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『猫』に憑かれた娘
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――お父さんは『空っぽ』だった。だから、私はその時から気付いて居た。
けど、知らんぷりをしていたかったんだ。何時か、何もかもを無くしてしまっても。
診察券を再診用機械に通しながらぼんやりと綾敷 なじみは宙を眺める。『内科(特別)』の表示と予約時間を確認してから慣れた足取りで病院の中を進んだ。
希望ヶ浜に棲まうならば、その場所は誰でも知っている。特に希望ヶ浜の『北』に位置する東浦区の住民であったなじみは幼い頃から「アレが病院かあ」という認識であった。
それが『北』に存在する澄原病院であった。11歳になったばかりのなじみは近くの小児科から紹介を受け澄原病院を受診するに至った。
今日で診療は三度目だ。
通常の内科ではなく奥まった場所にある診療科の受付に受付表を差し出してから腰掛ける。鞄の中に入れっぱなしだった国語の教科書を眺めて名前を呼ばれるのを待った。
内科(特別)と言う名称はその科の本来の存在理由を隠す為に用いられているらしい。本来名称は『夜妖専門診療科』や『夜妖総合科』と言う――つまり、なじみにとっては『知らなくて良かった世界』の話だ。
「綾敷さん~」
軽やかな声音で診療順を告げる看護師は少し薄暗い印象を与える診察室へとなじみを誘った。「はあい」と小さな声音で返してから、なじみは教科書をランドセルに仕舞い込んだ。
必要以上に家具などは置かれて居ないその空間で「こんにちは」と笑いかけてくれる医師の名札は『澄原』と書かれている。彼の隣には長い髪を一纏めにした白衣姿の女が立っていた。
「なじみちゃん、今日は研修医の娘も一緒で構わないかな?」
「はい」
頷けば『澄原先生』は「有り難う」と頷いた。研修医だという女性の風貌は『澄原先生』に良く似ている。柔らかな雰囲気などは対照的な堅い、緊張を滲ませた彼女は「フードをとっても構いませんよ」となじみへと告げた。其処に至るまで、なじみにとってフードや帽子を被り続けることが日常の必須事項である為に『隠していた』事に気付かなかった。少し不格好ながらも大きめサイズを選んだサロペットパンツの中でぴくりと尾が揺れる。
「はい」
パーカーのフードを降ろせばなじみの頭の上には二つの耳がぴこりと揺れた。其れが綾敷なじみが『夜妖』の専門診療を行う澄原病院に通っている理由だ。
曰く――『猫に憑かれた』のだ。
それは血筋的なものであると『澄原先生』は言った。夜妖が取り憑いた場合の治療を行っている彼はなじみの例はよくあることと言えばよくあるのだと言う。憑き物筋と言う言葉がある通り、血筋に取り憑く存在というのは非常に厄介なのだ。
「体調に変わりは無いかな?」
「はい」
「君の代償は『言葉を食われる』だったね。お父様の件を見ると、どうにも其れだけではなさそうではあるんだが……」
『澄原先生』が後方を確認すれば彼の娘だという研修医は小さく頷いた。東浦区の海岸で倒れていた変死体。それがなじみの『お父さん』である。
なじみにとって辛い記憶であろうと配慮される其れは、実の所は『対して気にしていない』情報の一つとなっている。父を亡くしたにしては取り乱すことのなかったなじみは言葉を選ぶ『澄原先生』に向き直って「分かってますよ」と言った。
「お父さんはお腹の中身も食べられてました。だから、全部食べられるんですよね。
言葉も、情報も――情報もって事は『記憶』もそう。それに、内臓だって。全部。全部食べ尽くして仕舞ったら満足してしまうんですよね?」
「……それは……」
「私がお父さんの娘だったから、私に憑いた。もし、私が子供を作って『その子の方が美味しそう』だったら猫は私を食べ尽くして仕舞うんですよね?」
「……そうですね」
「晴陽」
叱り付けるような声音で『澄原先生』が研修医を叱責した。なじみは気にする素振りはない。寧ろ、最初から気付いて居た情報を肯定されただけでも気が楽なのだ。
