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紫陽花の証言
登場人物一覧
六月中頃。季節は梅雨真っ盛り。
場所は豊穣、紫陽花の名所『鏡乃池』
とある八百万の屋敷の一角ではあるが、この美しい紫陽花を是非皆に見てほしいと主人の考えで開放されている。
紫、青、白、桃。
梅雨を象徴する鮮やかな花々は、その美しさと華やかさをもって観光客たちを出迎えていた。
「桜は見たかったけど、ちょっと時間が合わなかったから……」
誘ってもらえて嬉しいと、『太陽を追い月を求める者』スコル・ハティ(p3p009339)は、はにかんだ。
「良かった、この季節なら屹度、紫陽花が綺麗だと思って。スコル君と見たかったんだ」
『微睡む水底』トスト・クェント(p3p009132)が柔らかく微笑む。
その微笑みを見るたびに、スコルの胸の内が暖かな灯が燈る。何故こんな感情を抱くのか。
スコルはその感情の名前をまだ知らない。
視線を紫陽花に戻す。
「……紫陽花がこんな風に群生で咲いてるのって見た事無かったから、なんだか新鮮だな」
「そうだねぇ、とっても綺麗だ」
愛おしそうに目を細めるトストの顔を下から覗き込んでスコルは紫陽花を持って帰ることにした。
きっとトストは喜ぶだろう。
しかしここの紫陽花は誰かが愛情を込めて育て上げた花だ。
無遠慮に壊してトストに差し出すことは簡単だが、トストは喜ばないだろう。それどころか哀しい顔をするに決まっているのだ。哀しい顔のトストは見たくない。
なら他の、野生の紫陽花なら問題は無いんじゃないか。スコルはそう考えた。
「トスト、帰ろう」
「えっ、もういいの?」
楽しくなかっただろうか、無理やり付き合わせてしまっただろうか。と、僅かに眉根を寄せたトストにスコルは首を振った。
「紫陽花を持って帰りたいんだ、でもここのは管理されてる奴だから」
「ああ、成程」
安堵の表情を浮かべたトストと共に、スコルは帰路に着く。
●
鏡乃池を後にして、数分後。
二人は運よく野生の紫陽花の群生地を見つけた。
「取ってくる、少し待っていてくれ」
「うん、此処で待ってるね」
色は悩んだがトストが好んで着ている上着に似ている青にした。紫陽花にそっと近寄り、一本だけナイフで茎を切った。押し花という物にすれば長持ちすると聞いたし、あんまり欲張って持って帰っても枯らしてしまうだけだ。
「うん……?」
ぽたり、と肌に当たる冷たい水滴にスコルは思わず目を閉じる。
上を見上げれば晴れていた空はいつの間にか曇っていた。ぽつぽつと数滴、雨粒が落ちてきた後にさぁっと本格的に振り出した。
「うわ……雨か……」
慌てて鞄に忍ばせておいた折り畳み傘を取り出して開き、トストの元へ戻る。
雨に打たれて先ほどの庭の方を眺めるトストが居た。
彼はオオサンショウオのディープシーだ。
水に濡れる事なんてなんてことない。なんてことはないだろうが。スコルはその光景から暫く目が離せなかった。
雨に濡れた肌はしっとりとしていて、貼り付いた着物がトストの身体のラインをくっきりと映し出す。髪の先から滴が伝い落ちて、曇り空でくすんだ世界の中で、その唇の赤がやけに鮮やかに見えた。伏せられた睫毛は長くて震えている。
――あんまりにも妖艶で、美しかった。
ごくりとスコルは唾を飲み、暫くトストに見惚れていたが、はっと我に返りトストに声を掛ける。
「トスト!」
「……」
「トスト!」
「えっ、ああ、ごめんね! つい」
声を掛けられたトストはいつもの笑顔に戻り、恥ずかしそうに頬を掻いている。はぁと一つ溜息を吐いてスコルはトストに歩み寄った。
「ずぶ濡れじゃないか」
「ディープシーだから平気だよ」
「いや、そうだろうけど」
――その姿を、他の奴らに見せたくない。
そんな独占欲を胸の中に押し込んで、スコルはトストを傘で隠した。
「大丈夫? スコルくんまで濡れちゃわないかな」
「構わない」
「じゃあ、お言葉に甘えて」
トストが身を屈めて傘の内に入ると、冷たかった雨が遮られ体温が徐々に戻ってくる。ぴったり寄り添う二人はまるで仲の良い兄弟の様だった。兄弟の、様なのに。
(……こんな風に体を寄せて一緒に傘に入るのは俺だけが良いな)
なんでこんな気持ちになるんだろう。わからない。
けど深く考える気にもなれない。
ただ、俺はトストが好きで。
一緒にいると胸がドキドキする。
「採ってきたの、それ? いい枝選んだねぇ」
だから、こうやって紫陽花に目を向けて雫が落ちないように気を付けなきゃと笑うトストの顔が、こんなに近くにあって。薄い唇が無防備に晒されていたら。
「……は、えっ?」
ばっと口を抑えて僅かにトストが後退る。
真っ赤な顔で目を見開いて、心臓が早鐘を打って鼓膜を突き破るんじゃないかというくらいに五月蠅い。
「……嫌、だったか?」
不安げに揺れる瞳が真っすぐにトストを射抜く。
だって、あんなに顔が近くにあったら。
――キスしたくなるのも、多分普通の事だろう?
