PandoraPartyProject

SS詳細

BOYS DON'T CRY 前編

登場人物一覧

エドワード・S・アリゼ(p3p009403)
太陽の少年
エドワード・S・アリゼの関係者
→ イラスト

 ピアノの音が聞こえる。
 優しくて温かくて、綺麗で寂しくて。
 涙がでるほど懐かしい曲。
 ふと、立ち止まる。
 海の匂いだ。
 風に誘われるように歩いて、銀の鏡を見つけた。
 誰かが呼んでいる。
 その声に誘われるように手を伸ばして――……。


●DAY1

「……エドワード、エドワードっ」
「んん……」
 自分を揺り動かす、誰かの声と掌の温度。
 炎の髪。陽の瞳。
 太陽の色をその身に宿した少年は、むずがるように身体を半回転させた。
 檸檬色の朝日と青空が白いベッドに淡く射しこんでいる。夏の気配を宿し始めた風が、勢いよく開け放たれた窓から吹きこんだ。
「ほら、起きて。もう朝だよ、お寝坊さん」
 エドワードと呼ばれた少年と似た背丈の、白い誰かが振り返る。
 水兵が着る服に似た真っ白なパーカーと黒い短ズボン。
 まるで夢の世界に出てきそうな不思議な色合いの髪と瞳をもつ少年だ。
 カーテンが、そよ風と柔らかな笑い声を含んで帆のように膨らんで弾けた。
「おはよぉ」
 大きく伸びをしてみるが、それでも太陽色の少年の目を覚ますには少し足りない。眠りの砂から逃れられない濡れた眦を、ごしごし擦る。
「こーら。そんなにこすったら赤くなるでしょ」
 綿のように手を取られ、諫める声も柔らかい。
 再び夢の世界へと旅立つ切符になりかねない心地よさだった。
 故にエドワード・S・アリゼは無理やり身体を起こしてみることにした。
「……オレ、寝ちゃってたのかぁ」
 目覚めたばかりの第一声としてはあんまりな言葉に、白い少年は凪のように笑う。
「そうだよ。エドワードったら全然起きないんだから」
「わりぃ。昨日、ちょっと思いっきり遊びすぎたかなぁ」
「ちょっと思いっきり? それって全力の事だよね」
 欠伸交じりのエドワードがあぐらを組むと、白い少年は手慣れたようにベッドの上へと飛び乗った。その手には髪梳き用のブラシがある。
「それに、なんか不思議な夢見ててさー」
「不思議な夢? エドワードでも夢をみることってあるんだ」
「それ、どういう意味だよぉ」
 珍しく不貞腐れたエドワードがささやかな抵抗として後ろに体重をかける。
「どういう意味って、そのままの意味さ。髪の毛を三つ編みにしても鼻をつまんでも起きないんだから。夢を見てるだなんてとても思えない熟睡っぷりだよ?」
 はねっかえりの朱色の寝癖が、次第に落ち着きを取り戻す。流れるような髪を梳きながら少年が疑問を呈すと、エドワードは勢いよく後ろを振り返った。
「も~、オレだって夢くらい見るぜ!?」
「はい、動かなーい」
「ぐぬぬ」
 頭に両手を添えられて、強制的に前を向く。髪を結ってもらっている以上、エドワードは彼に強く出られないのだ。
「次はもう起こさないからね」
「へへっ、フウトにはいつも感謝してるぜ!」
「本当かなー? 怪しいなー?」
 名前を呼ばれた瞬間、少年は……フウトは嬉しそうに紫水晶の瞳を細め、背中からおぶさるようにエドワードに体重を預けた。
「それで、一体どんな夢をみたの」
「ぼんやりとしか覚えてねぇんだけどさ」
「うん」
 嬉しそうにエドワードは太陽の瞳を外に向けた。クジラに似た白い雲と、真っ青な空。それからどこまでも広がる大好きなコバルトブルーの水平線。
「クジラとピアノの夢だった」
「どういう組み合わせ?」
 瞳を大きく開いたフウトは、いつもの大人びた表情が抜けて少し子供っぽくなる。そんな貴重な瞬間を捉えたエドワードは白い歯を見せて笑った。
 いつもの調子が出てきたようだ。
 それを見ていたフウトはわざとらしい咳払いでエドワードの注意をひいた。
「ところで。寝坊助のエドワードくんは今日が何の日だったか、覚えていますか?」
「今日?」
 人差し指をタクトのように振りながら勿体ぶって言うフウトにエドワードは首を傾げた。その拍子にすっかりエドワードのトレードマークとなったオレンジ色の髪留めがふわりと揺れる。
「ヒント、おばさんが下で待ってる」
「げっ!!」
 今度こそぱっちりと、エドワードの瞳が大きく見開かれた。
「そうだ、今日はおばさんに店の手伝い任されてたんじゃんっ!」
「そういうこと」
「ヤバイヤバイ!」
 慌てて寝巻きを脱いだエドワードはいつものシャツとズボン、そして上着を手早く羽織る。
「フウト。起こしてくれてさんきゅーなっ」
「はいはい、どういたしまして。準備はできた? 行くよ!」
「わわ、わかったって! 引っ張るなよ~っ」
 手を繋いだまま二人は部屋を飛び出した。
 生まれたての太陽の光を反射してエドワードの胸元で金色が揺れる。
「……ん」
 掠めるようにペンダントに触れると、エドワードは階段を駆け下りていった。


