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誰が救ってくれるの
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――酷い顔だ。
朝。顔を洗って鏡を見て、ネーヴェは思わずそう心中で呟いた。
最近ろくに食べてないからか、頬がこけているように見えて。
夜はずっと泣いているから、目じりは紅くなっている。
目も充血して、真っ赤になって、うさぎのようだ。
深緑でルドラスと雌雄を決してから。
あれからずっと、ネーヴェは夢を見ている。
「ネーヴェ」
「可愛いネーヴェ」
「俺と一緒に」
手を差し伸べる彼を前にして、迷う夢。
取ってはいけないと判りつつも、振り払うにはいつだって時間が必要で。
断腸の思いで振り払い、相手に敵意を向けて斬り裂くのだ。そうして跳び起きて、泣いている自分に気付く。そんな事がもう一月近く続いていた。
どうして泣くの、わたくし。
泣きながらネーヴェは己に詰問する。
あの時、己を魔種(おなじもの)に変えようと手を伸ばした彼に、ノーを突き付けたのは紛れもない自分自身だ。
彼に最期を迎えさせたのは、そう決めたのは、間違いなく自分自身なのだ。
なのに。
どうしてだろう。彼が斃れる瞬間が。何も残さず灰になって消えゆく其の瞬間が、脳裏にべたりと貼り付いて離れないのだ。
彼に敵意を向けた手が震える。いつも通りに食事をとろうとしても、カトラリーを持つ手が震えて、水さえ喉を通らなくなって、視界が涙で歪んで、失った足が痛むのだ。
決めたのでしょう? ネーヴェ。
ルド様を斃すと。招く手を振り払い、彼を解放するのだと決めたのでしょう、ネーヴェ。
ねえ、そうでしょう!
――心はそう叫ぶけれど。
でも、もうこの世に彼がいないという事実は、杭となってネーヴェの胸に突き刺さったままだ。抜こうにも余りに深々と刺さっているから抜けない。傷は深く、じくじくと痛む。決めたのは自分なのに、だからこそ、自分を恨まずにはいられない。どうしてあの時、ルド様の手を振り払ったのか? どうしてあの時、ルド様と一緒にいかなかったのか?
答えなんて判っている。自分がイレギュラーズだから。
でも。……でも。
ぐるぐると回り続ける思考を止めたくて、普段は淹れない珈琲を淹れた。
砂糖もミルクも、“甘ったるい”ものは入れたくなかった。真っ黒な水面。まるで、今の自分のよう。“ああしていれば”“こうしていれば”がぐるぐると渦を巻いて、色々な色が混ざり合って結局は黒くなる。
魔種になったら、少しは、楽だったのかしら。
先程答えを出したつもりの問いが再び顔を出す。
いいえ、と心中の己が言う。其れは本当かしら。
魔種になって討たれるさだめになったとしても、ルド様と手に手を取って歩いて行けたなら、或いは其れは幸せだったのではないかしら。
「……いいえ」
今度は声に出して、ネーヴェは呟いた。其れはネーヴェの最後の矜持だった。
其の問いかけにだけは、YESとは言ってはいけない。
其処で迷ってしまったら、ネーヴェがこれまで為してきた事は音を立てて崩れ落ちる。
そうして、多分何も残らない。
魔種になる事は、幸せなんかじゃない。彼がどういう経緯で魔種になったのかは判らないけれど、其れでも、其の手を取ってはいけなかった事だけははっきりと判る。
「ルド様」
名を呟く。応える人は、もういない。
あの幼い日、妖精郷を語り合ったあの人は。
幼さ故の過ちで、出て行ってしまったあの人は。
仮想の世界で今もきっと森を守っているあの人は。
この現実の世界には、もういない。
――魔種としてでも、生きていてくれたなら。なんて思ってしまう自分が嫌になる。
珈琲に映るネーヴェの顔は、矢張り酷いものだった。
ああ、ルド様ならきっと、この苦い珈琲も呑んでしまえるのかしら。
君には似合わないよって言うのかしら。
珈琲一つにさえそんな事を考えてしまって、我慢して我慢して我慢して、堪えきれなくてぽたりと落ちる。ミルクでも砂糖でもない、しょっぱいもの。
思い出が突き刺さる。
記憶が突き刺さる。
もう、世界のどこにもルドラスという男はいない。
そして、まだ。ネーヴェはルドラスにさよならを言えない。
彼が武器の一つでも残してくれていたら、其れに縋って泣けたのかしら。
ネーヴェは時折、そんな事を考える。
でも、心の裡にいるルドラスが苦笑して言うのだ。
「何か残したりなんかしたら、ネーヴェは俺離れができないだろう?」
前へ。
自分を思い出に変えて前へ進めと、きっと彼なら言うだろう。
でもね、でも、ルド様。
思い出にするには、貴方の存在は、大きすぎるの。
砂糖もミルクもない珈琲をそっと口に運ぶ。
苦くて涙が出た。
珈琲の所為にしないと、二律背反で気が触れてしまいそうだった。
苦い。涙が出る程、苦い。
涙が止まらない。いつかわたくし、干からびてしまいそう。
ぼろぼろと涙をこぼしながら、ネーヴェは珈琲を啜っていた。
そう言えばここ数日、まともに何も食べていない気がしたけれど――あの人を思って悼んでいるこの時に、何も喉を通る気がしなかった。
其れでも、生きろ、と。ルド様は、きっと仰るから。
今は、水分で許して下さらないかしら。