PandoraPartyProject

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藤の約束

登場人物一覧

ネーヴェ(p3p007199)
星に想いを


 桜の香りがする。
 頬を撫でる夏風、ふわり。
 薄ら目を開ければ馴染みの世界――濃々淡々が広がっていた。
 怪我をしないようにと口を酸っぱく言わせてしまったことは申し訳ないと思いつつも、深く被せられたキャペリンを少しだけ押し上げる。
「さて……」
 依頼はない。つまり思い付きの行動だ。散歩ついでに久々に向かうことにしたは良かったのだけれども、以前とは勝手が違うとやはり不便で、それから。
「あれ、ネーヴェ……?」
「絢様?」
 驚いた顔をする貴方のことを、丁度考えていたのだ。
「……その乗り物は?」
「これは……車椅子です」
「いや、うん……解るよ。それくらい。おれの質問が良くなかったね、ええと、」
 困ったように笑いながら。けれど、何が起こったのかはある程度察したのだろう。深く追求することはなかった。
 小さくなった背丈も。足元が見えないようにかけられた涼しげなレースのタオルも。何もかも。悲しげに目を細めて受け入れるだけ。
(……絢様は、)
 今。悲しんでいる。
 伝えることも。表にすることも。控えている。
 人の痛みを理解しなければならない。ネーヴェが抱えた使命のようなものだ。ある女はネーヴェに吠えた。それはある種の気遣いであったのかもしれない。
 絢の場合もそうなるのだろうかと、少しだけ危惧していたけれど。絢はただ笑うだけだった。
「ネーヴェは、もう大丈夫なんだね?」
「はい。ほんの少し……少しだけ。色々あった、だけなのです」
「……そっか。車椅子、おれが押しても構わないかい?」
「ええ……勿論、です」
 もう隣を歩くことは叶わないのだろうな、と。じんわりと汗ばんでいく肌を拭いながら、絢は思った。

 これ程までに沈黙して歩いたことがあっただろうかと、ネーヴェは思う。
 少なくともなかったのだろう。その疑念が心のなかに浮かぶくらいなのだから。不安になって絢を振り替えれば、小さく微笑んだ絢は告げた。
「少しだけ、付き合ってくれる?」
「それは大丈夫ですが……」
「うん。じゃあ、連れていくね」
 からからと回る車輪は、人気のない道の外れでぴたりと止まる。
「……絢様?」
「少し遠くなるから……ネーヴェ、目を閉じていてくれる?」
「は、はい……」
 彼ならばきっと怖いことはない。
 緩やかに目を閉じる。それは瞬き程の合間にも、眠りのような永遠にも等しく思われた。

「……うん、良いよ。瞳を開けても大丈夫」

 絢が連れてきたのは。
「……此処は、」
 夜の狭間と呼ぶのが正しいのか。
 未だ踏み入れたことのない未開の地――つまるところ、依頼では出されていない。
「少しだけ。おれの秘密の場所に招待してあげる」
 暗闇を縫うように藤が連なり咲き誇る。ふわふわと飛び回るのは蝶なのか蛍なのか。振り替えれども目をこらせども道はなく、入り口もない。
「……行こうか、ネーヴェ」
「は、はい……」
 その絢の笑顔がどこか普段とは違ったのを、覚えている。
 いつも温厚な絢が見せた妖の証明とでも呼ぼうか。それは正しく、ひとではないなにかだった。

