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ラメントの天秤
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――遊楽伯。どうか、どうかお願いしたい事が――
そう頼まれれば『彼』は断れなかった。
……いや断り辛かった、という感覚が本当の所だろうか。
本気でNOを示す事が不可能な状況ではなかったのだから。
いずれにせよ――
その時、彼は天秤に乗せてしまったのだ。
きっと、乗せてはいけないものを。
●
――その日。リア・クォーツの体調は最悪であった。
脳髄を叩き割る様な頭痛が響いているのである。あぁ全くいつまで『こう』か。
特に今日は酷かった。ここ数日はまだ落ち着いていた、と思っていたのだが……
「……ホンット、ああ、もう……」
額を抑え、声はまるで唸る様に。
今までの最悪を更新するかの如き勢いだった。まったくもって嬉しくもなんともない。
……けれどそんな日でも己の胸の内を高鳴らせる出来事があった。
それが――遊楽伯との屋敷に招待された事、だ。
修道院に届いた手紙には、昼頃に使者が迎えに来るという内容が記されており。
彼の直筆のサインが最後に記されていた時の高揚たるやどれ程であったか――
頭をつんざくような痛みも同時に響いたが、些細な事だ。
久方ぶりの邂逅だ。あの人に呼ばれている。
あの人が呼んでくれている。
それだけでどれだけ己の心が救われる事か……
「っと、いけないいけない。そろそろ着くわね」
バルツァーレクの使者が馬車で迎えに来て暫く。
道なりに進んだ先に見えてきたのが遊楽伯の屋敷だ――
幾度か訪れた事のある己の記憶にも在りし、かの屋敷が近付けば……髪が乱れていないか、服にほつれが無いか。なんとなし気になってしまうものであり、慌てて整えるもの――そして中へと至れば。
「どうも、リアさん。申し訳ありません、突然呼び立てる様な事になってしまい……」
「――ぁ、伯爵。いえとんでもない! ご招待頂けて光栄の限りで……」
『彼』が出迎えてくれた。遊楽伯爵と謳われる、ガブリエル・ロウ・バルツァーレクが。
美しき緑髪が遠くからでも目に写り。
彼の抱く穏やかな旋律がリアの心に
と、その時。
「初めまして――貴方がリアさんですね? 私、ヴォルフ・フォン・テオドラードと申します」
「…………? あ、ええと、はい。初めまして……?」
伯爵の背後より現れた人物がいた――が。
誰だろう。身なりや名前からして貴族らしき事だけは分かるのだが、記憶にない。
テオドラード家? 誰だろうか。どこかで会った事があったか――?
いや相手が『初めまして』と言っているのだから少なくとも面識は……あぁ、もう……
思い至らぬ。頭痛が蝕んで思考も纏まらない、中で。
「……実はリアさん。今日お呼びしたのは他でもない。こちらのテオドラード卿――のご子息の方と交えて一時、お茶会を供にしていただきたいのです」
「……えっ?」
「申し訳ありません。こういった事はもう少し早くお話しておくべきだったのでしょうが。
なんとも。急に決まってしまったものでして……」
遊楽伯が、言を紡いだ。
……簡単に言えばテオドラード家はバルツァーレク派の貴族であり、伯爵個人ともそれなりに親しい仲である、らしい。いやそればかりか話を聞くに、それなり以上の名家で派閥の中でも影響力が在る程なのだとか。
そしてどこで知ったのか彼の子息……が、リアの事を気に入ったらしい。
幻想での類まれなる名声と活躍を聞いたか。
それとも美しき彼女の美貌に一目惚れしたか――
故にヴォルフはガブリエルを通じてこの茶会の場を整えた。
……以上が、今回リアがこの場に呼ばれた経緯だ。
だけど。
「…………そ……ぅでした、か」
そんな説明が、頭に入ってこない。
頭痛が、酷くなる。
瞳の奥が重く痛く。
眼前に広がる光景が塗り潰されるかの様だ。
●
――? 彼女の様子が、おかしい。
先程までの感情の起伏がまるで途絶えたかのようだと、ガブリエルは感じるものだ、が。
「……、……ご高名なテオドラード家の方がどうして、と思っていましたが。
しかし光栄です。一介の修道女の身ですが、是非お時間を共にさせて頂ければ幸いです」
「おぉ、これはこれは感謝申し上げます……ははは。倅もまだまだ幼いのですが、貴方の様な器量の良い方を大層気に入ったようでしてな――私も、せがまれればなんとも弱くて」
直後にはリアは『いつも通り』に戻っていた。
気のせいだったか? 美しい、にこやかなる彼女が笑みと共に其処にいる。
その口端から紡がれる言葉の数々にも淀みはない。
……だけど。
「リアさん、その」
「――なんでしょうか伯爵」
「…………いえ、なんでも……」
やはり『何かおかしい』とガブリエルは確信するものだ。
いや、と言うよりも、それ以前に『いい』のだろうか?