 青藍の孤島はネオ・フロンティア海洋王国の外れにある。
 孤島と名のつく通り、人の往来は少ない。
 しかしどこまでも青い海と真珠色の砂浜。そして白い石灰岩と漆喰造りで出来た三角屋根が連なる愛らしい街並みは、昔からエドワードの自慢だった。
 エドワード、13歳。
 チャームポイントは太陽みたいに明るい笑顔と物怖じしない人懐っこさ。
 本当の両親は分からないが家族はいる。
「おばさんゴメン寝坊したぁ!!」
「エドワードッ、時間厳守!!」
 キッチンには前掛けと三角巾をした海種の女性が仁王立ちで立っていた。ふっくらとしはじめたお腹と吊り上がった眉には貫禄がつまっている。
 両手でフライパンを生き物のように操り、白い皿の上に美しい目玉焼きを乗せるとカウンターの上にドスンと勢いよく置いた。
「だが正直に言ったのは良し。さっさと朝飯食って手伝いな!!」
「はーい」
「フウト、アンタも! ボサッとしてないでテーブル片づける!!」
「はーい」
 口にいれた焼きたてのパンからは濃いバターの味がした。流しこむように目玉焼きとしぼりたてのミルクを飲みこみ、採れたてのオレンジで口を塞ぐ。
「ごちそうさま!」
「エドワードッ、立ったまま食べない!!」
「今日は勘弁してくれぇーーっ」
 ばたばたとカフェエプロンを身に着け、忙しなくも楽しいエドワードの一日が始まる。

