SS詳細
蒼に憧れて
登場人物一覧
氷の花がこの世界に生まれ落ちた時、彼女の視界には白色と灰色しかなかった。
無機質な岩と氷、雪に閉ざされた永遠に続く冬の谷。それが彼女が産声をあげた場所だった。誰も寄り付かない忘れ去られた谷では、自身を
氷の花が産まれて数日後、彼女の中に時間という概念が産まれた。その流れは酷く緩慢としていて、実際の時間よりずっと長く感じられたが、決して悪い気はしなかった。
岩場の影から僅かに差し込む陽光の明るさで目を覚まし、点々と自身を濡らす朝露の恵みで顔を洗い、喉を潤した。
昼は岩場の陰が暑さから自分を護り、夜は天高く輝く星々を見上げキラキラと煌いて降り注ぐ美しさにほうと溜息を吐きながら瞼を閉じる。
そうして氷の花の一日は終わりを告げるのだ。
眠っては起きて、起きては眠るを繰り返す毎日だったが、氷の花がそれを疑問に思ったことはなかった。この緩やかな時の流れを繰り返していつか散って、雪の中へと還っていく
いつしか胸にぽっかりと穴が空いた様な感覚は自覚こそしていたものの、それが『寂しい』という感情なのだ、と教えてくれる人は居なかった。
氷の花は生まれてからずっと一人だった。
夢に見たことはある。
自分の身体が見たこともない生物のものになっていて、隣で誰かが笑っている、そんな幸せな夢だった。
葉は五つに枝分かれした不思議な形になっていて、根は太い一対に減っていたがしっかりと地面を捉えて身体を立たせていた。茎は普段と変わりない白い色ではあったが、風が吹く度に頼りなさげに揺れていて花弁はなくなっていた。顔に触れてもつるりとしていて、その代わりに隣の誰かと言葉を交わすことができる手段を得ていた。
そして見上げた空は自分の知っている曇り空の灰色ではなく、どこまでも突き抜けるような蒼だった。手を伸ばせば触れられそうなのに決して触れられない、でも心が突き動かされるほど綺麗だった。
美しくて、優しくて、残酷な夢だった。
ぴちゃん、と雫が顔を打つ。
いつもの様に朝露が朝を教えてきた。
ああ、またこの夢か。
氷の花がこの夢を幾度となく見る様になる頃には、幾度となく冬を繰り返していて小さな芽だった氷の花は美しく咲き誇り、あとは生命を終えるのを待つというところまで来ていた。当たり前に受け入れていた運命に今更氷の花は恐怖を覚える様になった。今まで過ごしてきた日常に終止符を打つのはいつなのか、今こうして過ごしているうちにもあっさりとその生命を終えてしまうのでは無いだろうか。
その事が酷く恐ろしかった。
もしや、今なら夢の中と同じ姿になっているかもしれない。
はっと、思いついて僅かばかりの期待を込めて、顔に触れようとしても、動く気配すらない葉に現実を思い知り、氷の花は諦念の溜息をこぼす。
朝露が溜まり、僅かにできた水鏡を何度か覗き込むとなんら変わらない自身がいる。厳寒を耐え抜き美しく咲き誇ったとて『綺麗だね』と褒めてくれる者もいない。
何の為の美しさなのか。わからなかった。
以前は疑問に思うことすらなかったというのに。
氷の花は、夢の中の自分を羨み現実の自分を恨んだ。せめて最期を看取ってくれる誰かが居れば、この胸に湧き上がる凍りついてしまいそうな冷たさももう少しマシだっただろうか。
せめて、私が散ってしまう前に、あの『蒼』を私の目で見ることが叶わないだろうか。
いつもは自分を護ってくれる陰が今日は酷く鬱陶しく思えて、氷の花は身を縮こまらせ、夜を待たずして、氷の花は夢の世界へと足を踏み入れた。
「ねぇ、君はどうしてそこにいるんだい」
いつもと変わらない幸せな夢。
交流なんて到底呼べない独り善がりな夢だったが、その日隣の誰かが初めて口を開いた。
氷の花は何も言えなかった。
この間の夢では何か言葉を紡いでいた筈なのに、花弁に戻ってしまったかの様に何も言えなかった。
「君はあんなに蒼に憧れているのに」
事実だ。だからこの優しくて残酷な夢を何度も見るのだ。何も言えずにいる氷の花などお構い無しに誰かはさらに話し続ける。
「君は外に踏み出すのが怖いんだね」
誰かが立ち上がって、氷の花の前に立った。顔は影になっていて分からなかったが笑っているのだと何故かわかった。
「ああ、ごめんね。馬鹿にしているわけじゃないんだよ。簡単なことじゃないのもわかってる」
ならば何だというのだ、氷の花は恨めしげに見上げた。だがまるで言葉は紡げず焦がれて止まない蒼が目に焼きつくだけだった。
「でも、そこにいるだけじゃ君はただの花の儘だよ」
それでも、いいの?