彼女を引き留めんとした彼は、言葉こそ引っ込めたものの。
『本当に、良いんですか?』
……そう紡がんとしていたのだから。
茶会とは言っているが、令息と女性の会合となればそれは『お見合い』に等しい。
いやテオドラード卿には実際そういう思惑も――あるのかもしれない。
だから。ガブリエルはこの時点で彼女が断るのではないか、とも思っていた。
……いや『期待』していたのかもしれない。
己には己の立場があるが故にこそ此処までの舞台は整えたが。
最終的には彼女の意思が一番だと――
だけどリアは断らなかった。どころか、ガブリエルにも変わらず笑顔を見せる程である。
「ではリア殿はあちらの奥の方で。倅がおります故に……」
「はい、ありがとうございます。テオドラード卿」
「…………」
「お任せくださいバルツァーレク伯――貴方のご期待には、応えてみせます」
――やはり、おかしい。
何かが違う。いつもの彼女ではない。
もしかすれば、彼女の抱いている笑みはきっと違う意味が込められていると。
遊楽伯は気付いて――しかし。
止めなかった。
一度だけ指先を伸ばし。彼女の肩を掴まんとして。
けれど、その指先は虚空を泳ぐだけに留まったのである。
……もしかすればその瞬間が『最後』の機であったかもしれないが。
もう引き返せない。いや引き戻せない、と言うべきか。
彼女の歩みは前へ、前へと。
遊楽伯が躊躇した一瞬を置き去りにする様に――前へと進んだ。
(……なんでしょうか、これは……?)
しかし彼女が遠く離れれば離れる程に。
ガブリエルの内には焦燥の感情が募っていた。
何かしなければいけない。そんな類の――『まずい』感情だ。
だけれども、二の足を踏む。
彼女が『いい』のに、私が止める理由などどこにもなく。
この場をセッティングしておきながら反故する様な無礼をする訳にもいかないのだ。
だからガブリエルは待った。
きっとこの後、円満に解決するだろうからと――
信じて、しまったから。
●
……茶会はにこやかに続けられた。
たっぷりと時間をかけて。自慢の紅茶の、芳醇なる香りと共に。
そして――やがて茶会は終了する。
「いやぁハハハ。倅も楽しき一時を過ごせたようで。
またお会いできることを楽しみにしております。リア殿」
「ええ、またいずれ機が巡りましたら――是非」
最後に。リアとテオドラード卿がもう一度だけ言を交わせば。
彼らは退席するものだ。令息にも手を振って、穏やかに別れる……
そして。
「……リアさん。彼の話は、断ったのですね」
ガブリエルが至る。リアの傍に。その、柔らかな声と共に。
事の経緯は把握した――やはりこの場は『お見合い』の意が強かったようである。
令息はリアへと共にならないか、とする様な言も紡いでいたようだ。
……尤も。リアはその言の葉には乗らず、穏やかに拒否した。
それはリアの想い以前に彼方側がミスをした所もある――どうも、リアの住まう修道院の事を些か『下』に見てしまっていた様なのだ。『貴女にはもっと相応しい場所がある筈』だと『その手を毎日汚さなくていい生活が、きっとお似合い』だと言ってしまった。
……リアが、その言動に感情を揺らさなかったのは伯爵の手前であったが故だろうか。
いずれにせよ彼女は柔らかなれど断りの意思を示した。
その展開に――正直ガブリエルは小さく安堵の息を零した事を隠せない。
本当に良かった。これでテオドラード卿への義理も果たせたと。
全ては丸く収まったのだと。
「申し訳ありません。こんな事に巻き込んでしまって……しかし、私は――」
故に彼は紡がんとする。
知っておいてほしい貴女には。このお見合いが成立しては欲しくなかったのだと。
ガブリエルは己が指先を伸ばし、再び彼女の肩に触れんとして――
しかし。
それより一瞬早く彼女が先に振り向いた。であれば其処には……
「……ガブリエル様。どうして、ですか?」
彼女が。彼女の顔の下に伏せていた、感情の色が滲み出ていた。
抑えていた思いが。張りつめ続けていた、想いの全てが。
「ガブリエル様。どうして」
どうして、私を。
「『使った』んですか?」
政治の道具として。お見合いの道具になんて――どうしてと。
彼女も、なんとなく事の経緯を理解は出来る。だって彼は『そういう人』だから。
きっとこれだって悪意があっての事ではないと分かっている。
――だけど『理解』と『納得』は別の話なのだ。
『理屈』と『感情』も。何もかも……
「……違います。聞いて下さい。これは、私の本意では」
「本意でないなら、止めてくれて良かったじゃないですか。
本意でないから、以前は助けてくれたではないですか……!」
「――あの時は」
リアが下種な貴族の罠に落ちようとしていた時は助けてくれたのに。
――あの時は、なんですか? 私が『断れない』から助けただけだ、とでも?
