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quo vadis domine――?
登場人物一覧
澄原病院でカウンセリングを受けた天川は煙い事務所の一室でソファーにだらりと転がっていた。あの日、病院でカウンセリングを受けていた時に此方を伺っていた『院長先生』との会話が思い出される。
――誰しも苦しい過去も、忘れたいこともある。逃げ出したいことだって。
ですから……それから逃れるために、私は此処で生きて行くしかできないのです。立ち止まっては、影に追いつかれてしまうから。
似たもの同士だ、と自嘲したものだ。澄ました顔を為ていたが彼女も自戒する過去を胸に抱き日々を覚めぬ悪夢を見るかのように過ごしているのだろう。
己にとっては必要な過去だと簡単に言われようとも納得は出来まい。自身の責任ではないと同僚達に言われても罪悪感に苛まれたのだ。妻子も天川の所為ではないと――特に、妻の晶ならば「馬鹿ね!」と快活に笑って「そんな事で立ち止まるなんてらしくないわよ!」と背を叩いてくれることは分って居る。
「……晶……光星……」
名を呼ぶ度に、酷く悍ましい思いが胸に溢れかえるのだ。済んだ復讐は何も生み出さないことを理解していた。罪滅ぼしという理由が欲しかったわけではない。只、己の気が済むように遣った『快楽殺人犯』と何ら変わりない行いであったとさえ認識している。
(――後悔なんざしてない。何の意味も生み出さないことも知っていた。だが……)
天川は妻の姿を思い出す。髪を伸ばせば手入れが大変なのだと茶化すように笑っていた5つ年下の彼女。
ばっさりと切ったショートカットが良く似合う明るい笑顔の彼女。何時だって直向きで、時には豪快で。「天川君と結婚する為だからね!」と実家の反対を押し切って有無も言わさずに書類を提出していた。
そんな彼女だからこそ、天川は好きだったのだ。梲が上がらない己の手を引いて走って行ってくれる彼女。
神代重工の令嬢『らしくない』彼女のことを思いだして天川は頭を抱えた。
『天川君! 私が、この映画みたいに殺されちゃったら仇を討ってくれますか?』
――それは何時の日にか見た復讐がテーマの映画だった。チープな設定でありながら画面の迫力を感じる映画を眺めながらポップコーンをかじった晶の言葉に天川は面食らったものだ。
『あぁ!? 縁起でもねぇこと言うんじゃねぇよ……。そもそも俺がいるんだ。そんなことにはならねぇよ。
でもそうだな……。もしそうなったら……仇は討ってやる。やった奴は皆ぶった斬ってやるよ』
『ふふっ! そっかぁ……』
弾む声音は何時だって楽しげで、小指を立てて指切りをしようとぐいぐい迫る晶に天川は慣れない仕草で指を絡めた。
『なら約束して下さいね! 絶対ですよ! 私は……私を殺して貴方と離れ離れにさせた連中を絶対許しませんから!』
最大級の愛を込めて。彼女の愛情表現は脅迫めいていて、愉快そのもので。『お母さん?』と眠気眼を擦って遣ってきた光星を抱えてから天川は笑う。
『はは! おっかねぇ女だよ。お前は!』
復讐なんてもの、死者は望んじゃ居ないとは言う。だが、晶は笑いながら『スカっとしましたよ!』と笑うことだろう。だからこそ、分って居る。こんな罪悪感に苦しむこともなければ、燻り続ける黒き焔に焼かれる必要も無い。
彼女は新たな一歩ならば背を押して、新しい未来を歩めと笑うはずなのだから――
――奥様は『死ね』と仰るお方ですか?
