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ひだまりであなたが笑えば
登場人物一覧
日輪 寿が個人的に使用しているのは神社と併設された日本家屋であった。旅人ではあるが、巫女としての才覚を有している寿は神社の管理をしながらのんびりと日々を過ごすことが多かった。
藺草の薫り立つ室内で洗濯物を畳んでいた寿は少しばかり厚い雲が差し込んできたことに気付いた。一雨来るだろうか。何となく直感的にそうだと感じて早めに洗濯物を取り込んでおいて良かったと息を吐いた寿は物音に気付いてからゆっくりと立ち上がった。
この天気では社務所に用事がある参拝客ではないだろう。どちらかと言えば物音は玄関側で――がらりと音を立てて開いた玄関から「痛っててて」と聞き慣れた声が聞こえた。
「千尋さん……?」
そろそろと玄関に近付けば靴を乱雑に脱ぎ捨てている千尋の姿が見える。後ろ姿を見るだけでも随分と窶れ、普段着として着用して居る衣服も泥汚れが目立っていた。
「日輪ちゃ~ん! いる~!?」
「はい。おかえりなさ――ど、どうされたんですか!? その怪我……!!」
慌てて駆け寄った寿に千尋は「え、いやあ~」と笑いかける。走り寄り、膝をついて直ぐに千尋の様子を確かめる寿の表情は険しい。千尋とて傷を隠し通せるとは思わず、ざっくりと切れた腕や、応急手当はしたが頬に宛がったガーゼなど痛ましい傷を曝け出すように寿を振り返った。
「いや~! 覇竜に進出したからよ、ドラゴン相手にする事も多くてさ! こーんな大きいやつとか!」
「覇竜……ってあの、危険だという場所ですか?」
「そーそー。安全なら寿ちゃんとワイバーンの背中で空中散歩なんてのもオツなんだけどな。暴れん坊が多くってこのザマ」
からからと笑った千尋に寿はきゅ、と唇を噛み締めた。イレギュラーズであるのは己も彼も同じだ。
だが、日常的な生活の基盤を優先するように躾けられた寿は戦う事を得手とはしない。彼女自身も努力研鑽を重ねれば彼の隣に並び立つ可能性はあるが――それは彼も望まぬ所だろう。
千尋は「いやあ、サイキョーに痛かったべ。何せドラゴンだからな!」と少年のように屈託ない笑顔を浮かべて寿に揶揄うように告げては居るが寿の表情は暗くなるばかりだ。
彼がイレギュラーズとして活動する事を止めたくはない。だが、自身の棲まいであるようにこの場所に帰ってきてくれる彼は毎回怪我をしているのだ。
どうしようもなく心配ばかりが積もる。こんなにも傷ついて帰って来るというのに、黙って待っていなくてはならない――行かないで、なんて我儘を寿は口にはできないのだ。
「……痛いでしょう。手当をしましょう」
暗い声を出した寿にぎょっとしたように千尋はその顔を覗き込んだ。本心を言えば、怪我をして帰ってくるのも心配させるのも千尋の側のエゴだ。
怪我をすると寿は心配そうにその大きな瞳に涙を溜める。心配をし、手を引いて手当てをして共に過ごしてくれるのだ。
それで繋がりを認識しているというと酷い事をしていると感じてしまうが、彼女が自分の側から離れないという仕草や意識、言葉だけで千尋の心は満たされるのだ。
何れだけ死地へと赴こうとも寿の傍だけは平穏が流れている。彼女の暮らしが悪しきによって害されないように
痛いだとか、死にそうだとか、怖かっただとかそんな
「その……凄いお怪我だったので……」
「まー痛いっちゃ痛いよな。何せデケェドラゴンだったから。ま、俺に掛かればマジヤッベェドラゴンでもワンパンってワケよ!」
