SS詳細
誰が為の剣か。誰が為の正義か。
登場人物一覧
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ぽつ、ぽつ、と雨が降る。
滴る雫は汗か、それとも。
伝う雫は何を見る。
握った掌は赤くて。
(……もっと、もっと、強くならなくちゃいけないのに)
どうして己はこんなにも弱いのだろう。
あの日、活き餌侍と馬鹿にしていた男の真価を知った。結局のところ彼は、『遊ばれていていてくれた』のであろう。
ならば私は。この刃は。どうして。
――――弱い。
「――ッ!!」
キィン、と剣が飛んでいく音がする。じんじんと残った反動。てのひらが、いたい。
あの日躊躇いなく死を突き付けた男の影が脳裏をよぎる。
死とは即ち敗北だ。
もう彼にも、誰にも負けないと誓ったはずなのに、クワルバルツはそれを許さない。
弱さを。無力さを。知りたくなかったはずの脆さを、教えられていく。
強くなることはとても難しいのに、どうして人間は簡単にこんなにも弱くなるのだろう。
――リディア。剣にのせるのは欲ではなくて、願いだ。
兄の言葉。
己の欲に飲まれて奮う剣はただの暴力なのだと。
己の剣は――『どう』であろうか?
(弱い。弱い。弱い弱い弱い弱い弱い弱い弱い――――――ッ、弱い!!!)
飛んでいった剣をまた広い、愚直に斬りかかる。
ずっとずっとずっと。あの日に捕らわれている。
ずっとずっとずっと。貴方が。その強さが、恨めしい。
なのに。
「おいリディア!! もうやめろ、風邪引くだろうが!!」
「やめて、離してくださいッ!! 私は強くならなきゃいけないんです――!!」
傷だらけの掌が。
酷く不器用な優しさが。
その声が。
私から離れないのは、何故だろう。
剣を取り上げられまいと剣を奮えば、幻介はされるがままに『斬られる』。
刃が、彼の頬を裂いた。
「……リディア」
「関わらないでくださいよ。……どうして、こんなことするんですか」
嫌だ。どうして。来ないでよ。土足で、無用心に、ずかずかと。彼は踏み込んでくる。リディアの心に。
それが、酷く苦しくて仕方がない。
(……私は強くならなきゃ、いけないのに)
そう呟く度に、どうしてこんなにも胸が痛むんだろう。
――あの日焼き付いた幻介の背中が、やけに霞んで、思い出せない。
幻介を突き飛ばしたリディアは遠く遠く走り去る。
それはまだ風薫る五月のこと。
きっとこの仲(つきあい)に対した意味も感じていなかった頃の、おはなし。
●
時は過ぎ、六月も初旬。
梅雨のはじまり。雨の匂いを感じる季節。
ならば買い出しスケジュールも念入りにしなくてはならないと知ったのは、彼女――リディアが混沌で自立した暮らしを送るようになってからだ。
仮にも皇族、王女様。沢山の人が彼女の生活に携わっていたのは紛れもない事実。最初の方こそ慣れなかったけれど、今となってはそれが当たり前になるように生活し、そして当たり前になってきたのも事実で。
(うーん、そろそろ買いだめをしておかなくてはいけませんね……)
梅雨がきて、夏がきて。その間に降るであろう雨の数を数えたら、リディアの長い金色はどこぞの王妃のように真っ白になってしまうことだろう。
だからお買い物は計画的に。混沌にきて学んだことのひとつ。お金も時間も有限なのだから、やれるときにしっかりと!
そうそう上手くいくわけではないけれど、それでも志はあるほうが良いだろう。なんて考えて。
その考えの結果、雨に降られる前に諸々買い物が終わる。切らしていた調味料だとか、トイレットペーパーだとか、気になっていた本だとか、本当に色々!
