SS詳細
夏と湖畔と私のナイフ
登場人物一覧
努力などしたことがなかった。いつだって、何もかも思い通りに人は動き、死んでいく。だから、男は津久見・弥恵(p3p005208)に戸惑い、心を奪われている。
「暑いな」
男は目を細めた。蝉の声が聞こえ、夏雲が青い空に浮かんでいる。息を吸う度に汗が吹き出し、分厚いパーカーとカーゴパンツをじっとりと濡らしていった。この季節に男は外套を羽織っている。
「……」
ふと、男は手を上げ、ぴたりと停まった馬車に乗り込む。初老の御者に行先を告げれば、馬車は湖畔の近くに建つコテージを目指し、がたがたと走り出す。男はすぐに両目を閉じ、
「お客さん、涼しくなってきたでしょう?」
優しい声だった。男は静かに両目を開いた。
「……そうだね、水辺があるからだろうか」
「ええ、その通りですよ。気化熱でこのあたりはとても涼しく感じるんです。それと、知っていますか? 湖で美味しい魚が釣れるらしいですよ」
「魚? 悪いけど魚は苦手なんだよ」
男は顔をしかめ、左右に頭を振った。
「おや。それは残念です」
御者は笑い、馬車は森に入っていく。そのまま、馬車は道なりに進み、真新しいコテージの前に停まった。
「ありがとう」
御者に礼を言い、馬車を降りれば、男はハッとする。良い匂いがする。そう、これは肉が焼ける匂いだ。
「Uさん!」
弥恵の声が聞こえた。男は身構え、口を開いたが、発しようとした声は、御者に搔き消された。
「いいですね、バーベキューですか!」
「ええ、お肉も野菜も奮発しちゃいました」
バーベキューコンロの網には、野菜と肉が並べられている。
「それはそれは! では、素敵な時間を楽しんでくださいね!」
御者は弥恵と男の顔を交互に見つめ、微笑む。アルミ製の折りたたみテーブルには、新鮮な食材や塩むすび、すりおろしたにんにく、何種類もの焼肉のたれが置かれている。男は喉を鳴らした。思えば、今日は何も口にしていない。
「ありがとうございます!」
にこやかに笑う弥恵の横顔を男は困り顔で見つめている。御者は手を振り、軽やかに馬車を走らせ、コテージから離れていく。
「……どうして? 何を考えているの?」
男は肉から目を逸らし、弥恵にナイフを向ける。弥恵はTシャツワンピースにデニムを着ている。
「招待状が届いていたでしょう? 私はただ、コテージに貴方を招待しただけです」
弥恵はトングで肉を引っ繰り返している。
「……」
「ですので、そのナイフは引っ込めていただいて、そこにある服に着替えてくれません?」
「着替える?」
「ええ。此処は涼しいと言えども、貴方の見た目はかなり暑苦しいので。私を
ニッと笑う弥恵に男は外套を脱ぎ捨て、乱暴に服を掴んだ。
「良いですね。交渉成立でしょうか」
紙皿の上には大量の肉と野菜がのっている。良い匂いだ。言いたくはないが、食欲が湧いてくる。
「……着替えたけど」
男は呟くように言った。男はサーフパンツに無地のTシャツを着て、足元は弥恵とお揃いのスポーツサンダルを履いている。
「!! 素敵ですね、似合っていますよ」
「似合っている? 君はこの恰好が好きなの?」
「え? ええ!」
「そう。分かった」
男はじっと弥恵を見つめ、弥恵からトングをさりげなく奪った。
「え?」
キョトンとする弥恵にむかって男は追い払うように手を動かした。
「座ってて。よく分からないけど、焼けた肉や野菜を紙皿にのせればいいんだろう? それくらいなら私にも出来ると思う」
男は暑そうに目を細め、トングでみょうがにもやし、キャベツと玉ねぎをかき混ぜ、じゃがいもをひっくり返し、別のトングで豚肉を裏返した。
「分かりました、交代しましょう! では、お待ちかねの乾杯のお時間です!」
「乾杯?」
小首を傾げ、弥恵の紙皿に豚肉をのせる。
「ありがとうございます。あ! もしかして、未成年でしたか?」
弥恵は背筋を伸ばし、まじまじと年齢不詳の男を見た。男はうっとおしそうに弥恵を見返した。