 青藍の孤島、唯一の食堂『トリトニス』がエドワードの家だ。
 家族は二人。
 元気なおばさんと優しいフウト。
 全員血は繋がっていないが、間違いなく家族である。

 養子であるエドワードは、同じく養子であるフウトと共に育てられた。
 昔からずっと一緒にいる大切な片割れ、エドワードの大切な親友だ。
「フウトは要領いいよな。もう朝飯食ってるし」
「ゼルギニさんも一度エドワードを起こしてみたら分かるよ」
 常連の漁師に揶揄されたフウトは大きなため息をついて、わざとらしく首を横に振った。動くたびに透き通るような少年の白髪に虹の彩が煌めく。
「すっっごく大変なんだから」
「ゴメンってば!!」
「まあまあ」
 元気な子供たちの会話を、丸い頭の老人が上機嫌な声で遮る。
「寝る子は育つと言うしのう」
「マジ? ペンド爺ちゃん!?」
「そこ、喜ばない」
「今日のフウト、オレに当たりが厳しくね!?」
「心当たりは?」
「ある」
 常連客が笑い、配膳する子供たちを見守る。
 それがトリトニスでの朝の風景だった。
「あれ?」
 そんな見慣れた顔ばかりの中に見知らぬ女性を見つけ、エドワードは近くにいたフウトに話しかけた。
「なあフウト。あの綺麗なねーちゃん、誰だっけ」
「ああ、ピアニストのケートさんだよ。村長さんの家にはいま海洋王国の偉い人が来てるから、ウチの部屋を貸すんだって」
「ピアニスト……」
 エドワードからの視線に気が付いたのか。紅茶を飲んでいた女性が顔をあげて微笑んだ。
 どこか儚く神秘的な雰囲気を持つ、霧のような女性だ。
 エドワードは手を振りながら笑い返して彼女の微笑みに応えた。
「もしかして昨日の夜、ピアノ弾いてたのかなっ」
 さあと興味無さそうにフウトは肩をすくめた。
「到着してすぐに広間のピアノの前に座っていたのは覚えてる。けど、その後のことは分からないよ」
「どうしたんだよ、フウト」
 やけに相手を避ける口調のフウトにエドワードは目を丸くした。
「あのねーちゃんに何かされたのか?」
「別に」
 むぅとフウトは唇を尖らせる。
「華奢で可愛いって、言われただけ」
「あ~~……」
 エドワードは天井を仰いだ。島に来たばかりで知らなかったとは言え「可愛い」はフウトにとっての禁句だ。
 確かにフウトは少女のように整った顔をしている。
 しかしエドワードもフウトもれっきとした少年なのだ。しかも年頃の。
「気にしてないし」
「いや、めちゃくちゃしてるじゃん」
「それで? ピアノがどうかしたの」
 話を強引に元に戻したフウトに、そうだったとエドワードは手を叩く。
「夢の中でピアノの音を聞いた気がするんだ。もしかしたらケートのねーちゃんが夜にこっそり弾いてたのかもしれねぇと思ってさ。リクエストしたら弾いてくれるかな?」
「弾いてくれるかもしれないけど……断られたら諦めてよ。何でも療養のために島に来たらしいから」
「療養?」
 声をひそめたフウトに合わせてエドワードも声を小さくする。口元を隠すように手を当てると、おばさんの目に入らないようテーブルの影へと隠れた。
「ケートのねーちゃん、どっかケガしてんのか」
「さあ。僕が知ってるのはあくまでも、そういう『噂』があるってだけ」
「二人とも、動いた動いた!!」
「おっと見つかった」
「はーい!!」
 おばさんが大きな手を二つ鳴らすと、二人は内緒話を止めて立ち上がり皿の回収と注文へ、二手に別れて戻っていく。
 件のピアニストは深海色の目を細めて少年たちが駆け回る光景を優しく見つめていた。


「はーっ、今日もつっかれたー」
 二階のベランダにある手摺りにもたれかかり、エドワードは快晴に向かって言葉を吐き出した。
 モーニングからブランチ、それからランチタイムへと突入する間『トリトニス』は息つく暇もない忙しさだ。
 営業する日はいつもこうだった。日が傾き始め、茜と青が交じり合う頃になってエドワードたちはようやく休むことができる。
「お疲れ様。ジュース持ってきたよ」
「ありがと。フウトもお疲れさまだったなー」
「エドワードもね」
「はー、水分が美味ぇ〜……」
 爽やかな果実の酸味と少しの塩気。それから氷から伝わる冷たい喉越しが、疲労の蓄積した身体に染み渡る。
 頬と額に触れる海風が汗ばんだ肌に心地よい。
 見上げた青空はどこまでも澄んでいて、刷毛で塗ったような雲の白も遠くに滲んだ夕暮れの気配も、全てが一枚の絵画のように美しい。
 エドワードは植木鉢のなかで揺れる大輪の赤い花に合わせて瞳を閉じ、深く息を吸いこんだ。
 ――夏の匂いだ。
 そして心に浮かんだ言葉をほろりと声に出す。
「……風が涼しー……ここ、良い島だなー」
「何を言ってるのさ、エドワード」
 くすくすとフウトが笑う。
「昔からずっと居るんだし、こんな景色、もう見慣れてるでしょ?」