脳を駆け巡った『院長先生』の言葉に「言わない」と独り言ちた。ソファーにだらしもなく凭れ掛かって煙草を燻らすだけの下らない時間。
晶と光星の事は忘れないだろう。だが、忘れられない癖にこの場所で新しい希望を見付けてしまった。
若人が走り抜ける背中を追掛けた。命を救いたいとかなぐり捨てん勢いで飛び込む者が居た。空虚な心を構えながらも、どうしても彼らを支えたくなったのだ。
未来なんてものは存在してはいけないと思ってきた。
未来の無い晶と光星の為に最期の時を迎え『そびれた』己には希望も期待も、目標さえ持ち合わせてはならないと。
「……くそ」
硝子の灰皿に煙草を擦り付けてから天川は嘆息した。脳内を掻き回した下らない言葉の羅列から逃れるようにシャツを脱ぎ捨てる。適当にシャワーでも浴びて気分転換をしなくては。
支度を終えて適当に歩いてきた天川の歩が無意識に向いたのは澄原病院であった。夜妖を専門とするために裏口の利用をイレギュラーズは認められているらしい。
「……おや」
カルテを手にしていた院長、澄原 晴陽は天川の姿を認め「こんにちは」と行儀の良い礼をしてみせた。
「先生、聞いちゃくれないか? 何、カウンセラーを通せってんならそうする」
「いいえ。以前は私が勝手に口を挟みましたから……続きならば喜んで」
職務の一環だと告げる晴陽は自身の使用している院長室へと天川を呼んだ。適当な人払いをし、差し出されたティーカップから仄かに馨る気配だけが室内を包む。
『カウンセラー』と『患者』、『クライアント』と『探偵』の立場でしかない自分たち。だからこそ、話すに丁度良い距離だと感じていたのだ。
「どう、なさいましたか」
「ああ……考えたんだ」
あの日、病院でのカウンセリングを『横で聞いていた』晴陽が口を出したその時。天川は彼女の言葉が忘れられなかったのだとぽつりと零す。
「……先生は言っただろ? 立ち止まっては、影に追いつかれてしまう、と。
先生にも言いたくない過去があって、逃れられない『影』がある。俺も同じだ。その『影』を忘れたくないからこそ、逃れられない」
「ええ、ええ……同じです。私だって、言葉に為てしまえば、忘れてしまえば楽になる。
けれど、忘れたくなんてないのです。彼女は私が生きてきた証――私が歩んで来た過去なのだから。だからこそ、背負って行かねばならない」
一人きりで背負うのは何方も同じ。互いに深く追求するつもりはない。話したくなれば吐露すれば良い。心の深い所を弄られる不快感を天川はよく知っていた――『復讐なんて!』『そんなの晶さんは望んでない!』。脳内を駆け巡った『常識ぶった人々』の声ばかりが心を締め付けては離さない。
「先生は、未来についてはどう思う?」
「未来、ですか?」
「ああ。黒い影が追掛けてくる。現実に『そうでは無い』と頭が思っても心はその影を想って離さない。
そんな俺達が未来に期待と希望を持つ事は、ひょっとして間違ってんじゃないかと思う時がある。生き存えることが罪滅ぼしにすりゃならないなら」
イノリの前で拾い集めていたのは自分が為だった。自尊心だ。警察官としての誇りに意地に、矜持に――『晶が好きだと言った己の在り方』に。
あんな自分勝手な生き方をして、善良だと嗤われても尚、想うのだ。未来無き妻子を差し置いて、自分勝手に我儘に生きる己の在り方は正しいのか、と。
「……私も思います。家の為だと学び続け、家を継ぐために斯うして病院の跡取りとなりました。
ですが、私は目の前で人を亡くしています。それも、友人です。私にもっと力が合ったならば助けられたのではないか。彼女ではなく、私が……とも。
そんな私が、未来に期待など出来るわけもない。
……黒い影は私を追掛けてくる。『あの子』はそうしないと分かりながらも、罪悪感に苦しみ続ける。私達は、そう歩んでいくしかないのかも知れません」
「そう歩む?」
「ええ、苦しいからこそ、もう二度と……他の誰かをその様な目に遭わさぬように。
私は弟がそうならないように……その為ならば、この身など差し出しても良いと思い生きています。身勝手でしょう」
「いいや、いや、そうだな。若い奴らをそんな目に遭わせたくはない」
天川にとって目の前の女医は『義弟』に良く似ていた。責務に押しつぶされそうな癖に気丈に振る舞っている彼女がどうしても心配だったのだ。
憐情なんてものを互いに持ち会わせたわけでは無い。ただ、生きる方向が似ていただけだった。
天川とて、誰かのためならば簡単に命は差し出せるような気さえしていた。己の方が彼女より先に一歩進んでいるのだろうか。
大人になって、弱みを見せる機会は減った。苦しいと泣きわめく子供の儘では居られなかった二人は互いのことを独り言ちるように口にするだけだ。
「生きてれば剣の腕だって高まった。晶に……妻に似て活発だった光星と剣を交えることが楽しみだった。
『幸天昇』の動向さえちゃんと掴んで置けば――俺がたったの1時間の遅刻を為なければ――息子は……光星は……」
生きていて、今はどうしていただろうか。晶に似た笑顔を浮かべ剣の鍛錬をしていただろうか。
その隣には何時だって晶がいて「天川君!」と名を呼んで手を振ってくれるのだ。まるで少女のような溌剌とした笑顔を浮かべて。
静かに天川の言葉を聞いていた晴陽は「そう、ですね。『あの子が生きていれば』と私も思います。『あの人が生きていれば』と私も思います」と呟いた。
「医者は、救えぬ命を目の当たりにします。ですが、それらを乗り越えなくてはならない職業だった」
「お互い様だな。人の死に様にゃ、何の感慨もないみたいな顔をしてなくちゃならないのは」
「ええ、そうですね」
多分、私と同じ――晴陽はそんな言葉を飲み込んだ。
誰かが死んだ挫折が目の前に横たわっている。だからこそ、踏み込まない距離感だった。
もしも関係性に名を付けるようになったとて、互いに吐露し合うことは無い。
時折、ぽつりと零した思い出の端だけでも自身等の『過去』が莫迦らしくも下らなくも、誰かに背負わすものでもない事を理解出来るから。
「なあ、先生。生きるって難しいな」
「……そうですね。けれど、私達は生きていかねばならないのしょうね」
それが再現性東京と呼ばれた揺り籠で過ごす己達の在り方。
自死する事さえ出来なかった愚か者としてのせめてもの生き方――後ろ向きな未来への第一歩。