「ううん、違うけど」
「それは良かったです! なら、ビールで乾杯しましょう!」
弥恵は安堵し、足元に置いてあったクーラーボックスから100mlの缶ビールを二本取り出し、男に手渡した。
「あ、冷たい……」
男は呟いた。表情はそんなに変わらないが弥恵には男が驚いているように見えた。弥恵は笑う。なんだろう、とても楽しい。
「そうですよ! 数時間前から冷やしていますので! 出来る女でしょう?」
「……どうかな。それよりビールが小さいサイズなのは何故?」
「おっ! 素晴らしい、気が付きましたか! では! 何故でしょう、クイズです!」
弥恵は缶ビールの蓋を開け、男の缶ビールに自らの缶ビールをぶつけ、「かんぱ〜い!!」と笑い叫んだ。
「……もう酔ってるの?」
男は怪訝な顔をした。悔しいが、今日の弥恵に警戒心は存在しないようだ。
「いいえ。ほら、乾杯は?」
「……乾杯」
男は弥恵が缶ビールを美味しそうに飲み干すのを見た。
「あ〜! ビールが美味しいですね。では、お肉と野菜をいただきます!」
男はその様子を無意識に眺めていた。弥恵は甘口のたれをかけ、野菜を食べ、肉を頬張る。途端に弥恵の瞳が見開かれ、キラキラと輝く。
「Uさん、早く食べてみてください! お肉も野菜も最高ですよ! はぁ〜、カルビの脂が甘くて……!」
弥恵は気がついたように塩むすびを食べる。
「あ〜、これです! これ! やっぱり、バーベキューには塩むすびですよ! え? そんなに見られてるってことは私の顔に何か付いてます?」
男は缶ビールを飲みながら、弥恵をジッと見つめている。クイズの答えなど、どちらも忘れていた。
「付いてるよ、顔にたれが」
男は缶ビールの飲み口から唇を外し、濡れた唇から面倒くさそうに息を吐いた。
「顔? え、何処です? ここ?」
「違う……ここ」
男は呆れ顔で弥恵の顎に手を伸ばし、指先で拭う動作を行う。
「ほら、付いてた」
男は指の腹を弥恵に見せた。
「ッ!? は、恥ずかしいですね!」
弥恵は顔を真っ赤にし、男を見つめる。
「別に良いけど。ただ──」
「ただ?」
弥恵は小首を傾げた。男の顔は何だか楽しそうに見えた。
「貴女が楽しそうだから今日はやめるよ……きっとそれは野暮って言うんだろうしね」
男はナイフを地面に突き刺し、笑顔を向ける。男は辛口の焼肉のたれににんにくを溶かしながら、何枚もの肉を豪快にフォークで突き刺し、たれに浸した。
「いただきます」
男は肉を口に含み──うっとりと目を細めた。弥恵は笑う。
「ふふ、美味しいでしょう! あと、貴方も唇にたれが付いておりますけど?」
「!? たまたまだよ」
肉で頬を膨らませたまま、男はもそもそと言葉を発した。
「え〜? そうだと良いんですけどねぇ?」
「大丈夫、次は上手く食べるさ」
弥恵は目を細めた。男が笑う度に男の尖った歯と少しだけ長い舌が弥恵の目に映り込んだ。
「それはどうでしょうか」
弥恵がくすくすと笑う。男は弥恵の言葉に首を左右に振りながら、ひたすら肉ばかりを口にする。
「沢山食べましょうね。あ、次は何を飲みます? ワインもありますよ!」
弥恵は嬉しそうに叫んだ。目の前の殺人鬼と、何だか仲良く出来そうな気がする。
おまけSS『夏のにおいがした』
「Uさん、夜のご予定はございますか?」
「……当たり前のようにないけど」
「ふふ、そんな目で見ないでくださいな。では、夜に線香花火でもしませんか?」
「どうして?」
「どうして……特に理由はないですけど、そうですね。楽しそうだからですよ」
「楽しい……」
「楽しいことはお嫌いです?」
「ううん、嫌いではないよ」
「そうですよね。バーベキュー、とっても楽しかったですもんね! では、やりましょう!」
「うん、分かった。ちゃんと楽しむ、から」
「その意気です! あっ、ロケット花火も買い足します? 大迫力ですしね!」
「いや、いい。