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蒼穹に手を翳して
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水夜子へとランチでもどうかと声を掛けた天川はスケジュール帳をテーブルに広げてから「此の辺りなんだが」と指差した。
「今度先生と飛行体験して遊ぶんだが、みゃーこもどうだ? お前さんも居ると先生も多少恐怖感も薄れるんじゃねぇかとも思ってな」
「え、良いんですか!? じゃあ姉さんと予定を調整してから天川さんへと改めてご連絡しても?」
勿論だと頷いた天川に水夜子はにこにことしながら可愛らしいスケジュール帳を確認してaPhoneで晴陽へとスケジュールの調整を再度確認しているのだろう。晴陽と出掛けるアポイントは取ってあるが、水夜子も同行するとなれば時間の調整が必要なのだろう。
「あ、姉さん、この日程なら大丈夫だそうですよ。宜しいでしょうか?」
「ああ。……それとな、ちょっと頼みがある」
「お願い事ですか?」
首を捻った水夜子は運ばれてきた食後のデザートのモンブランとラテに気付いてスケジュール帳をサイドバックへと仕舞い込む。何でしょうと首を傾げる彼女に天川は言い辛いのだろうか、同時に運ばれてきたブラックコーヒーを傾けた。
「実はな……ちょっと前に先生と一緒にパーティ会場で夜妖を捕獲するって仕事をしたんだが、それから先生の様子がおかしい気がする。
いやな、俺の気のせいかもしれんのだが、時折悩んだ様な考え事をしてるような……そんな感じがするんだ。まだ飛行体験まで時間はあるし、当日までにそれとなく聞いてみてくれないか?」
「ははあ」
水夜子は紅茶を傾けながらにんまりと微笑んだ。その笑顔の意味合いが分からずに天川は頭を掻いた。困惑して胸ポケットの煙草に手を伸ばしかけたが未成年が目の前に居ると気付いて慌てて仕舞い込む。
「俺が何か粗相でもしたのかもしれん……だとすれば俺に聞かれても答え辛いだろうしな。
ああそれと、みゃーこが俺は聞くべきでないって判断したなら俺に一切言わなくていい。
ただその場合、先生にとって良い事か悪い事かだけでも教えてくれるとありがたい。……心配でな。無論それも言うか言わないかは任意だ。頼めるか?」
「んふふ」
水夜子がにまりと笑った事の意味さえ分からない――だが、彼女は思い当たることがあるのだろうか。伝えるべきかどうかさえも一任したことが良かったのだろうか。
引っかき回しそうな水夜子の薄ら寒い笑顔に天川は「一応、教えてくれると有り難い。一応だ」と念を押した。
「只今戻りました。姉さん? 姉さーん。忙しそうですね」
「……さっきの予定確認しました。その日は一日空けておこうと思うので事前に用意だけでも」
空中飛行に関しては約束をしていたのだという晴陽は何となく楽しみにしていたのだろう。水夜子は好奇心は旺盛ではありつつも、澄原の跡取りであると言う重責から彼女がそうした体験を控えていることを察する。
水夜子が知っている晴陽とはそう言う人だ。長女として将来を期待されて育った彼女は年が少しばかり離れた弟には苦労をさせたくはないと彼を跡取りに推す声を撥ね除けるように過ごしてきた。出来れば弟には自由闊達に過ごして欲しいと考えていたのだろう。流石はブラコン、と水夜子は笑みを浮かべる。
「私もご一緒させて頂けるらしくって、私が飛行体験をしてみれば姉さんも安心するだろうとのことですよ」
「お気遣い頂けたようですね。有り難いです」
何らかの事故に合うわけには行かないと己を律する晴陽も天川が水夜子を危険な目に遭わせるわけがないという信頼があったのだろう。空中飛行体験を楽しみにしているようなのであった。
「あ、そういえばなんですけど、天川さんと何かありました? 姉さん、パーティ会場の調査に行った日から反応が可笑しいじゃないですか」
「………」
「姉さん?」
晴陽の能面のような表情が蒼くなった。水夜子は一体何があったのだと晴陽を凝視した。蒼褪める事は想定外だったのだ。てっきり、堅物な従姉にとって喜ばしい出来事があったとばかり考えていた水夜子は天川が粗相をしたのではないかと告げた理由を探すように「い、厭なことでも」と問い掛ける。