――『今回は断れるだろうから何もしなくていいだろう』とでも?
……彼女はそうは言わぬが、しかし彼女の瞳は雄弁に語っていた。
遊楽伯の零す言葉の数々に見えたのはきっと『甘え』だ。
彼女なら何とかするだろうという感覚――いや願望が在った事は否めない。
テオドラード卿が何だというのだ。バルツァーレク派の一人であるというのなら、その長として断固とした態度を取るという道は在った筈だ。それを『しなかった』のはガブリエルの心の弱さであり――
そして彼にそんな一面がある事をリアは分かっているからこそ、軋んでいるのだ。
……彼は天秤に乗せたのだ。
己の立場と。リアという一個人を。
『乗せてはいけない』ものを選んで乗せてしまった。
「……ええ。きっと今回の人達は、以前の貴族よりもマシな方々だとは思います。
けれど……それでも『して』ほしくはありませんでした……貴方にだけは……!」
彼らはリアを強引に手籠めにしようとまではしなかった。
けれど。違うのだ。そうではないのだ。
相手が良い人だから、とか悪い人だから、とかではなくて。
政治の道具の様に。駒の様に使われるのだけは――絶対に嫌だった。
「待ってください。誤解です……私は、私は、ただ……」
さすればガブリエルの言葉が詰まる。
……幻想の貴族として。数多の交渉事などの場に付いた歴戦の遊楽伯の喉が、しかし。
動かない。
喉が、渇く様だ。焦燥が、背筋にこびり付くかのようだ。
なんだ。何を言えばいい? 違うのだと。そんなつもりはなかったのだと言えばいいのか?
――今にも破裂しそうな感情を携えている、彼女に?
「分かっています。分かっているつもりです。伯爵がどういう御方か。
ずっとずっと見ていました。ずっとずっと想っていましたから」
リアは、来た。
己が捉える旋律が最悪でも、精神が地獄の渦の中にあろうとも。
……激しい頭痛に耐えてまで此処に来たのは、ガブリエルの頼みだったからだ。
屋敷の到着前に髪を整えたのは貴方が待っていると思ったからだ。
此処に来るまでにずっとずっと――脳裏に浮かべていたのは。
『貴方』の姿だけなんです。
……久方ぶりの出会いが。再会が。高鳴った胸の行き先が在ったのに――
「ですが、ですがこれは……これだけは……!!」
この仕打ちだけはあんまりだと。
期待は悲哀に。高揚は悲歎に。
彼女の感情は爆発する。己で己の旋律が、奔流になると理解しながら、それでも。
「あたしは、貴方の為なら何でもします。それは今でもそうです……でも……」
涸れそうな程の喉奥から声を振り絞り。
熱を帯びる目の奥の気配に――気付かぬ振りをしながら。
「でも……! あたしが貴方の隣に居たいのは、貴方に愛でられる『コレクション』になりたいからじゃない! あたしは……あたしは……! あたしが、此処にいるのは……!」
――貴方の事を、■■■いるからと。
秘められた、その言の葉を零す前にリアは、もう。
限界だった。
「リアさん、待ってください……リアさん!!」
咄嗟に。ガブリエルが声を飛ばす。
彼にしては珍しい程に張りつめた声を――彼女に届ける為に。
だけど、届かない。
距離の問題ではない。聞こえているだろうけれど、彼女が振り向かないのだ。
焦りしガブリエルは、その理由を察するよりも先に――再び手を伸ばす。
彼女に言葉を紡がなければと。
振り向いてもらい、まだ言を重ねなければと思うから。
だけど。
「――――!」
彼女は振り払った。
初めて、ガブリエルが伸ばしてきた手を――振り払ったのだ。
●
周囲は薄暗くなり始めていた。
夕刻頃だろうか。街の中を歩いていれば、周囲では穏やかな子供達の声も聞こえている。
夕ご飯は何かな――なんて微笑ましい声色が響く中で。
「――――」
リアは歩いていた。俯きながら、何もかもから眼を逸らしながら。
空は眺められない。顔を上げる事は出来ない。
……雨が降っていた気がしたから。
だって。
止まらない。頬を伝う一つの雫が――確かに其処に、あったから。