診察室の丸椅子にぺたりと腰掛けていたなじみは「やっぱりなあ」とぼやいた。
11歳になってから、色々と考えるようになった。此の儘、普通の学校に通い続けるのは無理があるのではないだろうか、と。クラスの友達は帽子を被りっぱなしのなじみを揶揄う。中学に上がったとしてもそれは続くだろう。高校は母子家庭になったことから通学と学費の面からも公立高校である無ヶ丘高校が良いと子供心に考えていた。
「良いかな、なじみちゃん。子供は様々な情報や言葉を吸収していく時期だ。だからこそ、猫は君の新たな経験や発見を食べる事を楽しんでいるのだろうね。
君のお父さんが『食べ尽くされた』のは君に蓄積された情報がお父さんを上回ると猫が判断したからだ。
……君に憑いているものは猫鬼という怪異だ。通常は財産を奪っていく物だけれど今回の場合は――」
「情報は財産って事ですか?」
子供らしからぬ淡々とした口調でなじみは言った。『澄原先生』は只、頷くことしか出来なかった。
綾敷なじみは達観していた。父の遺体を見た時に。空っぽになった臓腑と通り過ぎていく猫を眺めたときに全てを悟った。
綾敷なじみは悲しくはなかった。父を喪った悲しみは計り知れない物であったが『それは猫が美味しく頂いてくれた』からだ。
綾敷なじみは慣れきってしまった。どうせ、喪うならば何時だって可愛くて明るいなじみさんで居れば良かった。
綾敷なじみは『普通で居られないこと』を知っていた。
――なじみちゃんのお父さんは海難事故で亡くなったんだよ。そうクラスメイトが言う度に「違うよ、呪い殺されたんだ!」と返したくなるのだ。
希望ヶ浜の住民は『呪い』なんて目に見えないものを認識しない。希望ヶ浜の人間はモンスターなど存在しないと知っている。
外に溢れた常識が希望ヶ浜では非常識になる。綾敷なじみは閉じられた希望ヶ浜という世界では酷く異質な存在になってしまったのだ。
「……なじみちゃんはこれからどうしたい?」
「お母さんに迷惑は掛けたくはないです」
「そうだね。希望ヶ浜学園なら君と『似た』存在は多く居るはずだ。何よりも、其処には協力者と呼べる人々がいる。
夜妖の『始末屋』や『掃除屋』を志すならば其方を進路に定めた方が良い。学費もなんとか口利きを行う事は出来る」
それが大財閥と呼ばれた澄原が出来る支援であり、夜妖診療を行っている澄原の治療方針なのだろう。
なじみは俯いて手許を眺めた。クラスメイト達と同じ中学校に進学すると考えていた。其の儘、何となく高校を出て、将来は適当な職について――それから。
いきなりモンスターと戦う為の学校の門を叩けと言われて「分かりました」と頷ける者は居ないだろう。『普通だった』なじみとてそうだ。
彼女が落ち着いていられたのは『猫』のお陰だった。『猫』がなじみの感じた大きすぎる負の感情を何となく喰らっていたからだ。
――死ぬ事は、怖くない。
猫が、その恐怖心が美味しいと言っていた。
死ぬという事への自覚が芽生えないのは屹度『最初から猫に食い殺される』と体が認識しているからなのだろう。遅かれ早かれ死んでしまう。齢11にして綾敷なじみは死への恐怖を強制的に超越させられたのだ。
「今、決めなくても良い。次の診療でお母さんと一緒に来て、結論を聞かせて欲しい。
君ももう五年生だろう? ……そろそろ、次の方針を決めておかなくちゃならない。『猫』が体内で可笑しいと思えば直ぐに電話をして」
「はい」
小さく頷いてからなじみはランドセルを背負った。お大事にと声を掛けてくれる研修医を眺めてから「あーあ、いいなあ」とぼんやりと思った。
――あーあ、いいなあ。あの人は『死ぬ運命』じゃないんだろうなあ。
中学校は希望ヶ浜学園に編入することと決まった。3年間は希望ヶ浜学園に通い、高校からは再度方針を決定する。
その際に与えられるのが『希望ヶ浜学園』に通いながら夜妖への対策を行う『掃除屋』の道を選ぶか、外部協力者になるか、である。
戦闘能力はあまり存在せずとも、肉体に夜妖を飼っているなじみは何方を選んでも良いと教師から伝えられていた。『どっちを選ぼうとも大して』リスクは変わりないのだと、心中で感じていたからだ。