「……え?」
「変なの」
 少し困ったように笑うフウトの声。汗をかいたグラスのなかで、からりと溶けた氷が音を立てる。
「ははっ、それもそうだったぜ!」
 誤魔化すようにエドワードは頭を掻いた。
「いやあなんか、風とかすげー気持ち良いし、空も綺麗だったから、ついさ!」
「ああ、本当だ。綺麗」
 フウトはエドワードの隣に並ぶと、両肘をバルコニーについてうっとりと沈んでゆく太陽を見つめた。
「そう言うフウトこそ、初めて夕焼け見たような顔してるぜ」
「え?」
 フウトはペタリと自分の頬を触った。
「僕、いまどんな顔してる?」
「へへっ、そんな顔」
「鏡がないから分からないって」
 傾き始めた太陽の中でエドワードは無邪気に笑い、フウトはそんなエドワードの笑顔につられたように破顔した。
「太陽が水平線に沈んでさ。世界の全てがオレンジ色に染まると、胸がぎゅうってなるんだ」
 風に髪をなびかせながらフウトは告げた。
「そっか。オレも夕焼け空、好きだぜ!」
「好き?」
「見てると胸がぎゅうってなるんだろ? それって好きってことじゃないのか」
「そっか」
 フウトは沈んでいく夕日を再び見た。その横顔はどことなく満足げで、少し寂し気だった。
「それに何となく美味しそうだしな、夕焼け空って」
「エドワード、もしかしてお腹空いてる?」
「ぺこぺこだなー」
「ぺこぺこなら仕方が無いなー」
 夕暮れが好き。
 付き合いの長いエドワードにも、まだ知らないフウトの一面があるのだと嬉しさが胸に滲む。
「二人とも、降りといで!!」
 階下から野菜を煮炊きした香りと二人の名前を呼ぶ声がする。
「あ、晩御飯出来たみてーだ! ほら、早く行こうぜ!」
「うんっ」
「肉だと良いなー」
「そんな高級品出ないよ、どうせまた魚だって」
「分かんねぇぜ? お客さんいるし」
 二人は顔を見合わせた。
 そして空になったコップを持って自分たちの部屋から飛び出していく。
「肉だって」
「魚だよ」
 エドワードとフウトを待っていたのは、普段よりも少し豪勢な夕食だった。
「あっ!? 本当にお肉だっ」
「ほーらなっ?」
 魚を推していたフウトだったが、肉を食べたく無かったわけではないらしい。瞳を輝かせている親友を見て勝ち誇った笑みを浮かべたエドワードは階段の数段上から飛び降りた。
「おばさん。ピアニストのねーちゃんは?」
 四つ用意された椅子には、まだ誰も座っていない。
「出かけたよ。酒場の連中から頼まれて断れなかったんだと」
「は~、大変だなぁ」
 肩をすくめたおばさんから、取り皿と三人分のカトラリーをエドワードは受け取った。
「冷める前にさっさと食っちまいな」
 喜びと驚きがまぜこぜになった声で二人は同時に叫んだ。
「いっただきまーす!!」
「オレ、このミートボールがまた食べたかったんだよなっ」