「龍成には叱られてしまったのですが……その、好意、とは何でしょうか?」
「え? 其の儘の意味では……」
流石に『しっかりとした教育を施されてやってきた』澄原ガール達は敬語を崩さぬまま、二人で向き合っている。真剣な表情の院長とその助手でもある従妹の少女。そんな様子を端から見ればさぞ大変な話をしているのだろうと誰もが理解するであろう。
「天川さんが『好感を持ってるし頼られると嬉しい』と仰っていたのです。いえ、私とて天川さんに好感を覚えています。不快ではないと思いますし」
「は、はい……」
「私が龍成や水夜子に対して考えている好意と天川さんの仰られる好感が同様であるか、計りかねてしまったことが私の落ち度ではありますが」
「はあ……」
「他者に好感を持たれることに私は慣れて居なさすぎてですね、どう接するべきか計りかねたのです」
水夜子は思わず「なんじゃそりゃ」と言いたくなった。其の儘の意味として受け取っておけば良いというのに、その奥を考え始めてしまうのが真面目が由縁か。その先に存在しているのは恋愛的な意味合いか、親愛的な意味合いか、等という分類だけではないか。
「今は、いいんじゃないですか? 少なくとも嫌いではない、不快ではない、仲が良い相手である……というだけで」
「そう、でしょうか」
「そんなもんですよ」
それ以上ないですって、と微笑んだ水夜子はどうやって天川に報告するべきか考え倦ねたのであった。
セフィロトドームの外で行われるという飛行体験は練達で作成されたユニットを背負って行うらしい。二人乗りを行う場合は一方が着用し、もう一方は安全ベルトを着用するそうだ。科学的な技術を活かしては居るがユニット着用があまりという場合には風精霊の支援を受けることも出来るらしい。
その日のために何方もの操作を学び、練習を行ってきた天川は準備万端と言った様子で水夜子と晴陽を迎えた。空を飛ぶのだからパンツスタイルで、と伝えておいたからだろうか普段よりもラフな格好をした二人に「少し雰囲気が違って見えるな」と天川は手をひらりと振る。
「よし! みゃーこ! 準備は良いか? 行くぞ!」
「ええ、姉さんは下で見ていてくださいね! 怖くないと思いますから!」
れっつごーと拳を振り上げた水夜子に「お気を付けて」と晴陽は手を振った。安全な飛行である事をアピールするという水夜子と天川を眺める晴陽は眩そうに空を眺める。
思えばこうして空を眺めることも久方振りではなかろうか。ずっと書類とばかり睨めっこしていた日々が何となく引きこもりの暗すぎる毎日であるようにも感じられた。
「――で、聞いたんですけど、姉さんに」
「あ、ああ」
「天川さんが悪いですね」
天川の操作が思わず崩れそうになったが、何とか気を取り直した。「ん?」と首を捻った天川に水夜子は意地悪くくすくすと笑う。
「姉さんは他人に好意を持たれることに慣れて居ないので、好感とは果たしてどの様な仔細を有している感情なのかと考え続けて居たそうですよ。天川さんの言葉足らずめ」
揶揄うような水夜子の言葉に、確かに彼女は人からの好意に慣れて居らず鈍感である事から他者を不快にしていないのかどうかという非常に否定的な見地から好意の度合いを定めようとしてきたのだろう(と、天川は考えた。水夜子に言わせれば不器用な人間達である)。
「姉さん!」
手を振る水夜子に晴陽が眩そうに目を細めて手を振り返す。そうしていれば普通の女性だ。柔らかに少しばかり笑った表情も屹度、長く共に居た従妹相手だからなのだろう。
「先生、準備は良いか? 大丈夫だ。まずはゆっくり低空から行こう」
「は、はい。緊張しますね……宜しくお願いします」
最初は「お、おお」と地から足が離れたことにおっかなびっくりしていた晴陽ではあるが、地上から声を掛ける水夜子に気付いてからは雰囲気も幾分か和らいだだろうか。
高度を上げられるようになって来てから、少しばかり長時間飛行をしてみようかと提案した天川はぎこちなく地を見下ろす晴陽に「先生」と声を掛けた。
「いい機会だから聞いて欲しいことがある……鉄心の話だ」
「はい」
――弟は大事にしなくてはなりませんから。そんな言葉を発していた晴陽は頷いた。義弟のと晴陽を重ねているという彼に、自身が出来ることがあるのではないかと彼女は考えているのだろう。
