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揺籠の狼と忘れられた子守唄
登場人物一覧
『彼女』にとっての最もたる不幸は何だったろうか。身籠った我が子と出会う前に愛する男が獣に食い殺され、『寡婦』となったことか。泣き明かす日々を越えて『母親』となったのに、産んだ赤子に獣の耳が生えていたことか。
この世界においての人狼がどういった存在か知ればまさに悲劇であると言えるし、最期まで知る者がいれば未だ序章に過ぎないと言うだろう。
ただ「旦那は獣と合わさって帰って来てくれた」と赤子に歪んだ認識を得たのが幸か不幸か断じることは難しい。守らなければと人目から隠し、山奥でふたりだけの生活をしたことで子供の寿命が伸びたのは少なくとも確かな事実だったのだから。
耳や尾など獣のような外見的特徴。個体差はあれど人並外れた身体能力と耐久性。加えて、異能を発揮する者も少数ながら存在する——【リュコス・L08・ウェルロフ】と後に記号を与えられた子供のいた世界の人狼とはそういうものだった。
人々から向けられるのは、自分達とは異なる生物に対する恐怖。十全な力の発揮には血肉を必要とし、動物より人間のものが効果的だと捕食して回る凶暴な人狼の話を聞かされた日には、子供でなくとも寝付けなくなるだろう。自然発生した、狼の子がそうであった、人間が突然変化、あるいはリュコスのように全くの人間の両親からという報告まであり、発生要因が解明されていない不気味さも拍車を掛けた。
故に討伐という流れも、まだ幼いうちにと策を講じるのも致し方ないが——力の弱い子供を甚振ることで戦えない者が持つ不安や恐怖を解消しようとしたのは、人の弱さと愚かさ以外の何物でもない。どれだけ拷問しても獣の肉を与えさえすればいずれ完治するのだから、村を統治する側から見れば実に都合の良い捌け口だった。
そんな経緯で捕獲され、村毎に番号を振られた子供達の処遇は管理と名ばかりで最低限の取り決めすら守られず、餓死や衰弱死も珍しくはない。もはや世間一般の常識だったのだ。たとえ、腹を痛めて産んだ子供を死んだ夫の身代わりにするような妄執に囚われても忘れないくらいには。
それでも。母子ふたり、狭く閉じられた平穏のすぐ側まで
ある日、集落もない山奥にひとり隠れ住む女の噂が立った。それを訝しむ者が探りを入れ、幼い人狼の目撃情報は数日と待たずに彼らの耳へ届くこととなる。
武器を握り、標的の隙を突こうと山中に潜む男達を先に見咎められたのは母の勘か。されど彼らにとってその程度の障害は想定内であり、排除するべく伸びた腕はしかし、うち一人の提言でぬるりと不快な熱を帯びた。
家に帰ったらお母さんがいなかった。
だから探しに行くことにした。
家の中に籠がなかったから、きっと洗い物をしているはず。
尻尾で風を切り、沢を下る足は自然と駆け足になった。
採ってきた果物を「とても美味しそうね、ありがとう」といつものように褒めて欲しくて。
真っ先に異変に気づいたのは耳だ。
ここには自分達しかいないのに、たくさんの声がする。
嫌な声、怒鳴り声、嗤い声、叫び声——それらを辿って藪を覗き込んだリュコスは思った。
おかあさんがケモノにおそわれている、と。
大きなものに背中からのし掛かられていたから。
その下で俯せになって悲鳴を上げていたから。
びくびくと跳ねる体を泥や何かよくわからないもので汚しながら、逃げようと地面に爪を立てて踠いていたから。
その手もすぐに別の腕に捕まえられてしまったけれど、必死に抵抗していたから。
それは間違いではなく、正解でもなかった。飴玉のようにまん丸に透き通った瞳に映り込む、