 フウトとエドワードの二人は二階に一室を与えられている。
 ベッドは一人に一つずつ。けれども、おばさんには内緒でどちらかのベッドへと潜り込んで夜遅くまで話をするのが、二人の密かな楽しみだった。
「……な、フウト」
「なに?」
 ペンダントの鎖を指で遊ばせながらエドワードはフクロウのように低く囁いた。秘密を共有する小さな空間は体温で仄かに温かい。二人分の子供がうつ伏せに並んだ白シーツはまるでテントのようだ。
「夢ってあるか?」
「夢? 時々見るけど……」
「いや、寝る時のじゃなくて!」
 じいっと見つめてくるフウトから視線を外して、エドワードは再びペンダントを弄び始めた。
「やりたいこと、みてーな?」
「やりたいこと……」
 フウトは瞳を天井へ向けた。エドワードと二人で天井に貼った星のシールを十ほど数えてから、やっと白い少年は自分が困っていると認めた。
「思いつかない」
「思いつかない?」
「うん」
 それはとても静かな肯定であり、意思の否定だった。
「毎日楽しくて、エドワードが隣にいて、綺麗なものをいっぱい見て」
 ――それ以上、望むことなんて無いよ。
 フウトは呟きは吐息に隠されて聞き取れないほど小さかった。
「そっかあ……」
 けれどもエドワードは聞いていた。戻ってきた答えに落胆した様子はなく、ただ頷いただけだった。
 理由は分からない。しかし穏やかなエドワードの言葉にフウトはホッとしていた。
 エドワードの横顔、胸元のペンダントを見つめる眼差しには夜に焚火を見つめるような、そんな優しさが含まれている。その顔はフウトの好きなオレンジ色の夕焼けによく似ていた。
「オレはさ、実はあるんだ! すげーやりたいこと!」
「え?」
 顔をあげ、くしゃりとエドワードは笑う。
 その笑顔があんまりにも晴れやかだったから。
「エドワード」
 フウトは腕の中に顔を半分埋めて聞いた。
「やりたいことって、何?」
「それはなー……まだ秘密!」
 人差し指を唇に当てて、勿体ぶるようにエドワードはぱちりと片目を閉じた。
 その瞬間、張りつめていた部屋の空気が和らいだのは気のせいではないだろう。
「今すぐ教えないと、くすぐっちゃうぞ~っ」
「わーっ!?」
 指をわきわきとさせたフウトはエドワードへ飛び掛かった。
「はははっ、やめっ、擽るなよフウトっ! わきばっか狙うのはずるいぜ!?」
「ずるくない。弱点を狙うのは当たり前ですー」
「そりゃあそうだけどさぁ、おばさん起きちゃうだろーっ、くく、ははは!」
「ほらっ。こちょこちょー!」
 ころころと笑いながら転がりながら逃げていくエドワードにフウトが覆いかぶさる。
「こんにゃろー! いつまでもやられっぱなしだと思うなよ~っ!!」
「あ、ひゃっ、ふふ、ふふふっ! 足の裏はずるっ、うわぁ!?」
「弱点を狙うのは当たり前、なんだろ?」

「こらぁー-!! 二人ともォォー-ッッ!!」
「あ」
「あ」
 取っ組み合いの様相を見せていた二人は、そのままの格好で動きを止めた。
「近所迷惑になるから、さっさと寝な!!」
「ぎゃーっ!?」
「いだっ!?」
 星の綺麗な夜に、元気な雷とげんこつが落ちるのも島ではよくあること。
 松明の灯を辿って夜道を歩いていたピアニストは賑やかな二階を見上げて微笑んだ。
 そして彼女は島の中心に聳え立った、黒々とした山へと視線を移す。幽かな燐光がふわりと現れて、消えた。

