もヤキが回ったか。」
ハァ……と一度。長く長く息を吐く。白く染まる吐息が夜風の冷たさを教えてくれる。幸い、丸めた獅子の体躯は冷えきってはいない。髪をかき上げて開けた視界で空を見上げれば星は高く瞬き、日の出は遠いと分かる。そう長く寝ていたわけではないようだ。外套の中からくたびれたスキットルを黒く大柄な手の中におさめれば、慣れた手つきで飲み口を開けて喉へと注ぐ。殊更酒精の高い酒が冷える身体を温めてくれ、またひとつ、ハァ……と、さきほどよりもどこか温かな白煙が空へと散っていく。
砂漠の凍える寒さ。冷たく見下ろす月明り。自分以外誰もいない、静かな世界。
突然空の上へと召喚され、特異運命座標だと言われ、空中庭園を介して移動できるようになったのは1年と半年ほど前か。にも拘わらず、今もこうしてわざわざ辛い砂漠の旅程を組み、1人野営をする。普通に考えれば、酔狂なことかもしれない。けれど、この時間が彼、ルナ・ファ・ディールは好きだった。
誰にも見られず。
誰の悪意にも晒されず。
誰も害することなく。
もっと劣悪な環境で育ったものはいくらでもいる。生き残れなかった者もいる。そういう意味で、彼には群れの雌たちがいた。力はなくとも、誰よりも速くかける脚があった。部族の中では見劣りするとはいえ、一般的に見れば壮健な体躯にも恵まれた。なにより、男として生を受けた。それは、幸運だったのだろう。
女は強い生き物だ。それは部族で自身を育ててくれた雌から教えられた。けれど、たとえいかに母という存在が強いものであろうとも、力では雄に敵わない。そして世間は厳しい。殊、ラサにおいては弱肉強食。煌びやかに見えるキャラバンの大通りはただの一面。一歩裏道へ入れば、弱い女は食い物にされる、そんな現実はどこにだって転がっている。そういう意味で、性別的にも、体躯的にも、そしてこの脚をくれた神様というのは、捨てたものではないのかもしれない。
(……なわけあるかよ。)
否。ルナは神を嫌っていた。
運命というものを憎んでいた。
幸・不幸などというものは相対評価ではない。そういう意味で、ルナは自分を幸せ者だとは思っていない。「自分を幸せな奴だと思う頭花畑の連中なんざごく一握りだろうさ。」というのが彼の弁だろうが。
けれど、自分の不幸自慢をするほど卑下もしていない。こんなのはどこにでも転がっている話だろう。てめぇの不幸自慢をしてなんになる。同情されたいのか? 同情で飯が食えんならいいがな。
そう思えるくらいには、彼はこのラサで生きてきた。生き残ることが全てで、気が付けば今の自分がいた、というのが正しいのかもしれない。
けれど、最近、どうにも彼の中をざわつかせる存在がいた。そして、それに気づかないほど青い歳でもない彼は、だからこそその扱いをはかりかねていた。
若い女がいた。最初に会ったのは、まだ酒も飲めない時分だった。なんでも名のある商家の生まれらしい。けれどそこに胡坐をかくでなく、1人で立ち、時に銃を手にし、女だてらに武と商を両立せんとしていた。
気が付けば女は羽化していた。強く、美しく。見目の話だけではない。芯のあるその心根は、眩しかった。
部族で毛嫌いされ厄介者のように扱われ、居場所がなく放蕩に出て好き勝手生きている自分のような男とは正反対の存在だった。けれど、それを妬ましくも、疎ましくも思うことはなかった。ただただ、女だてらにこのラサでしたたかに生きるその姿が。赤茶の瞳が。風に靡く白く長い髪が、綺麗だと感じた。
そんな彼女に、気が付けば同郷の縁だと何かと構っていた。これまで誰ともつるまずにいた自分が、だ。そして、そんな彼女から何かを頼まれる、頼られるのも、まんざらではなかった。
『探したよ。無事そうだな、良かった。』
『ありがとう、助かったよ。』
無事を喜ばれ。感謝され。そんなことが、久しくあっただろうか。
『また。』
離別ではなく再開を願う言葉を交わしたのは、いつ以来だっただろうか。
けれど、彼は思う。自分へと戒める。自分が特別ではないと。価値などという言葉で評するのも礼を失しているが、かの女性のソレは明らかだ。人脈、人徳、器量、力量。どれをとっても欠けることはない。そしてそれを支える心根と、慢心を知らぬ努力。考えれば考えるほどに、自分との違いに、眩しすぎて思わず「クックッ。」と笑いが込み上げてくる。
(大丈夫だ、勘違いして盛るほど若かねぇ。)
そういい聞かせ、軽くなったスキットルを一息に煽って吐き出した熱は、先ほどよりもどこか切なげだったことを、砂漠の月だけが知っている。
おまけSS『チョコレート色の』
(ガキみてぇにおセンチ気取りたぁ、本当にヤキがまわっちまったかな……。)
思考を切り替えるようにかぶりを振り、空になったスキットルを背嚢にしまって本格的に寝支度をするかと思えば。
コツン。
(……あん?)
手に触れた、あまり覚えのない硬質な感覚。
手に取り、月灯りに照らしてみれば。
豪奢に飾られた瓶の中で揺れる粘土の高い茶色い液体。
いつかに感謝とともに渡されたチョコレートリキュール。
(…………)
しばらくの間、空にかざして揺れる液面をぼんやりと眺め。誰かの肌色を思わせるその色調に自然と思考がそちらへと向かおうとする中、ハッっと我に返るルナ。
「酒じゃねぇんじゃ、な。」
そう悪態をつきながらも、粗雑な男には不似合いな瓶を背嚢にしまう手つきは、普段の彼の所作に比べると、どこか丁寧だった。