(今日はいいことありそうですし、お外で食べて帰っちゃいましょうかね)
るんるん気分で幻想の街を歩く。
ピザにしようか、いやパスタもいい。暑くなってきたから冷たいものでもいいような。うきうきと歩きながら考える。
……そんなリディアを追う影があることも知らずに。
「ふう!」
美味しいものをたらふく食べれば気分もご機嫌。荷物は少々買いすぎてしまったけれど、それを頑張って持って帰ろうと思えるくらいには元気もやる気もチャージされた。さあ帰ろうと店の扉を開け、暫くしてからのことだった。
空はもう真っ暗、ぽつぽつと街灯の色が代わり始め、からっぽだったガラス張りのそれに色が灯る。
陰りを残した路地裏から一歩外に出る。急ぐリディアの足を止めさせたのは、数人の男たちだった。
「すみません、そこのお姉さん」
「私ですか?」
「道に詳しそうだったんで! いやぁすみません」
「このお店に行きたいんですけど、知ってません?」
ああ。
その店なら、先程食べてきた店じゃないか。
「はい、知ってますよ。この道をずっと――」
後ろに広がる路地裏を示そうと身体を向けたリディア。その口元をハンカチが覆い――リディアの意識は理不尽に奪われる。蕩けていく思考。崩れていく足元。最後にリディアが見たのは。聞いたのは。
「さて、どこの貴族の家出娘かねえ」
「身代金出さなかったらオークションだな」
「まあキズモノにしてやってもいい。この手の女はいくらでも使いようがあるからな!」
男たちの下卑た思考。それから、笑顔だった。
(――ああ、)
(どうして、こうなるんだろう)
(私が、弱いから?)
……問いかけて、答えが返ってくるはずもないのに。
だから、ずっとずっとずっとずっと負け続けているのに。
どうして。
なんで。
私だけ。
リディアの頬を、涙が伝った。
●
スラムを蔓延る馬の骨の掃討。
幻介に依頼されたのは始末屋らしく罪を重ねるだけの単純な依頼。
ただ生きているだけならばまだしも、他の人に危害を加えているならば別だと領主が重い腰をあげたのだ。
だからそう。たまたまだ。まさか、リディアが被害に遭うとは思ってもいなかったし考えてもいなかった。
一足遅れていたらどうなっていたことだろう? 震える己の腕を抑えて、今はただ男たちを追いかけた。
スラムは彼らの縄張り。壁を蹴り屋根に登った幻介は、音らしい音のない足音と共に男たちを尾行する。
対して距離も歩かぬ内に男たちはリディアを道に投げた。
「なあ、一発ここらでやっとかねえか?」
「おっ、キズモノにすんのか?」
「でもまてよ、キズモノは高く売れねえ」
くだらない。本当に、くだらない。諦めたような眼差しをしたリディアは屋根の上に居る幻介には気付かない。
(…………)
仕事に私情は持ち込まない。
始末屋たる彼のポリシーかつマスト。彼女がいようといまいと、結局するべきことは――
「変わらない」
降り落ちるは災禍。水をも断ち切る神の一撃。
「なっ!?」
縦一文字になった仲間だったものに目を見開いた男たちは、思わず後ずさって。
「っおい、何者だ!!」
「……依頼されたのでお前たちを始末しにきた」
チィ、と舌打ちをしたのは誰だったか。縄に縛られたリディアではないことだけは確かだ。
助けにきた、とは言わない。
何やってるんだ、とも言わない。
ただ偶然そこに居たから。助けるつもりなどなかったのだ。
あかきはな、さきほこれ。
いたみすら、のこさずに。
うつしよの、ゆめのなか。
えみすらも、きえてゆく。
おわりなき、ひとごろし。
ぷしゅり。
ローレット随一の始末屋から一般人が逃げ切れるはずもなく。すい、と首が切れ、頭が落ち。リディアの身体はみるみる強張っていく。
(……なに、これ)
――私の知ってる、あのひとじゃない。
それは恐怖であろうか。
それは失望であろうか。
形容するのも難しい。なぜなら彼女にとってそれは嫌悪以外の何者でもなかったからだ。
誉れ高い騎士の剣たらしめんと戦っていた彼女にとっては尚更に、衝撃に等しい。