「俺は良い義兄じゃなかった。結局最後まで鉄心に兄らしいことはしてやれなかった。だからどうしても鉄心に立場や雰囲気の似てる先生を重ねちまうことは否定できない。
……でもそれだけじゃないんだ。やっぱり俺は先生に幸せになって欲しい。勘違いするな? 先生が幸せになれない、なんて微塵も思っちゃいねぇぜ?」
晴陽は天川の話を促すように小さく頷いた。
「俺から見ても、先生は芯の強い良い女だ。不器用すぎる所もあるが、俺なんかが余計なお節介なんて焼かなくても、自分で幸せになれる人だ。
ただ少し、窮屈に見えてな……先生も鉄心も自分の意思で努力し、進んで今の立場に立ってる。そこに誇りや信念もあるだろう」
「はい。私は澄原の跡取りですから。勿論、窮屈だと思います。鉄心さんも、私も。それが家を継ぐ……と言うことでしょう?」
「ああ。……だが、自分の可能性を狭めて欲しくない。
先生は俺なんかと違ってまだ若い。先生程能力がある人は澄原のまま、今の立場を捨てずにもっと色んなことを選べるはずなんだ。
だから知って欲しい。外の世界を、広い世界を。知らなければ選ぶこともできねぇんだ……」
その通りだと晴陽も感じ取っていた。天川が鉄心に対してそう感じていたのかは定かではないが、少なくとも晴陽が聞いてきた彼の義弟も同じように閉じた世界で育っただろう。
英才教育を施され大企業の柱となるべく育てられる。立場が違うとすれば晴陽は女性の身の上でありながら、弟をその様な目に遭わせたくはなく進んでそうした道を選んだという事だ。鉄心は姉がいた。天川の亡き妻は女の身の上であったが故にその責務からは一度離れていたのだろうが――それでも、婚姻などでは大きく制限があっただろうことが容易に考えられる。
「……例えば、少しの休暇を取って外国に旅行する。例えば、異国の遊びを趣味にしてみる。
色んなことを知って、その上でたくさんの選択肢の中から先生が選んで幸せになって欲しいのさ。
これは俺の勝手な願望で、先生は自由だ。俺のお節介に耳を傾けてもいいし、向けなくてもいい。
知った上で知ったことの中から選ばなくてもいいんだ。ただ、知って欲しいと思う」
「そうですね。私も鉄心さんも屹度、不器用ですし、窮屈な場所に納得してしまったんでしょうね。
私達は自身達の能力を過信しない。だからこそ、こうして空を飛ぶ事さえも自身への危機と天秤に掛けて組織を優先してしまう――もし、此処から飛び降りたら次は誰が、組織を担うのだろうと考えてはそうした可能性を全て排除してしまうのでしょうね」
彼が義弟と晴陽を重ねているのは雰囲気や年齢その他諸々だったのだろう。だが、天川が晴陽に対して幸せになって欲しいと願うのは本心だろう。
晴陽とて、それはよく感じ取っている。進んで己がその位置に立っていることを理解しながら、もう少し広い視野や視座で己達の道を切り拓いて欲しいと願ってくれたのだ。
「私や鉄心さんは、一歩踏み出す勇気がなかったのでしょうか」
「かもな。本当はな……鉄心にも言ってやりたかった……。
あいつは優秀だが頭が固くてな……。はは、まあ、想像つくだろうが、趣味もない仕事人間だった。自分で気付いてくれてればいいんだがな」
「私とそっくりですね」
「はは、確かにそうだ。……それと余計なお世話を拒否するのも先生の自由だからな? そうであっても俺はずっと先生の味方だ。ちょっとクサイセリフが多すぎるな……」
頬を掻いた天川に晴陽は「いいえ」と首を振った。自身の味方でいてくれる誰かというのは有り難いものである。自分を尊重した上で、選択肢を委ねてくれている。
澄原 晴陽の人生においては尊重されることはなかった。故に、彼女は自分からの主義や主張を持たず、自分自身から何らかのアプローチを行う事も少ない。
それは晴陽個人の話だ。組織が絡めば全体を思い浮かべての決定が求められる。自己を押し殺して生きることになれていた晴陽は「自由ですか」とぼそりと呟いた。
「お! 見てみな! 先生みたいに綺麗な晴れた空と太陽だ」
「え」と晴陽が声を漏した。正確には『晴陽』という名前みたいな、という意味合いなのだが彼は言葉足らずな部分がある。
