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赤ん坊のようなもの
登場人物一覧
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逃げている。逃げている。
長く長く続く廊下。窓はなく、出口もない。薄暗い照明では先を見通すことは出来ず、本来ならば危うくて、とても走ることなどかなわない。
それでも走る、走る。逃げるために。
後ろをちらりと振り返ると、怪物はいまだ諦める様子はなく、どだどだとその悍ましい四肢のようなもので這いながら、追いかけてきているのがわかる。
いいや、目視で確認せずとも、追いかけてきているのは自明であった。
そいつはずっと、男のような、女のような、老婆のような、幼児のような、それらが幾重にも混じり合った声で、赤ん坊のように泣きながら、笑いながら、耳障りに神経をなぞるのだから。
どこかでこの廊下を出たくても、出口がない。どこかに身を潜めたくても、曲がり角すらない。
ただまっすぐに、走るだけの廊下。続くだけの廊下。家財や、調度品や、灯りの類はあったとしても、逃げられるようなものがない。
「どこまで、続くんだ、これは……」
いい加減、息も切れかけてきている。心臓は早鐘となり、足は停止を訴え、肺は倍ほどに膨れ上がったように感じていた。
「一か八か、もう一度仕掛けてみるかね?」
隣を走るその人が言う。しかし、即答するには迷う内容だ。既に何度か反撃を試みてはいるが、全て失敗に終わっている。
痛みに少し、顔を歪めた。右腕の骨が幾つも折れ曲がっているのだ。このような事態でなければ、応急処置のひとつもできただろうに。
考えろ。考えろ。ルールとその前提を疑え。世の中に理不尽はあれど、抗うならば隙間に手を差し込み、無理矢理にでも広げねば成り立たない。
ずきりとまた、痛みが脳を刺した。割かれる思考リソース。それでも考えねば、生き残るすべはない。
走りながら、痛みに耐えながら、それでもふたりは、この幽霊屋敷におけるルールを打ち破ろうとしていた。
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「なんとも、ものものしいというか。まさにと言ったものだね」
その廃屋敷を見上げながら、ルブラットは感想を述べた。
その言葉の通り、それは草木が荒れ狂ったように生い茂り、壁には蔦が這い、扉は半開きで、窓は時折、勝手に開いては閉じてを繰り返している。
屋根には烏が無数に止まり、昼日中だというのに、この一体だけが薄暗く見えた。
まさに、幽霊屋敷である。
「本当に。これを買ったんだから、もの好きもいたものだよね」
隣で、苦笑交じりに文が言う。道中で近隣の住民に、幾度か道を訪ねたところ、何度も忠告されたのを思い出したのだ。
曰く、あそこには近づくな。
そんなに口を揃えなくともと思いはしたが、こうして目の前にすればわかる。どうやったってここは不味い。命が惜しいなら、近づくべきではない。
理性よりも、本能がそれを警告していた。
無論、ふたりとて、物見遊山のつもりはない。仕事である。
目的は屋敷の調査、及び、幽霊騒ぎの解決。
そう、本当に幽霊屋敷であるのだ。
『窓から何かがこちらを見ていた』『遊びに入った子供が何人も行方不明になった』『探しに入った警邏は廃人になって帰ってきた』『とにかく、幽霊が出る』。そういった話は、近くの住宅地で尋ねればいくらでも手に入った。
それでもこれまで、得に専門的な調査は行われず、取り壊そうということにもならなかったのは、幾つかの理由が挙げられるが、大きくはふたつ。
近くと言っても、住宅地とはそれなりに離れていたことと、幽霊屋敷に近づきさえしなければ実害がなかったことである。
触らねば祟りはないとしたのか。これまでは、害のあるものとわかっていつつも、放置されてきたのである。
しかし、その事情を変えたのが、今回の依頼人だ。
その人物は、屋敷、家財ごとその土地を買い取ったのだという。当然、幽霊屋敷として活用するつもりなど無い。だからこうして、荒事の専門家を雇い、幽霊屋敷、ではなくそうと試みたというわけだ。
「正直なところ、このまま燃してしまったほうが、近隣住民にも良いのではないかね」
やや呆れ気味に、それを口にする。ここまで見事に警戒心を煽ってくれれば、常人ではまるで足を踏みれようなどとは思わないだろう。
義務感か、危機感の欠如か、はたまた何かの狂信か、そのような熱意に動かされなければ、まさか中に入ろうなどとは思うまい。
ここはそれと言えるだけのハイエンド。まるで奈落の底のように、これ以上塗りつぶしようがない闇そのものに見えた。
「ところがそうもいかない。どうやら、家財や調度品の価値まで見込んで買い付けたらしくてね。可能な限り、形そのままに残してほしいそうだよ」
「残しておきたいような形もしていまいに」