言葉にはしなかったが、そう透き通った灰色が訴えかけていた。
それでももし、トストが嫌がったら、嫌われたかもしれない。そんな不安、もう元に戻れない。それでも、自分がそうしたいと思ったから、そうした。
スコルはそういう、強欲な少年だった。
一方トストはといえば、自分に甘えてきてくれて求めてくれているスコルを好ましくは思っていた。
大切で、護りたい友人。
そんな感情だった。地上にいる事を許してくれて、自分を地上に繋ぎ留める碇になりうる人。
それがトストにとってのスコルだった。
だから、こんな。
唇が重なることなんて全く予想していなかった。
脳味噌が沸騰して、まともに思考が出来ない。
何か、何か言わなきゃとぐるぐる回る視界で咄嗟に出たのは。
「い、いやじゃないよ……っ」
そう、嫌じゃなかった。
びっくりしたけど、とスコルに伝えた後に今度は自分の言葉に驚いた。
恋人でもないのに、突然キスされて嫌じゃないってどういうことなんだろう。
「……嫌じゃない、のか……そっか」
「うっ」
明らかに安心して、ふにゃりと嬉しそうに緩んだ顔にもうトストは何も言えなかった。
狡い。
その顔は狡過ぎる。そんな顔されたらもうなんにも言えなくなってしまう。
いまだに収まる気配のない心を探っても終ぞ嫌悪感は見当たらなかった。
「……帰ろうか」
「う、うん……そ、うだね」
自分よりも年下なのにちょっとゴキゲンで、妙に落ち着いているのが悔しい。でもやっぱり悪い気はしない。トストは悶々としながら、顔を見られないように上着を寄せた。
(嫌じゃないって、トスト言ってたな……)
スコルは上着の隙間から覗く赤い耳をちらりと見上げ、先程のトストの言葉を反芻する。
(……じゃあ、もしかしてそれ以上の事をしてもいいんだろうか?)
例えばその、汗の雫が伝う首筋に歯を突き立ててみたり。血管の浮く手首に舌を這わせてみても、許されるんだろうか。
じぃっと穴が開くほど見つめて見つめて、開いた口を閉じた。今日は止めておくことにしよう。
「まだ、いいか聞いてないしな」
(何を!?)
ぼそりとした呟きに、過敏に反応しながらトストはスコルを横目で見た。目と目が合って、折角落ち着いてきた心臓がまた五月蠅く鳴り出したので、トストは慌てて目を逸らした。
傘に切り取られた二人の関係は世界の誰も知らない。
ただ、傘の内で綺麗に咲いた紫陽花だけがこの日の出来事を証明していた。
おまけSS『オオサンショウオの苦悩』
どうしよう、トスト君はおれにとって大切な友人で、怒りだと思っていたのに。
あんなことされたら、否が応でも意識してしまうじゃないか。もしかしてトスト君は軽い悪戯のつもりだったのかも……嫌、彼はそんな悪戯はしない。
それは傍に居るおれがよくわかっている。
紫陽花を持つ手に思わず力が籠る。
ああダメダメ紫陽花が痛んでしまう。茎が折れたら可哀想だ。
頭は落ち着いてくれと
そんな訳の分からないことを考えていたら、ふっとスコル君が微笑んだ。
ああ、お願いだから。
そんなに優しい目でおれを見ないで!!