●DAY2

「……ん、朝か」
 目覚めがすっきりしない。
 今朝もぼんやりする頭を抱えて、エドワードは起き上がった。
「なんかまた夢、見てたよーな………」
 意図せず腕が持ち上がる。その指は胸元にあるはずの何かに触れようとして……。
「おはよう、エドワード」
「わっ」
 のしりと背中に温かい重みが加わる。その衝撃に、エドワードは手を伸ばしかけていた存在のことを取りこぼすように忘れてしまっていた。
「フウト? 起きてたのかっ」
「うん。だって今日は休みだもん」
 甘えるようにフウトはエドワードの背中にもたれかかった。
「何だよ、フウ」
「エドワード」
 自分を呼ぶフウトの声がやけに真剣だったので、エドワードは思わず口を噤んだ。
「この島に、ずっと居たい?」
「んー?」
 エドワードは首を傾げた。
 フウトがまるで泣きそうな声をしていたからだ。
 背中にひっついているフウトの顔は、エドワードからよく見えない。もしかしたら彼も自分と同じように、夢見があまり良くなかったのだろうか。
「そうだなー」
 じっくりとエドワードは考えて、思考を声に出してみる事にした。その方がフウトが安心すると思ったからだ。
「ここには思い出がたくさん詰まってるし、景色も綺麗だし、みんな優しい人ばっかだし、それも悪くねーな」
 青藍島はエドワードの故郷だ。楽しくて、綺麗で、ワクワクするものばかりが詰まった宝箱みたいな島。
「お前もいるしさっ」
 何より此処にはフウトがいる。
 生まれた時から一緒に居る、親友。
「うん……」
 ぎゅっと背中から抱き着かれる。
「何だよ。今日はフウトの方が甘えたがりじゃん。お前も変な夢、見ちまったのか~?」
「そうみたい」
 砂粒のように小さく、閉じたホタテ貝のよりも更に聞き取りにくいフウトの声を拾い上げたエドワードは、今日こそずっと考えていたことを実行するべきだと直感した。
「そうだ! 今日はさ、一緒に探しにいきてー奴がいるんだ」
「探しにいきてー奴?」
「そう。ちょっと待ってろよ」
 落ち込んだフウトを元気づけようと、エドワードは自分の頭の靄を振り払いながら努めて明るい声を出した。
 寝着のまま寝台の上から飛び降りると部屋の一画にある図鑑や白い砂丘の伝説が揃った本棚の中から、迷う事なく一冊の図鑑を取り出す。
「じゃーん!」
「昆虫図鑑? それがどうしたの」
 エドワードが差し出した分厚い図鑑に書かれた文字を、フウトはぼんやりと読み上げた。
 手慣れたようにパラパラと重い色付きの頁を捲る太陽の子は、びしりとその中の一頁を指し示す。
「ほら、ここ。この、マボロシチョウって奴。翡翠色の羽がすげー綺麗でさ。不思議な蝶で、捕まえても目を離すとどっかに消えちゃうんだって」
 ここに描かれているのは唯の水彩画だ。本物ではない。
 けれども翅に宿った淡い翡翠の燐光は簡単に想像できた。
「綺麗……」
「へへ、面白そうだろ?」
 フウトは綺麗なものを見るのが好きだ。それはエドワードも同じで、まだ見たことのない不思議なものや綺麗なものを探しに行くと考えただけで胸がわくわくと弾んでくる。
「でもどうやって捕まえるつもり? 目を離すと消えちゃうのに」
「それを二人でこれから考えるんだよ」
「えっ?」
「作戦会議~ってやつだな。二人なら、きっと良い案が浮かぶし」
 得意げにエドワードは胸をはって、期待のこもった眼差しでフウトを見つめた。
「それにフウト、頭良いじゃん!」
「僕が……?」
「そうだぜ。頼りにしてるからなっ、親友!!」
 頭が良い。頼りにしている。
 エドワードが自分の事をそう思っているだなんて、フウトには初耳だった。
 顔や頬が熱い。これは一体、どんな感情なんだろうかと目を白黒させる。
 普段は冷静で落ち着いた物腰のフウトが顔を赤らめるのを、エドワードは嬉しそうに見つめていた。