そう言って先に歩き出す。文とは初対面だが、お互いに荒事を生業とする身だ。すぐに足並みを揃えてくるだろう。
「あーあ、仕事じゃなきゃ、こんなとこ、すぐにでも逃げ出したいよ。ルブラットさんは平気そうだね」
「いいや、足が竦んで仕方がないとも」
なんだい、それ、と。苦笑交じりに文が隣に並ぶ。
案の定と言うか、様式美というか。半開きの扉はいともたやすくふたりの侵入を許し、入るやいなや、必要以上の音を立ててひとりでに閉じた。
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「それで、どうしてこんなことになっているんだか……!」
荒い息を気力で誤魔化しながら、走る。走る。
長い長い廊下にたどり着いたのは、屋敷に入って間もなくのことだ。見通しの悪い道は警戒せざるを得なかったが、立ち往生をするわけにもいかず、足を進めること、四半刻。
異常に感じ始めたのは、それよりも前のことだ。どうにもこうにも、長すぎる。まっすぐ進むだけの廊下が、こんなにも長いはずはない。少なくとも、この屋敷の外観から、それほどの面積は目測できなかった。
それに気づいたことが、或いはルブラットに相談したことが、キーになったのか。それとも、誰かがこちらをずっと見ていたのか。
暗闇の向こうから、それが現れた。
それは始め、大きな赤ん坊のように見えた。四つん這いでありながら、文の倍ほどはある、赤ん坊。しかし影からシルエットが現れ、次第にその全容があからさまになるに連れて、認識は間違いであったことを悟る。
赤ん坊のように見えたそれは、人間の腕の集合体であった。
男の腕、女の腕、老婆の腕、幼児の腕。それらが重なり合って見通せない内側から無数に生え、赤ん坊の形をなしているのだ。
四肢のような形の腕の塊。体のような形の腕の塊。頭のような形の腕の塊。
それらが一斉に、鳴いた。
男のような、女のような、老婆のような、幼児のような声が重なり合い、次第に笑い声もまじり始め、それこそ無邪気な赤ん坊のように、笑っていった。
思わず、後ずさる。
それがこちらに顔のようなものを向け、笑みのようなものを見せ、近づき始めた時。迷わず、ふたりは後ろを向いて走り始めた。
「せめて、なにか攻撃手段を……」
「そうだな。正直なところ、どちらの腕もこうなるのは御免被りたいところだ」
ルブラットが文に腕を見せる。彼のそれもまた、おかしな方向へとねじれていた。
既に、いくつか攻撃は試みたが、どれもが攻撃意思を見せた時点で反撃を受け、腕がねじられ、神経が悲鳴をあげるハメになった。
痛い、痛い。傷口が膨れ上がったような錯覚。思考のリソースを容赦なく奪う。皮膚を突き破って骨が露出し、白いばかりの表面を見せている。
「…………あれ?」
何か、おかしい。おかしいことに気づいた。ひらめきは脳に活力を与え、思考リソースが回復し、知性が回転を始める。答えにたどり着いた気がした。
「ねえ、ルブラットさん」
「ところで古木君」
同時に、彼もまた文に声をかけた。相手を優先して、先を促す。
「アレが幽霊屋敷の主だと思うかね?」
後ろの赤ん坊、のようなもの。あれが主である可能性。文は即座に首を横に振る。
「いいや、強力過ぎる。アレでは、屋敷の警戒心をここまで顕にして、引きこもるように居を構える理由にならない」
「だろうな。ならば、攻撃はこれでいいだろう」
そう言って、彼は無事な方の手を燭台に伸ばすと、それを長い長い絨毯へと放り投げた。
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赤く赤く、屋敷が燃えている。
既に人と言えるものが住まなくなって久しいこの屋敷。火の手が広がるのは早かったようで、誰が気づく間もなく、それは炎に包まれていた。
その扉を蹴破り、現れる煤に汚れたふたり。
仮面の人物、ルブラットが己の両腕をかざすと、どちらも無傷なままだった。
「やっぱり、幻覚だったね」
文もまた、自身の無事を確認し終えたようだ。
気づいたのは骨を見た時。あれだけの傷であるにも関わらず、血が少なすぎた。骨の色が見えすぎていると感じたのだ。
「長い廊下も、腕の赤ん坊も、みんな偽物。本物は、この屋敷だけ。幽霊屋敷こそが、幽霊そのものだった」
文の言葉に、ルブラットは頷き返す。
「やはりはじめから、こうすればよかったのだ」
「そうは言うけどねえ」
ごうごうと燃え盛る屋敷。幸いなことに住宅地との距離は遠い。人的な被害は出ないだろう。
「あーあ、全部燃えちゃって。残しといてって言われたのにさ」
「なに、可能な限りとのことだったろう。可能ではなかっただけだ」
「それ、言い訳に出来るかなあ」
「任せるよ。古木君のほうが、私より弁が立つだろう」
「いやいやいやいや、それだったらルブラットさんの方が雰囲気が―――」
「いやいやいやいや」
「いやいやいやいや」