「あかあ、さん……?」
続く言葉の代わりに、ぼろぼろと溢れ落ちた果実が真っ赤に潰れて呻いていた。
正義は力だ。力は毒だ。大衆の支持を受けた
「どうせ殺すんだ、その前に遊んだって誰も文句あるまいよ。なあ?」
人里離れて暮らす身寄りのない女、しかも人狼を匿っていた大罪人だ。ヒトの皮を被ったケダモノ達は「罰を与えないとな」と腐り切った建前と下卑た笑みを貼り付け、囲んで捩じ伏せ、無理矢理に割り開き、未だ亡き夫を愛し続ける彼女の身も心も凌辱し尽くす。
生殖行為。欲望の発散。男女の営み。母とふたりで山暮らしをするリュコスは性に関する知識どころか、男という生き物がどういうものなのかも知らない。そして、リュコスが知る愛の形は母から与えられた優しいものだけだ。だから、わからない。わからないから本能で忌避したのだ。
悍ましい。惨たらしい。穢らわしい——生まれた感情に名前を付けて言語化するだけの知識すら持たないまま、自身の性すら否定する程に。
「リュ、コス、逃げ、あ、ぁ……ッ見ちゃ、だめぇ! 逃げ、……逃げなさッ、ぃ!」
途切れ途切れに張り上げられる、今まで一度だって聞いたこともない声。真っ赤に染まった顔はぐちゃぐちゃで、リュコスの中の『優しいお母さん』は無遠慮に塗り潰されていく。
目の前が暗くなる。それなのに。目を背けたい光景だけが余計に鮮明になって、汚い声と水音がわんわんと谺して、男の手が伸びてくるのにも唸り声のひとつ上げられずに——ブツン、と焼き切れるような音でリュコスは全てを手放した。
息を吸う。
瞬きをする。
空気が、光が、一気に戻ってきたようで苦しい。
ぎゅうぎゅうと締め付けられて痛くて、涙と声が思い出したように溢れてくる。
——おもいだすって、なにを?
「Uh……」
「おい、人狼が目を覚ましたぞ」
「意識がしっかりする前に拘束の確認をしとけよ」
誰かの声がする。
ガチャガチャと音がうるさい。
重い頭を動かせば誰かがこちらを覗き込んでいた。
——だれ?
「だ、れ……っ、けほっ」
カラカラに渇いた喉に咳き込む。
背中に何かが当たる。
とても狭い場所。
きっと寝返りも打てない。
「誰だあ?そりゃお前みたいな人狼を狩る、弱い者の味方さ」
げらげら、げらげら。
一斉に嗤う、耳障りな声。
それに合わせて床が揺れる。
——じんろう、ぼくが、人狼?
「しっかし、今回は収穫だったな」
「あぁ。あんなとこに住んでんだ、だいぶ痩せてたが悪くなかったな」
何もわからない。
言葉が涙の上を引っ掻いて通り過ぎていく。
「人狼なんてさっさと捨てちまえば、今頃いいとこの嫁さんになってたかもしんねぇなぁ」
——しゅうかく。じんろう、ぼくのこと?
「違いねえ。哀れなくらい馬鹿な女だよ」
『女』という単語がまだ覚醒し切らないリュコスの全身を駆け抜け、しかし増した痛みは何かを浮かび上がらせる前に消える。残ったぞわぞわとした居心地の悪さと何もわからない現実から今度こそ目を背けるために、小さな体を自分で握り潰さんばかりに両腕で抱き締めた。
そうして、全てを失った子供は【ウェルロフ村のL08番・リュコス】になった。曇った硝子の瞳の奥には、もう『お母さん』はいない。
おまけSS『なんちゃって称号』
『空を映した硝子玉』
空っぽな瞳で見上げた空は、何色をしていたのか。
いつも見ていたはずの色とは多分、違う気がする。
それ以外は何もわからない。知らない。知らない。
ヒビ割れた硝子玉の中、詰まっていた誰かの言葉。
「今日もいい天気。ねぇ、リュコス。愛してるわ」
それももう聞こえない。聞こえない。さようなら。
いつか涙で満たされて、新しい心を知る日までは。