ちょっと掠ったにしては随分と痛々しい千尋の笑顔を眺めながら寿はこちらへとその手を引いた。先程まで洗濯物を畳んでいた縁側のある和室に彼を誘って救急箱を取り出す。
傷口の血を拭うために湯を沸かし、その間にも何か軽食を食べて欲しいとおにぎりを作る寿の背中を頬杖を付いたまま眺める千尋は良いものだなと感じていた。
穏やかな日常がそこにはある。確かに、イレギュラーズとして戦地に赴き戦果を上げることは何ものにも変えられぬ高揚を感じることはある。
だが、それも千尋にとっては有り得なかった日常の一つではある。ライバルチームとの抗争を行うのではなく、ファンタジーモンスターとの戦闘はどれ程までにも恐ろしいか。
寿とて、それを知りながらも行かないで欲しいとは言わなかった。穏やかで、余りに誰かに求める事を知らない彼女は千尋に対しても
(――日輪ちゃんも我儘を言っても良いってのにな)
彼女はそうした言葉の一つさえも口に為ず、穏やかに微笑んで待っていてくれる。それから、自身に対して苦しげに、泣き出しそうな顔をしながら傷の手当てを一つ、一つしてくれるのだ。
その顔を見る度に己が大切にされているのだと感じてしまうのは随分と酷い感情なのかも知れない。
桶を手に傷口の血を拭う寿の手が少しばかり震えていることに千尋は気付いた。痛ましい傷を見て彼女が怯えてしまったのか――そう、問い掛けようとした千尋は彼女が「よく、ご無事でした」と震える声音で紡いだことに気付く。
「……とても、深い傷で……」
「ま、大変っちゃ大変でヤベーといやそうだったから」
「……怖くは、ありませんでしたか?」
「ダイジョーブ、俺だぜ?」
「……千尋さんは、強いですね」
震える声で傷を拭い、消毒を慣れた仕草で行ってくれる。ガーゼや包帯を手際よく準備する寿の姿を確認してから千尋は「ま、今回はちょっとヤベェとこもあったかもだけど、さ」とその頭を撫でた。
俯き気味の寿の表情は前髪で隠されている。泣いてやしまっていないかと「日輪ちゃん」と呼びかければ首を振られた。
「日輪ちゃん」
もう一度呼ぶ。指先のぬくもりが少しだけ遠離った。包帯を握るその手に力が込められたことに気付く。
「日輪ちゃん」
こっち向いてと言葉を重ねれば、強張った指先から力が抜け、包帯を巻き付けていた腕がするりと落とされたことに気付いた。まだ結ばれぬままの其れが腕からはらはらと落ちて行く。
千尋は空いていた腕で寿の頭を撫でてから「日輪ちゃん」ともう一度呼んだ。
「怖がらせてゴメン」
「……いいえ」
「こっち向いて」
首を振る。そんな彼女に千尋は髪を梳いて、指先を頬へとなぞる。その頬に少し濡れた感触を感じてから肩を竦めた。
「――寿ちゃん」
顔がゆるゆると上げられた。大きな眸には涙が湛えられ、宝石のようにきらりと輝いている。翡翠の石のようで美しいその人実を覗き込んでから「ゴメン」と千尋は繰り返した。
「……謝ることでは、ないですから」
心配させた、と言いながらもそうして泣いてくれた彼女に千尋は喜びが隠せなくて――つい、緩んだ口許を隠すようにしてから息を吐いた。
「……いつもありがとうな、寿ちゃん」
「……いえ、いいんです。ここへ、戻ってきてくれたら……それだけで……」
そう彼女が望んでくれるだけで、どれ程までの喜びを感じられようか。
強がるように痛みを堪えて、彼女の元へと帰ってきた己を、彼女は慈しんでくれるのだ。
互いの感情の意味はまだ、知らぬ儘。それでも大切であると言う気持ちだけは互いに伝わっていることを感じて千尋は「ありがとう」ともう一度、寿の頭を撫でた。