「少しね。驚いているんだ。だから……ひとのいないところに招待したんだ。驚いた?」
「いえ。……皆様、驚かれますもの」
「ふふ、そうだよね。他のひとにも、ちゃんと伝えるんだよ」
 語り聞かせる姿はどこか兄のようで。風もないのに緩やかに揺れる藤の花はどこか恐ろしい。
「……無理矢理にでも治すように語ることは簡単だけど。きっとネーヴェはそれを望まないから」
「それに、」
「おれはネーヴェの友達だからね」
 笑っている。それはそうだ。
 ただ。普段のように優しく笑っているのではない。
(――ああ、絢様は、)
 怒っているのだ。
 どうすれば良いのか解らないのだろう。彼は普段から温厚だ。だから怒りを覚えることもきっと少ない。その数少ない機会が、今だったのだ。
「……わたくし、は、」
「ネーヴェ」
「はい」
「……おれ、ネーヴェには痛い思いをしてほしくないんだ」
「……はい」
「この気持ちを何て言うのか解らないけど……このままネーヴェを帰せば、きみはまた傷付いてしまうのだろう?」
「絢様……?」
「だから、ここに閉じ込めてしまったって良い。そう思っていたんだ」
 からからからと回る車輪がまた足を止めた。
 ネーヴェはもう歩くことはできない。だから、逃げられない。
「でも」

「でも、」

「ネーヴェは、それを望まないだろう?」
「……はい。わたくしには、まだ、ごめんなさいもありがとうも、伝えられていないひとがたくさん……いますから」
「……うん」
 車椅子を藤棚の下に移動させる。絢を眺めれば、その後ろには月が見えた。絢から伸びる影は猫などという可愛らしいものではなく、鬼のように思えた。
「だから、おれと約束してほしいな」
 ふわりと微笑んだ絢は、浴衣が汚れるのもお構いなしに膝をついて、ネーヴェと目線を合わせた。
「もうなにも、失っちゃいけないよ」
「……はい。わたくし、頑張ります」
「いいや。これは約束。だから、しっかり守ってね」
 意地悪く微笑んだ絢はいつもよりもずっと横暴で話を聞かない。それを狙っているのか、はたまたそれが本性なのか。ネーヴェにはわからない。
(……絢様)
 ただ。ネーヴェに向けている眼差しの何かが変わってしまったように、思われた。


「それじゃあ、境界図書館まで送るよ」
「よいのです、か?」
「勿論。ネーヴェが目を離した隙に怪我をしていたらいけないからね」
 ふぁ、と欠伸をしたネーヴェ。人に押される車椅子は少しだけ眠くなってしまう。
 と、言うのも。ここ数日上手く眠れていないからだ。大切な彼を殺めた。別れた。永遠に。だから、眠れない。その瞬間が焼き付いて離れないのだ。
「ネーヴェ、眠い?」
「はい、少しだけ……」
「それならこれをあげる。きっと役に立つ筈だよ」
 事情を知っているわけではない。というか、誰も知らない筈なのに。
 絢が差し出した小瓶のラベルには薫衣草――ラベンダーの名前が踊る。
「ゆっくり眠れるようになる飴。本当はまだ調整途中なんだけど」
 知り合いにも眠れない友人がいるんだと話す絢は、少なからず友人としてネーヴェのことを思いやっているようだった。
「無理をしちゃいけないよ」
「絢様だって、よくなさいますわ」
「ネーヴェの方こそ。此処から先はきみの世界だから……進める?」
「……はい。此処から先は、ひとりで進んでいけます」
「うん。それじゃあ、またね」
 ひらりと手を振った絢は桜のように散っていく。
 膝にのせた小瓶は、ネーヴェが車椅子を動かす度にカランコロンと音を鳴らして。
(……そうよ。負けてなんか、いられません、もの)
 傷付くばかりではいられない。傷付ける覚悟を持たなくてはならない。
 それが自分を大切に思ってくれるひとへの、せいいっぱいの恩返しだ。
 何もかもが不確かで曖昧な世界だ、と思う。ライブノベルだって永遠ではないから。
 いつか絢とだって会えなくなる日は来るだろう。いつか絢と喧嘩をする日も、別れてしまう日も来るかもしれない。何もかもが嘘に思えて塞ぎこむ日も来るだろう。
 けれど。膝元に香る甘いラベンダーの香りだけは、絢が唯一残した真実のように思われた。

  • 藤の約束完了
  • NM名
  • 種別SS
  • 納品日2022年07月13日
  • ・ネーヴェ(p3p007199

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