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山中幸腹譚
登場人物一覧
もう何時間道に迷っているかわからない。
山の中を彷徨う少女は、どうしてこんなことに……と泣きそうになりながら一緒に山に来ていた祖母の姿を懸命に探す。しかし周囲は鬱蒼と木々が生い茂っており、木の葉のひさしは分厚く薄暗い。人影が見えないどころか人の手が入っているかも怪しい山道だ。
「もうやだ……」
ケーッ!と鋭く響いた、まるでこの世のものとは思えない甲高い鳥の鳴き声が聞こえたのをきっかけに、少女は心細さに耐えかねてとうとう木の根元に座り込んでしまった。三角座りをして、膝の間に顔を埋める。此処は山のどこだろう。こんなに薄暗いならもう夜だろうか。母は心配しているだろうか。はぐれなければ今頃、祖母と採った山菜を食べていただろうか……。お腹空いた、お腹空いた、お腹空いた、お腹空いた……。様々な思考が脳裏を過ぎる。
「だれか……」
寂しい、誰かに傍にいてほしい。祖母でも、いっそ知らない誰かでもいい。この不気味で恐ろしい世界に1人きりにしないでくれれば、誰だって……
「──もし」
少女は思わずバッと顔を上げた。祖母とは似ても似つかない若い男の、それなのにどこか雰囲気が似ている声が、少女のすぐ近くから聞こえたのだ。目の前には墨の様に黒い下穿。
「だ、れ……?」
ゆっくりと視線を上げていくと──墨色の道着に、黒炭で塗りつぶした様な髪と瞳。目元に入れた朱は、その風貌に『生気が無い』のだか、『ギラギラした生を発している』のだかわからない不明瞭な印象を与えていた。
「
長い脚を屈めて少女を上から覗き込むと、菊の花を煙で燻したが如き声で訊ねながら──李 黒龍はニィ、と獰猛に笑った。
◆
「〜♪」
じゅう、じゅう……
「……あの」
「
くつくつくつ……
「何を、してるの……?」
「料理ある」
少女は木の根本から手を引かれ、そこから程近い場所にぽつんと置かれた移動式の屋台の前に連れ出された。どことなくレトロな雰囲気を感じさせるアジアンテイストな屋台に備え付けられた椅子に座らされた少女は、ランタンで柔らかく照らされた屋台の奥で中華鍋を振るう黒龍をぼんやりと眺める。
「……なんで?」
「そりゃあ娘御の顔に、如何にも"腹が減った"と書いてあれば知らん顔するのも気が引けるある。山を下りるにしたって、空腹で途中で動けなくなるのは困ろ?」
「う」
ぐぅぐぅと鳴る腹を抱えている身としては、それを言われてしまうと黙り込むしかない。どのみち帰り道がわからない自分では山の中をあてもなく彷徨うことしかできず、どうやら帰り途を知っている「らしい」この男を頼るしか打開策はないのだと幼い少女の頭でも容易く理解できた。
「ううううううううーーー……」
それに……実際のところ眩暈がしそうなほどの空腹の最中、目の前で料理なんてされた日にはもう帰り途すらもどうでもよくなってきてしまう。何日も餌を見つけていない狼の様に少女は屋台に齧り付いて、じっと屋台の奥を眺めていた。
「はいはい、今できるからちと待つある」
黒龍はそう返すと、盛り付けが終わった皿を屋台のテーブル部分にゴトゴトと並べていく。
「はーい、おまちどうある」
上に味噌の様な茶色いものがかかった麺と、白く貝の様な形をした半透明の食べ物。そんなものを少女は見たことがなかったが、温かな湯気に混じるえもいわれぬいい香りを嗅ぐだけで少女の口内からはじゅわりと唾液が溢れる様な心地がした。
「……っ! これ、なに? なにっ?」
「あいやー、こういう料理見たことないか? こっちは
ひとつずつ指差して黒龍は料理の説明をしてやるが、少女は料理に視線を釘付けにしながら首を動かしていろんな角度から皿を眺めている。黒龍は苦笑すると、少女の前に箸を一膳置いてやった。
