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夏のはじめの一頁
登場人物一覧
七月初頭、夏の始まり。梅雨明けからの暑さは徐々に拍車を掛けていく。それでも時折風が吹きかけてくれるのは僅かな癒やしだろうか。
新緑の葉を付けた高い木々の下、色とりどりのテントと共に広がるは、見果てぬ大海――ではなく、膨大な本の海。風が連れてくる遥かな気配には、初夏の匂いだけでなく、時を経た古書の香りが混じっていた。
『xxx広場、古本市開催のおしらせ!』
ある日、常連客の一人がそんなチラシを持ってきた。自分がスタッフをやるのだが、君も興味があるだろうから、と。
ちょうど今年の夏に読む本を求めていた文は、手提げ鞄を片手に古本市にやってきた。聞くところによると、数十店の古本屋が屋台のように本を持ち寄っているらしい。会計も各々のテントで行うとか。
本の量に圧倒されるのもそこそこに、文は散策を開始する。足取りは軽く、逸る心を隠しきれないでいた。読書家とはインクの匂いと薄茶色の本に興奮してしまう生物なのだ。
知らない出版社の百科事典。古ぼけた青春小説。海洋のローカルなグルメ雑誌。
普段は横目で通り過ぎることの多い本にも、今日はやけに目移りしてしまう。
よくない。これはよくない。欲求を振り払おうと文は息を吸い、吐く。貰ったチラシを見れば、古本市に参加している店舗名は書いてあるのだ。気になったのなら後日再訪すればいい。
節制の精神を取り戻した文であったが、顔を上げると静かに目を輝かせた。そして早足気味に近づいたのは――推理小説が並んでいる棚だった。
「自由に手に取ってみてくださいね」
「ありがとうございます」
売り子の男性が声を掛けるのに、文は頷いた。
一重に推理小説といえど、分類は多岐に渡る。事件の推理を重視する本格派、社会問題を取り扱った社会派、ゴシックホラーに近い怪奇幻想小説などなど。
この棚には古くから現在まで、さまざまなジャンルの推理小説が集っていた。彼が愛読している名作もあれば、初めて見る作家の全集もあった。文はしばし悩んだ末、一冊の文庫本を選び取る。表紙には奇妙に歪んだ肖像画、裏には数行の宣伝文句が載っていた。
『白壁の裁き』
とある街の地主一族が次々と奇怪な死を遂げる。事件と同時期に出土した街の設計書は、街自体が巨大な魔法陣を描いていることを示していた。百年前の設計士が企んだ大胆不敵な殺人手段、そして呪いを断ち切る方法とは?
表題小説の他、美貌の乙女を巡る連鎖毒殺事件「円環」、結婚詐欺に遭った魔種が復讐を試みる「軛」など、全八篇を収録。人間の狂気と執念を描いた傑作ホラー・ミステリー短編集!
読了後は他の短編集を買い揃えてもいいし、気に入った作品から新たな作家を開拓してみてもいい。新たな季節の始まりにはちょうどいいだろう。
つい不気味な物語に手が伸びたのは、きっと今日が昨日よりも暑かった為だった。
「よかったら栞もどうぞ」
会計が済んだ後、売り子は机の横を指差す。
そこには手作り感溢れる栞が積み重なっていた。涼しげな薄水色の紙上で、つぶらな瞳の金魚が尾を揺らしている。文は一枚拝借し、柔和に微笑んだ。
「可愛らしい栞ですね。ありがとうございます」
こうして、文の栞コレクションにまた一枚が加わった。
散策は続く。外で読む本は確保したとして、後は室内で読む本が欲しかった。冷房の効いた部屋で珈琲でも嗜みつつ、ゆったり楽しめる――そんな本が望ましい。
ふと、広場の端、重苦しい黒のテントが目に付いた。異質な雰囲気は占い師のテントと評した方がしっくり来る。興味本位で足を踏み入れると、色褪せた表紙がさまざまな景色を見せていた。奥に座っていた老婆が軽く頭を下げたから、文も会釈で応じた。
ここは主に図鑑を売っているらしい。どれも例外なく分厚い。ハンドブックと題されている本でも、ハンドに収まりそうな品はめっきり存在しなかった。
鉱物図鑑を見つけ、文は思わず手に取る。仕事に活用したい気持ちが半分、純粋な好奇心が半分だった。重たいアート紙を捲れば、美しい写真が立ち並んでいる。眩い瑠璃石、白い貝殻に似た海泡石、錐輝石。ところどころに線が引かれているのは、かつての持ち主が書き込んだ跡だろう。
種々に煌めく鉱石の中でも、緑と赤のトルマリンが目に留まった。これからインクを抽出したら、やはり瑞々しい西瓜色なのだろうか?
想像を巡らせたら楽しくて、――だから、この続きを家でも味わいたいと思った。
『世界の鉱物図鑑』
豊富な写真が魅力的な鉱物図鑑。鉱石に付随した逸話も多い。
線を引かれている箇所は恋愛関連の記述が多い、気がする。
結論から言うと、その図鑑は高かった。財布が空になる未来を察知した文は漆黒の緞帳の下から抜け出す。銀色の太陽が彼を祝福するかのように出迎えた。
手提げ鞄の重さは普段なら満足感を抱ける程だ。けれど、今日ばかりはもう少し――と、文はのんびり歩き始めた。
おまけSS『余禄』
●「没本」
それは数十年前に執筆された旅行記だった。
筆者は天義の出身で、訳あって幻想の地にやってきたらしい。数ある幻想の観光地について、一つ一つ丁寧にその場所の特徴、そして豊かな驚きが描写されている。
何気なく最初のページを開いてみると、手書きのメッセージが目に入った。
――親愛なる我が盟友へ。この本が書けたのもあなたのお陰です。今はただ、あなたの病気の快癒を願っております。
その下には筆者のサインが記されている。
文は心臓が締めつけられる思いがした。贈られた友人はどうなったのだろうか? なぜこの本が古本市に?
この本を元の場所に戻すことは出来なかった。何かの使命感に駆られたわけではない。ただ、このメッセージを見て、何事も無かったかのように手放すのは忍びない気がして。主を失った古本の大海から、この一冊の書を掬い上げたい気がして――。
『幻想紀行 -勇者の国をめぐる旅』
見知らぬ誰かの幻想旅行記。直筆サイン&メッセージ入り。
●「執筆メモ」
本の描写いっぱい入れたい!
古いもの←→新しいもの
・古い
古書の匂い
死体(これは諸説ある)
伝説・伝承
読書遍歴
・新しい
夏のはじまり
新緑
夏っぽさを大事に!
→海、青、西瓜
瑠璃、海泡石、星葉石、錐輝石、銀星石
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