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優しさに包まれて
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カトレアに送り出されて降り立ったのは、緑の生い茂る森だった。どこか人を避けるような雰囲気が漂う場所だけれど、空気は綺麗だった。道に沿って歩きながら、ジョシュアは紅茶を入れた籠をそっと手元に寄せる。
ずっと楽しみにしていたリコリスとのお茶会だ。少し前からこの日のことを考えては、ふわふわと心が弾んでいた。それがとうとう目の前に迫っているのだと思うと、何だか緊張してしまう。
頬が強張ったり緩んだりを繰り返しながら歩いていると、目の前に突然、黒猫が現れた。
「カネルですか」
にゃあ。言葉は分からないけれど、肯定しているような響きがあった。ついて来いとでも言うように、ゆるりと尻尾を振られる。
カネルについて歩くとすぐに、さあと道が開けた。そこに見つけたのは、以前訪れた家で、思わずあっと声が出た。
重たい作りのドアを、ゆっくりとノックする。ほんの少し息を吐き出してから、ごめんください、と声に出した。
扉はすぐに開いた。どこか緊張した面持ちのリコリスがそっと顔を出し、それから嬉しそうに表情を崩した。
「ジョシュ君。いらっしゃい」
「リコリス様。お邪魔します」
リコリスと会うのは久しぶりだけれど、手紙のやりとりをしていたせいか、あまり時間の空白を感じない。文字を通して知ったリコリスが確かな形を持って、ここに立つ彼女と重なったような気がした。
「カネルに迎えに行かせちゃったわ。ここ、分かりにくいから」
「ありがとうございます。おかげで迷わずに来られました」
リコリスの腕におさまったカネルに視線を合わせる。彼にもお礼を言うと、その尻尾がジョシュアの鼻に触れた。
「初めまして、どうぞよろしくって言っているわ」
「こちらこそ、ですよ」
カネルが嫌でなければ、撫でてみたいのですが。そう言うと、リコリスはゆっくりと笑った。
「嫌じゃないって」
そっと手を伸ばすと、カネルは撫でやすいように頭を下げてくれた。驚かせないようにそっと手を動かすと、生き物の温もりがじんわりと伝わってくる。なんだか、可愛かった。
リコリスはそんなこちらの様子に微笑みを浮かべて、それからリビングの扉を開けた。
テーブルに置かれていたのは、緑色を中心に、植物を思わせるような色をつけられたマカロン。それから、瓶に詰められたジャムが二つ。手紙を読んで想像していたものだったけれど、それよりもずっと優しい色で、温かな光を含んでいる。
思わず、ほうと息が漏れた。彼女がジョシュアのために用意してくれたのだと思うと、嬉しかった。
茶葉にお湯を注ぐと、グラスの中でゆっくりと薔薇の花が開いていく。工芸茶を淹れるのはリコリスも初めてだったらしい。花の咲く瞬間を眺めながら、リコリスは何度も綺麗だと呟いた。
「素敵なお茶をありがとう。どこで見つけてきたの?」
「海洋という場所の、バザーで見つけてきました」
茶葉が開ききるまでの間、とりとめのない話をする。海洋という場所がどんな場所か、なぜ薔薇の入った紅茶にしようと思ったのか。そんな話が、ぽつぽつと、穏やかに交わされる。
「あら、甘い薔薇なんてものがあったの」
「ええ。摘んだばかりの花びらが、蜂蜜のような味がしたのです」
薔薇園で飲んだ紅茶の味を思い出しながら、あの甘い紅茶のことを話す。リコリスもその味を想像したのだろう、美味しそうねと頬を緩ませた。リコリスがその紅茶を飲んだわけではないのに、なんだか嬉しそうだった。
「ジョシュ君が暮らしているところには、いろいろな食べ物やお菓子があるのね」
花の開ききったグラスを持ち上げると、紅茶の香りがふわりと漂う。紅茶の色も鮮やかなのに、花の色が隠れることはない。作り手が工夫を凝らした逸品だ。
「そうですね。僕も、実際に食べてみたり、買ってみたりしたことは多くないのですが」
そう。リコリスが目を伏せる。その唇が何か言葉を紡ごうとして、躊躇うように閉ざされた。代わりに優しい微笑みが浮かべられて、ほっそりとした指先がマカロンに向けられる。
「お茶も用意できたことだし、お茶会を始めましょうか」
リコリスの言えなかったことが、なんとなく分かるような気がした。そのことに対して何か返事をしてもいいのかもしれないけれど、言いたくても言えないことがあるのは、ジョシュアも同じだ。だからまずは、リコリスが心を込めて作ってくれたお菓子を、大切に味わおうと思った。
「いただきます」
小さなマカロンをそっと齧ると、さくさくの表面が崩れて、柔らかな内側が口の中で溶けた。ガナッシュクリームの甘さがゆっくりと広がっていく。
優しくて、温かくて、心をふんわりと包み込んでくれる。そんな味がした。
「おいしい」
思わず零れた言葉に、リコリスが目を細める。よかったと、ほっとしたような声が聞こえた。
昔は生きていくので精一杯で、マカロンを買う余裕もなかった。雪が降る空の下、ショーケース越しに色とりどりのマカロンを眺めていたものだ。綺麗だな、食べたらきっとおいしいのだろう。そう思いながら触れた硝子は、冷たかった。
手紙で思い出した些細なことだ。その時からマカロンの味を想像していたのだけれど、今食べさせてもらっているものは、思っていたものよりもずっとずっと美味しい。