ぱくぱく、と、口から空気だけが漏れでる。
幻介の長い髪が揺れ、リディアと不意に目が合う――けれど。
「――っ」
声にならない悲鳴。
幻介はただ、困ったように笑うだけで。
リディアの頬に飛んだ返り血をそっと、大きな手のひらで拭って、頭を撫でた。
それはまるで震える子供を慰めるように。……怯えているのもまた、仕方のないことなのだと。
(ありがとうと、言えない)
怒るわけでもなく、茶化すわけでもない。そんな幻介の姿が、取り繕うことのない真実なのだと告げるようで恐ろしい。
はらりとほどける縄の痛みよりも。
じくじくと心を襲う胸の痛みのほうが、鋭くて苦しい。
『剣とは、こうして簡単に。そして一方的に人を殺める事ができる、凶器なのだ』
と。
言葉はなくとも、伝えられているような気がして、真っ直ぐに目を見ることができない。
いくつかの首を広い袋につめた後、幻介は夜の闇に溶けて消えた。
自分が威風堂々と振るってきたモノは同じ剣であったか。
ならば。私は嬉々として敵の命を奪ってきたのだろうか?
違う。そんなことはない。そんなことはないはずだ、と、信じているのに、確証が持てない。
夜の路地裏にひとり取り残されたリディアにとって。こべりついた鮮烈な赤と、あの日とは違う幻介の背中。
(……何が、正しいの?)
わからない。
私が今まで切り開いてきたものは、なんだったのだろう。
弱きを助け、悪を挫く? 馬鹿言わないで、今の自分のほうがずっとずっと弱いのに。
(……)
ならば。
私はただ奪うだけの暴力を振るってきたのだろうか。
わからない。
そうだと認めてしまったならば、これまでの道行きを否定していることに違いないから、それが恐ろしい。
「……っ」
今は、まだ。
震えるからだを抱き締めて涙をこぼすことでしか、冷静になることができない――
兄ならば。師匠ならば。彼ならば。彼女ならば。どうしたのだろう。
私ならば、どうするべきなのだろう?
問いかけても問いかけても返ってこない。
ただそこにあるのは己の無力を示すものだけで。
違いと否定してしまいたいのに、彼の放った赤がそれを許さない。
たった二回の敗北。
それがリディアを変えてしまった。
悔やめば悔やむほど。鍛練に励めば励むほど。どんどん弱くなっていく。どんどん他人に嫉妬する。
そんなことをしたって何も変わらないと理解していた筈なのに。
ただ真っ直ぐに剣を奮えていた頃がやけに遠く思えた。
自分が握っていた剣のほうが重みを理解するとき、ひとは弱くなる。
「ッ、わたし、私は……!!」
「……拙者に殺されそうになっておいてか」
とおきひの、幻想。
次はぎゃふんとなんて、もう無理かもしれない。
あの日受けた傷跡はすっかり治った筈なのに。どうして、こんなにも、痛いのだろう?
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リディアが悲鳴を上げたとき、ああ、この姿を見せるのは初めてだったかと、ぼんやり思った。
青くなった顔色。震えるからだと、強張る筋肉。
それなのに、平気だと告げるように口角を上げようとしていたその姿。
どれも、どれも、痛々しい。
(……)
口下手だから。とか、上手く伝えられないから。とか、そういった問題ではない。
戦うものすべてに等しく訪れる宿命――力のありかた。
越えるには嫌と言うほど苦しまねばならないことを知っていた。
そしてリディアもまた、その中にいることを理解してしまった。
「……リディア」
ただ。
もう届かないかもしれない声を思って。
幻介は、遠く遠くへと、走り続けた。
おまけSS『いたみ』
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初めてひとをころした。
それでいいのだろうか、とおもった。
命とはあまりにもあっけなくて、虫のように容易く死んでしまうのだと知った。
それを繰り返す内に、いつしか大人になった。
……あの日の後悔を、俺は未だ取り戻せずに居る。