体は予想以上に『猫』と相性が良かった。綾敷なじみとの共存を望んだ猫鬼は幼少期に爆発的に感情的に『得るものの多かったなじみ』の『不要なもの』を喰らっていた。
通常ならば食い殺される筈であったなじみの体の表層に『猫』が出て来られるようになったのはなじみと『猫』の相性が良かったに過ぎない。
『良いのか悪いのか。なじみちゃんの延命とも言えるね。猫鬼に余り体を明け渡さないようにしておけば、体の中で大人しくして居てくれるかも知れない』
そう告げた『澄原先生』の言う通り、なじみは食い殺されることはなく高校進学の時が近付いた。
希望ヶ浜学園中等部に通う彼女は耳や尾を一般人に怪しまれない方法を学び、其れと共に猫との共存方法に明け暮れた。
その際に『外で出会った友人』が気になったのだ。無ヶ丘高校について調べていた時のことだ。七不思議の一つとして語られた少女の事がなじみはどうしても気になった。
死神とも囁かれた彼女は『高校の前を通りかかった』なじみの前に立っていた。
「こんにちは」
「こんにちは」
にんまりと笑った彼女は夢華、と名乗った。黒髪に、無ヶ丘高校の制服を着用した大人しそうな女生徒である。
「――貴女、死にそうですね」
なじみはふ、と息を吐いた。其の儘、奇妙な笑いが口から零れ出る。
「うん、体の中にね、いるから」
「そうですか。それは……ああ、何時だって死んでも可笑しくないと思えるほどなのに、貴女ったら可笑しいほどに生きている。
『猫』ですか。『猫』ですよね。なんてことでしょう。
貴女が『猫』に魅入られて好かれて、憑かれて、食べられ尽くすまで『貴女は何時だって死の傍に立っている』のに!
こんなにも私好みの『死』の気配なのに、どうしようもないほどに――死なないではないですか!」
彼女が叫ぶ声を聞きながらなじみは死ぬとはなんであろうかと考えた。死ぬ事を恐れられない綾敷なじみは臓腑の内側で『猫』がにゃあと鳴く声を聞きた。
「猫が私を殺してくれるまで、私は死ねないね」
「そうですね。それか私が取り殺すまでは」
「君が?」
「そう、私が」
「可笑しいね」
「可笑しいと笑って下さる事が可笑しいのですよ。ああ、でも怖くないという貴女の事は魅力的ですもの。暫く一緒に居ましょうよ」
彼女と共に過ごすためになじみは無ヶ丘高校に進むことを決めた。恐怖なんて『ぺろり』と食べてくれるからこそ選んだ道だった。
「ねえ、猫鬼。約束がしたいんだ。私はこれから大切なお友達を沢山作ろうと思う。
だから、私の宝箱にだけは触らないでね。私の記憶だよ。私の記憶を食べて良いのは『最期』だけ」
『どうして?』
「喪ってしまうことが怖いと思ったんだ。思ったことは食べても良い。けれど、私が選んだ『宝箱』の中身だけは食べちゃだめ。
この宝箱はね、私にとって生きた証になる最大の財産だ。財産は沢山溜め込んだ方が食べ応えがあるでしょう? だから、猫鬼は最期の晩餐とだと認識して居てよ」
『君の臓腑を全て喰らい尽くして、最期に食べるものが其れだというならば、どれほど素晴らしいだろうね!』
「だからね、約束さ。私は明るく元気で可愛い『普通の女の子』。猫鬼は『私の最期を食べる』存在。
君と私の契約は、そうやって成立するのだから君だって我儘ばっかり暴食に徹してはいけないんだよ」
『そうしよう、なじみ。私達は一心同体だから――護って上げようね。何時か最期の食事を貰うときまで』
綾敷なじみが無ヶ丘高校に進学してから暫くの事だった。進学の切っ掛けになった友人、『夢ちゃん』は素晴らしい友人達が遣ってきたと告げた。
なじみと『猫』は共存している。『猫』は食事を欲し、なじみは生きた証を求めるように友人を作った。
『みんな』と呼ぶローレットから遣ってきた希望ヶ浜学園の特待生達と出会ったのはなじみにとっては人生の転機だった。
「こんにちは! 私は綾敷なじみ。怪しくなんてないよ? 寧ろフツー! 超なじんでる!」
――そこから、『君』と『私』の物語は始まった。
此処までの話? そうだね、コレは私と猫だけの秘密さ。