「探すなら島を登んなきゃなんねーだろうし、大人のみんなには秘密な!」
「登る……」
 再びフウトの顔が曇った。
 反対の窓、フウトの寝台が置かれた窓から見える黒々とした山。エドワードは、その立ち入り禁止の山へ行こうと言っているのだ。
「……分かった。行こう」
「よしっ、決まりな! おーし! マボロシチョウ見つけるぞー!」
「おーっ! ……あっ」
 白い寝台の上、二人は慌てて口を塞ぐ。おばさんに聞こえてしまったら、また大目玉を喰らいかねない。
 どちらともなく、しぃ~と静けさを伝えるように唇に人差し指を当てた。
「そうと決まれば早速決行だ……って今日はフウトも着替えてなかったんだな。珍しい~」
 白いワンピースのような寝着を脱ぎながらフウトは笑った。
「僕だってたまには寝坊くらいするよ」
「そりゃあ、そうだよな?」
 うんうん、と訳知り顔でエドワードは何度も頷いた。
「フウトは帽子持ってくの、忘れんなよ。陽射しもだいぶ強くなってるからな」
「うん。エドワードこそ水筒持ってくの忘れないでね」
 着替え終わった二人はバタバタと階段を駆け下りていく。
「おばさーん! オレたち、今日は冒険に行ってくるなーっ!!」
「そうかい。じゃあ、そこの弁当持って行きな」
 橙色と水色の包みと水筒をそれぞれ掴むと、大きく大きく手を上げる。
「それじゃあ、おばさん。いってきまーす!!」
「はいはい、いってらっしゃい」
 大冒険の始まりにしては、あまりにも普通のやりとりだった。それが何だか可笑しくて、きゃらきゃら笑いながら二人で白い街を走る。
 走る必要はどこにもない。けれど冒険という言葉の響きに、足が胸が、逸って仕方が無かった。
「二人とも。こんなに朝早くからお出掛け?」
 嫋やかな声が二人を呼び止める。
「あっ、ピアニストのねーちゃん!!」
「うん、今から二人で冒険に行くんだ」
「そう、楽しそうね」
 エドワードがケートの声を聞くのは、これが初めてだった。
 優しくて、少し寂しそうな声だった。
「いってらっしゃい。怪我をしないよう、気をつけてね」
「いってきまーす!!」
 手を振る姿に、まるでピアノで奏でられる曲みたいな人だとエドワードは思った。
「そういえば、島の頂上向けて登るのはこれが初めてだよな」
「そうだね」
 少し荒い息の中でフウトが頷く。
「大人はみんな島には登っちゃだめっていうけど、なんでだ? フウトは知ってるか」
「うん、知ってるよ」
 小悪魔のような表情でフウトはニヤリと笑った。
「でもエドワードには秘密なんだ」
「なんで秘密なんだよーっ! あ、わかった! 昨日の夜の仕返しだなー?」
「どうかな~?」
「こんにゃろー!」
「いきなり背中狙いは禁止だってば!!」
「隙を見せた方が悪いんだぜっ」
 そうして始まったくすぐり合いっこ第二戦目は、意外とあっけなく幕を下ろした。
 二人とも走り続けて体力が削がれつつあったからだ。
「はあ、はあ……こ、こんなところで体力使ってる場合じゃないぜ」
「ま、まったくだよ……」
 肩で息をしながら汗だくのフウトが酸素を求めるように言う。
「ところで、どうして山に行くなんて言い出したのさ」
「マボロシチョウが居るのは高い場所の方って書いてあってさ。この島で一番高い場所ってあの山だろ」
 悪びれずにエドワードは山を見た。
 そこに宝物が眠っているのだと、綺麗なものが隠れているのだと信じて止まない瞳だ。
「あー、そういうこと」
「頂上目指して登ってきゃ、居そうな場所も見つけられるかもな」
「いやまあ確かにそうかもしれないけどさぁ……ちょっと、行き当たりばったり過ぎやしない?」
 フウトの質問にエドワードはぐっと親指を立てた。太陽に似た笑顔が汗と好奇心できらきらと輝いている。
「大丈夫。気を取り直して、頑張って探そうぜ!」

PAGETOPPAGEBOTTOM