「お代はいらねえある。召し上がれ」
その言葉を聞くと、少女はガッと箸を握って目の前の料理に手をつけ始めた。まずはジャージャー麺の丼を手に取って肉味噌ごと麺をズズーッと啜ってみる。
「……んんっ!?」
ガツンと少女は味覚に衝撃を受けた。肉味噌と一言で表すにはあまりにも豊かな味。
貧しい家に生まれた故に、粗食にしか縁の無かった少女には全くその詳細を窺い知ることはできないが、荒く挽いた豚肉の他に細かく刻んだ筍や椎茸が入った肉味噌は生姜、ニンニクの香りをじっくりと移してあって香り・食感・ジューシーさ共に申し分無い。味噌は
麺はやや黄色味の強い中華麺だ。冷水でヌメりを落としたおかげか喉越しが心地よく、ほんのりと麺に絡めたごま油が肉味噌と最高に相性がいい。
「──ッ」
行儀など考えていられず、次いで海老餃子に箸を刺して口の中に文字通り放り込む。瑞々しくチュルンと半透明な餃子を噛み締めたときの、皮の中いっぱいに詰まった荒みじんの海老の、なんとプリプリしていることか。下味がしっかり付いているお陰か、醤油などなくても次々と口の中に消えていった。
「おいしい……おいしいっ……」
舌で感じとった鮮烈な「味」は、砂漠に水をこぼした様に少女の体に染み渡っていく。貧しい食事しか経験したことがなかった少女が、こんなに「美味しい」を感じたことがあっただろうか。いつしか少女は瞳から涙を零しながら、それでも見事に出された食事を食い尽くしていった。
「ご、ちっ、そうさま、でした……!」
「うむ、多少は満たされたあるか? なら帰る準備をするある」
少女がぽろぽろ泣きながら手を合わせたのを見ると、黒龍は緩く少女の頭を撫でてから懐から何かを取り出す。少女が視線を遣るとどうやらそれは白い紙と鋏だったらしく、黒龍は紙を半分に折ると折り目のついた方から鋏を入れ、慣れた手つきでショキショキと動かしていく。少女も突然の工作に興味を惹かれ、涙を拭ってからその紙を覗き込んだ。
「それ、なぁに…?」
「これか? 形代いうある。見た通り、紙の人形ね」
黒龍が紙を開くとなるほど、確かにそれは人の形をしているように見えなくもない。しかし、依然としてその用途を窺い知ることができず、少女は首を傾げる。
「何に使うの?」
「こう使うあるよ」
ぺたっ。
「…えっ」
額に何かがくっつく感覚と遮られる視界。黒龍が作った形代を自分に貼り付けたのだと理解するや否や、少女の視界はぐるん、と捻じ曲がり──
◆
「ふぃーーっ……」
李 黒龍は手にした形代を丁寧に懐へしまうと、大きく一息ついた。目の前には
「危ねぇところだったある。ヒダル神、だったあるか。吾輩の専門分野からはちと外れてくるから、
黒龍が
こんな山中に彼がヒィヒィ言いながら屋台を運び込んだのは、少女のために料理を作って「召し上がれ」と振る舞う行為を『施餓鬼供養』の儀とすることで、彼女の空腹を鎮め霊魂を回収しやすくするためだ。
『とある山で、幼い娘の幽霊が彷徨い歩いている』
黒龍が耳にしたのはその様な噂。ならば篤く弔わねばならぬと意気揚々と麓の村へ訪れたものの、村人達に情報収集をすると誰も彼も「なんとかしてほしい」という空気は出す癖に口は重い。これは何かあると踏んで村の家々に
「死んでからもあたし達を苦しめる。疫病神だよありゃ……」
娘の祖母だと名乗った老女の忌々しげな声が印象的で耳に残っている。それから、部屋の奥から微かに聴こえた女の啜り泣く声も。
「ありゃ、母親が病むのも時間の問題あるね。変なモノに魅入られなければいいあるが」
生きてる人間怖いあるねー、と呟きながら手付かずの海老餃子を1つパクリと摘む。
「……うぇ。勿体無いとはいえ、スカスカある」
黒龍が口に含んだ料理は死者が手を付けたせいか、はたまた別の理由か……砂を噛む様な味気ないものに感じられた。