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六月二日午前九時から午前十時
登場人物一覧
●I say he is me.
饗宴、麗しき皆々様へと今宵も手甲へ口付けを。
世界も隅々まで一等ご覧下さいませ、嗚呼、そうすれば斯様に貴方と出会う手段を我々は得るのです。
日が登ってから沈む迄。此の小さくて狭苦しい心の臓を弾ませる愛おしい貴方。そう、貴方と云ったら、堪らない!
澄んだ瞳で此方を見詰めるのはお止し下さいませ。
代わりと云っては何ですが、愛しい愛しい皆々様の為に、六月二日午前九時から午前十時迄を提供させて戴きたく、存じます。
●六月二日午前九時から午前十時
燦々と輝く太陽に神様は目配せしたのだろう、六月二日の今日は雨模様。
鬱々とした曇り空を眺めながら、日澄は今日の仕度を始める。
己に付属する情報の総てに価値はないけれど、己の見目ならば別だから。愛嬌振り撒き花蜜添えれば幾つかのモノは笑顔を浮かべる、故に着飾ることを『そんなもの』と吐き捨てるには殊更惜しい。戯曲を見届けるならば此方とて其れなりの装いで行かねば不相応と云うもの、日常に溢れた美しい全てを見たいと望むのであれば常日頃から美しくあらねばならないのだ。
と云うのはあくまで自論皆々様はお好きになさって、と彼は告げるのだろう。
切り揃えた黒髪に櫛を通し、其れ等を二つに分けて高く結い上げる。
其の作業は平静と変わらず何時も通りの其の一つ。
ご機嫌に笑みを浮かべたなら今日の調子は上々、愛くるしい見た目を作るには其れなりの努力と苦労と時の運が必要なのだ。だから少し時間がかかったってお許しあそばせ!
肌馴染みが良くなるように化粧水を肌に触れさせて、其れが乾くまでの間に今日己の顔を形作るパートナーたちを選び抜く。
曇りの方が紫外線が多いのだとかなんだとか、知らないことは知らないけれどどうせなら噂には素直に従うべきであろう。
日焼け止めを塗り(と云うのもスプレータイプでは効き目を感じないのだ!)、ファンデーションを塗る。此の丹念な作業は彼の性別が彼であろうとなかろうと行われる。
化粧とは己を美しく見せる為に。其れに付随するべきは化粧を行う者がどうなりたいかであって、性別等と云う些細な情報ではないのだ。
此れは確か奮発したようなそうでもないような、お気に入りかもしれないしそうでもないけどまあ便利な枠を越えない、つまるところ何時買ったか忘れてしまった愛用品のひとつを顔に落としていく。
時間があればじっくりと化粧品に向き合ったかもしれないしそうでもないかもしれない、何せ退屈とは何時現れるか解らないからだ。
とどのつまり何時飽きてしまうかも解らないものに大切な時間を惜しみ無く注ぐよりかは、一等好きなことに時間を割いた方が良い。そう判断したのだ。
薔薇が咲いたようなとは良く云ったものだ。薔薇の名を付けられた幾つものチークを頬に重ねたって熱病に浮かされているような愛らしさを顔に移すことは出来ないのに。
瞼には好きな色を乗せて指で混ぜて、睫毛は先にビューラーで伸ばす。此の一手間が大事だと教えてくれたのは誰だっけ。まあ、どうでもいいか。
冷たい印象ならば黒色、そうでなければ茶色を。目元から人の親しみやすさは決まっているらしいので取り敢えず茶色を塗りたくるが果たして此れで正解なのかも解らない。
此の手のことはやりたい人にやらせておくべきなのだろう、正解がないからこそ難儀なのだ。
アイラインはちょっぴり跳ね上げが『今日』のお気に入り。服を着るときに大変だのなんだの云われそうだが服に化粧の粉が落ちる方が一等大変なのだ。
三本のルージュを手にとって目を瞑って選ぶ。今日の相棒はアプリコットピンク。薄く重ねて、広げて。
そうすればなんと云うことでしょう。
饗世日澄の出来上がりではありませんか。
作成レシピは其の日の気分次第で時間も手間もかかるけれど今日はどうしても急がなければならない理由があった。
あれ、どうだっけ。
忘れてしまうならば些細なこと、どうでもいいならつまらないこと。
クローゼットの中に夢の数だけ押し込んだクラッシックロリィタ。其の中からまた一つを選ぶ。
上品な薄紫のワンピース。靴は金の刺繍の入ったあれを合わせよう。
斯うして仕度をしている時だけは恋愛小説の乙女の気持ちも解ってしまうような気がするから、お洒落と云うのは奥深い。
降り滴る大雨には笑顔で舌打ちして口寂しさに飴玉一つ。
此れが今宵の六月二日午前九時から午前十時。
くるりと傘を翻して恭しくカーテシーをしたならば、液晶を見つめる可愛らしい