晴陽からすれば自身は日陰の存在だ。明るい晴天のような名をしては居るが、その様な部分など一部もないと氷のような自身に困り果てたこともある。
――と、言うのにこの晴れた空や太陽が己のようだというのは、予想外だったのだろう。
硬直した晴陽の様子を地上から眺めていた水夜子は「また何か言葉足らずを発揮したのだろう」と天川を眺めた。
意図がすれ違ったネガティブな女医と、明るく闊達な探偵の様子を見詰めて水夜子は「お腹が空きましたよ~」と助け船を出すように声を掛けたのだった。
再現性東京で天川がお気に入りだえあるという小料理店『明星』に踏み入れて水夜子は「こんばんはー」と挨拶を一つ。
天川も「大将、イイの入っているか?」と暖簾を潜り気軽に問い掛ける。緊張しているのは晴陽だけであろうか。こじんまりとした店舗には数席程度の座敷が存在し、基本はカウンターが主流なのだろう。カウンターにどかりと置かれている水槽を一瞥した店主は「勿論」と笑う。
新鮮な魚貝を自慢としている小料理店は和のテイストを感じられて天川にとっては非常に居心地の良い場所だった。水夜子はジュースを眺めてから「姉さんはお茶ですか?」と問う。
「いえ、お勧めを頂戴しようかと……」
「そりゃ、良かった。この時期はヒラマサやウニ、ウチワエビなんかがおすすめだぜ。それに合うものを対象に選んで貰うか」
天川の提案に晴陽は大きく頷いた。パーティやそれ以外の席ではあまり飲酒を好まない晴陽ではあるが、今日は水夜子も居ることもあり天川のエスコートに全般を任せようと考えたのだろう。
水夜子が「私、だし巻き卵食べたいです。あと、エビもいいですよね。あ、それから」とメニューを指差して遠慮なく注文する様子を眺めながら天川は笑う。
実の所、事前にお代は先に渡してあり、足が出たとしても後日で構わないという店主との取り決めが存在していたのだ。其れを知らない晴陽は水夜子が天川と晴陽の『奢り』だと認識して注文しているのだろうという呆れを滲ませていた――後ほど、会計は済んでいると言われて呆気にとられるのは別の話でもある。
「それにしても、何だかぐったりしましたね。空中散歩って結構風圧とか、色々あるんですね。
ワイバーンとか飛行生物に乗って移動するイレギュラーズの皆さんって体幹が凄いのと、風への抵抗能力でもあるんでしょうか」
「違いないな。体の強さというのもあるだろうが、恐怖心があるかどうかというのも大きく関わりそうだ」
運ばれてくる料理に「美味しいです!」と明るく笑う水夜子を眺めてから晴陽は「それでも良い体験でした」と頷いた。セレクトされた日本酒は少し辛口だ。天川は「先生は酒なら何でもイケるクチか?」と問い掛ける。
「……焼酎は少し苦手かもしれません。日本酒や果実酒、ワインは一通り……」
「独特の匂いがあるものは好き嫌いが分れるのは良く分かる。果実酒なら深緑のも美味しいそうだが、再現性東京の日本酒も中々バリエーション豊かで良い」
「ええ。今度、私の好みのものを差し上げましょうか。美味しいという自信があるのですが中々……分かち合える人が居ないので意見を聞いてみたいというのもあります」
水夜子が未成年である事や龍成とも長く疎遠であったことがあるのだろう。折角の友人に好みの酒を分かち合いたいという意図が見え隠れして天川は「それも良いな」と頷いた。
「みゃーこは暫くはお預けだな」
「いいですよ。天ぷらで手を打ちましょう」
「ああ、好きなものを頼め。大将に『みゃーこ専用セット』でも作って貰うのはどうだ?」
「やった。大将、みゃーこちゃんスペシャルとか頼めます?」
嬉しそうに立ち上がり、好きな具材を指定して店主と顔をつきあわせる水夜子を見詰めてから晴陽はくすりと笑った。
「……本日はお誘い頂き有り難うございます。貴重な体験でした」
「いや、楽しんで貰えたならそれでいい」
「その……皆さんのように戦いに赴く勇気も力もない私ですが、安全な場所ならばまたお供させてください。
天川さんが仰って居たように、私もちゃんと自分の目で色々と見て、可能性を広げられればと思います」
澄原の家を背負うからと再現性東京にばかり引き籠もっては居られないと告げた晴陽に「平和にしなくちゃな」と天川は笑いかけたのだった。