リコリスのお菓子作りの腕は確かなものなのだろう。だけどそれよりも、ジョシュアのためにマカロンを作ってくれたことが、何よりもおいしく感じられる。
「マカロンは、こんなにおいしいものなのですね」
「そんなに喜んでもらえるなんて。作ってよかったわ」
リコリスがグラスの中から薔薇を取り出し、他のグラスに静かに浮かべた。色が先ほどより濃くなった紅茶に、ジャムをそっと混ぜる。途端、ベリーの香りがふわりと広がった。
「私を魔女だと知っても、普通にお話してくれたり、こうやって、お菓子を食べてくれたりする人、多くないもの」
彼女もマカロンを一口かじる。良くできたとでも言うようにその表情が柔らかくなって、それから静かに言葉を紡いだ。
この世界では魔女は悪者だ。悪だと、害があると決めつけられ、優しさも温もりも与えられなかった。そうして人々が思い描くような悪い魔女に皆が変わっていく。
「私も嫌なことされて、嫌なことを返したことがあるの。でも、悪い魔女になるのも苦しかったわ」
優しさを失いそうになるたびに、誰かを傷つける痛みを思い出す。心が擦り切れそうになるたびにほんの少し優しさを与えられて、何度もその光に縋り付いた。やがてもう忘れたくないからと自分から人と離れて、この森の奥深くに住み着いた。それが、今までの彼女の人生だという。
「だから、嬉しいの。ジョシュ君は私と普通に話してくれるでしょう」
揺れる紅茶の表面を見ていたリコリスが、ゆっくりとこちらを見つめる。優しさを灯した瞳に、ジョシュアがうつる。
「ありがとう」
ふわりと微笑まれて、胸が熱くなるような、苦くなるような気持ちがした。嬉しさに紛れて、焦りに似た気持ちがこみ上げてくる。
「あの」
僕も、言わなければならないことがあるのです。そう口に出すのに、随分と時間をかけた。
自分の性質を明かすのは、怖い。毒の精霊だと知られた途端、皆冷たくなる。酷いことをしてくる。だから隠している方が優しくしてもらえて、少しだけ、楽だった。だけど本当はずっと、そんな好かれない部分も含めて、受け入れてほしかったのだ。
エリュサは、ジョシュアを大切にしてくれるひとがいると教えてくれた。当たり前の幸福を教えてくれた。その温もりのおかげで、光に手を伸ばすことができる。
リコリスは痛みが分かる分誰かに優しくできる人だ。それはやりとりを重ねているから、よく分かっている。何度も温かさを貰ったから、信じることができる。
「実は、僕は、毒の精霊、なのです」
自分だけ黙っているのは不公平だと気が付いてから、ずっと悩んでいた。言いたくても言えなかった、痛みと願い。
「ずっと黙っていてすみませんでした。だけどできれば、これまで通り友人として」
これで拒否されてしまったら、仕方ない。彼女にもそれだけの事情があるのだから。彼女はきっと、そういう人。
リコリスをどう見たらいいか分からなくて、目を逸らしてしまう。心臓の音が、嫌に響いた。
「あら。ジョシュ君はジョシュ君じゃない」
唇を噛みかけたとき、返ってきたのは想像以上に穏やかな声だった。
「だってジョシュ君。私の毒薬を『イリゼの雫』と言ってくれたもの」
彼女にとっての毒は、使い手の心のままに人に影響を及ぼすもの。だからジョシュアが毒の精霊だろうと、気にしないという。
「ジョシュ君は優しくていい子。お手紙に嬉しい気持ちも優しい気持ちものせてくれるひと。だから、いいのよ」
ああ、そうか。思わず息が零れた。
リコリス様は、ずっと、僕自身のことを見ていてくれたのですね。
毒があろうがなかろうが、彼女には関係なかった。ジョシュアがジョシュアのまま振る舞えば、それで十分だったのだ。
それなら、良い。良いのだ。胸が温かくて、穏やかな気持ちでいっぱいで、泣きたくなる。
「これからもよろしくね」
何度も頷いて、マカロンを再びかじる。優しい味で、身体中が満たされた。
おまけSS『紅茶を、もう一杯』
テーブルの上に二つ並んだグラス。水のはられたそれには、薔薇の花が入れられている。
工芸茶というものは、お茶を飲み終わった後の花を水に移して、水中花として楽しむことができるものらしい。紅茶にジャムを入れてみたかったから、早いうちに茶葉を取り出して水中花にしてみたのだが、水の中で揺れる薔薇は、何だか綺麗だった。
「ジャムも合うわね、この紅茶」
リコリスは工芸茶を随分気に入ったようだった。探してきた甲斐があったと思う。
「喜んでいただけてよかったです。このジャムもおいしいです」
「それならよかった」
聞けば、街に果実をたっぷりと使ったジャムを売っているお店があるらしい。街に出たときによく買うのだとか。
リコリスの話を聞くのは、楽しい。何気ない一言、何気ない出来事が、胸に響くような気がするから。
「あら、もう紅茶が空ね。淹れてくるわ」
「いえ、僕が淹れます。リコリス様の分も一緒に」
ジョシュアが先に立ち上がろうとすると、膝とテーブルの隙間に黒くてふわふわしたものが入り込んだ。カネルだ。
カネルは膝の上から動かないとばかりにゆったりと座っている。思わずリコリスの方を見ると、彼女はくすりと笑った。
「すっかり懐いたわね。紅茶は私が淹れてくるわ」
「ありがとう、ございます」
リコリスが立ち上がり、キッチンに向かう。
彼女の後姿を見ながら、ジョシュアは膝の上の温もりをそっと撫でる。この家の雰囲気が、好きだと思った。