その一言で目が覚めた。
おまけSS『蒼に焦がれて』
何度となく冬を繰り返し、疾うに自分が咲いて何年かなんて忘れてしまった頃。
その日初めて雪が止んだ。相変わらず空は灰色の雲でお化粧をしていたけれど、切れ目から僅かに『蒼』を見た。
(なんて、綺麗な色なんでしょう)
その蒼からカーテンの様に光の帯が差し込んでいた。もし天使が存在するならあそこから降りてくるに違いない。そう思ってしまうほど神聖で、神々しい蒼だった。
暫くその蒼から目が離せなかった。やがて雲がその蒼を覆いつくし再び雪を降らせたとしてもずっとあの蒼が頭から離れなかった。
あの雲の下まで行けば、またあの蒼を見ることが出来るだろうか。
手を伸ばせば触れられるだろうか。
氷の花はじっと自身の手と足を見た。指先とは到底言えない先が尖った葉に深く地中に張り巡らせた根。
ああ、どうして私は花なんかに生まれてしまったんでしょう。
その日初めて氷の花は動けない自分を恨めしく思い、疑問に思った。
来る日も来る日も氷の花は蒼に想いを募らせた。
谷を吹き抜ける風が優しく囁いた。
『おやめなさい、あの蒼はあなたを残酷な世界へ誘うでしょう。』
冷たい氷が厳しく言った。
『おやめなさい、あの蒼はあなたを純白から染め上げるでしょう。』
降り積る雪が縋るように諭した。
『おやめなさい、あの蒼はあなたに過酷な運命を背負わせるでしょう』
誰も彼もが氷の花に夢を見るのは止めろと言った。
此処で生き、美しく咲いて、美しく散るのがあなたの幸せなのだと。
それでも氷の花は願ってしまった。憧れてしまった。識ってしまった。
あの『蒼』の綺麗さを。
ああ、神様。もしいらっしゃるのなら私の願いを聞いてください。
私に脚をください。あの蒼の元へ駆けていける脚を。
私に手をください。あの蒼を抱くことが出来る手を。
私に声をください。あの蒼を歌うことが出来る声を。
私に目をください。あの蒼を映すことが出来る目を。
この世界に本当に神がいるかは分からない。
唯、混沌が一輪の氷の花の願いを聞き入れたのは事実だった。
葉が徐々に五つにまた分かれして細い指となり手となり腕となった。
根がゆっくりと絡み合っていき一対の脚となった。
蕾が花開いて美しい
ぐっと手に力を込めて、ふらつきそうになる脚をなんとか支える。一歩、一歩と踏み出す度に足の裏から鋭い冷たさが少女を貫いた。それでも
「――ああ、なんて綺麗なんでしょう」
憧れた蒼と同じ色の瞳から大粒の雫が零れて、地に墜ちるにつれ花弁へ姿を変えた。
その雫の名前をまだ