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ゼファーと少年の話~かみさまのおうち~
登場人物一覧
黙々と前を歩く少年はさぞかし腹をすかせているのだろう。ゼファーのところにまで腹がなる音が聴こえてくる。彼はたまに水筒の水をすすり、しなびたリンゴをかじる以外は止まろうともしない。痩せて、貧相で、服もあかじみていた。それでも決意を瞳に燃やし、昼も夜もなく荒れた山道を行く。しかし藪を払う短刀の手付きはおぼつかなく、ともすれば自分を傷つけそうだ。日に日に彼は衰弱していく。登る斜面は険しくなっていく。
ゼファーもまた携帯食を齧り、彼の背後をついていく。特に意味は無い。強いて言えば水面に浮かんだ木の葉ていどに興味があった。果たして少年が「そこ」へたどり着けるか否か。ゼファーもまた「そこ」を見てみたかったのだ。
だるい天気だった。春雷が遠くで鳴っている。一雨来そうな予感。むせかえるような土の香り。
ゼファーが降り立ったのは幻想の国境筋だった。ひらけた丘が続いていて、その合間にかろうじて集落がある、そんなところだ。偏屈な風景画家でも相手にしないような痩せた土地に、食うや食わずの人たちがしがみついている。日々を過ごすことだけに懸命になり、虫のように生まれ虫のように働き、虫のように死んでいく。ありふれた景色。
ゼファーは一晩の宿を頼むために集落へ寄った。てっとりばやく一番近い家へあたりをつける。二階建ての木の家は、屋根の重さのせいかそれとも歳月のせいか傾いて見えた。その家の扉をノックすると、中から腰の曲がった老婆が現れた。重労働のせいか、荒れた手が痛々しい。着ている服はつぎはぎだらけで、ボロ布を重ね着しているようにしか見えなかった。村の中でも、爪弾きにされているのだろう。春物とは到底思えない服装だったが、襟足に自分でしたらしき鳥の刺繍が見えた。それだけが妙に美しくて、老婆に見えても、本当はもっと若いのかもしれないとゼファーは思った。
しわがれた声で誰何する老婆へ、ゼファーは旅のものだと用件だけ伝えた。もともと人に忘れ去られやすいタチだ。明日にはこの老婆も自分のことを忘れているだろう。宿と水をくれと伝えると、老婆は言葉を濁した。周囲をざっと見回してみればどうやら使い物になりそうな井戸はひとつだけで、そこから共同で飲料水を得ているようだった。そしてその井戸も枯れる日が近いのだろう。老婆の言の端々に暗澹たる未来への絶望が滲んでいた。
吹けば飛ぶような集落が、食い詰めた果てに逃散する。よくある話だ。こんな辺境じゃ噂にもなりゃしない。結局ゼファーは一宿一飯の代わりに老婆からさんざん繰り言を聞かされ、うんざりした。老婆はとろとろと締め忘れた蛇口みたいに愚痴をこぼし続けた。先に死んだ夫や、不快極まりない隣近所や、未来の見えないこの土地への不安と焦燥をゼファーへ押し付けた。それで何が変わるというわけでもなく、ひたすらにもはや彼女の人生にはそれしか残っていないのだという現実だけが重い暗闇となって煮しめたような部屋へこごっていた。
でもね、と老婆は口調を変えた。泥のようだった彼女の声に、うってかわって、かすかな希望と羨望が混じった。
「こどもはいいわよねえ。こどもはね。こどもだったらねえ、かみさまのおうちへ行けるのよ」
かみさまのおうちとはなんぞやと、ゼファーは問うてみた。あまりの愚痴の大波に疲れていたせいもある。なんでもいいから雰囲気を変えたかった。老婆は不思議そうな顔をして「そうだった、旅の人だったね」とひとりで納得した。
いわく、こんな天気が続けば凶作になる。今年もきっとそうだろう。そんな年にはあの山のてっぺんにある「かみさまのおうち」へ子どもを送り出すのだという。選ばれた子どもはかみさまの従者となって、永遠を過ごすのだという。
「今年もね、ひとりえらばれたんですよう。一昨日、旅立ちましたけどねえ。今頃あっちのほうへ歩いていってるでしょうねえ」
老婆はすこし背を伸ばし、地平線の彼方を指さした。たしかに霊峰とでも呼ぶべき壮大な山がある。いかにもかみさまが住んでいそうな山だ。そうやって新たな従者を得たかみさまは、満足して集落へ平穏と豊作をもたらしてくれるのだという。
かみさまのおうちとはどんなところか。ゼファーはまたも問うてみた。そりゃああなた、と老婆は聞き分けの悪い子どもをなだめるような声を出した。
「かみさまのおうちはいつだって実りの秋なんですよう。木の実がたわわに実って、山の幸がこれでもかと採れて、きれいな水が飲めて、冷たい雨にも嵐にもおびやかされない。立派で頑丈で美しくてすばらしいおうちで、鳥や獣と遊びながらいつまでもいつまでも過ごせるんですよう」
私は選ばれなかったけどねえ。今では思うんですよう。ああ、かみさまのおうちへ行った子どもがうらやましいと。つらい夜には考えてしまいますねえ。まあいまさらどうすることもできないのですけどねえ、と老婆は力なく笑った。
「私こう見えてね。子どものころはまだ裕福だったほうなんです。首都にもいったことがあるんですよう、まだ両親が健在だったときに。そのときに王宮を見ましてねえ、遠くからちらっとでしたけれど、真っ白で光り輝いていて、勇壮な旗がひらめいていて、きっとかみさまのおうちもああなのでしょうねえ」
大量の携帯食と交換した水は、土臭いにおいがした。
願望が風習になるのか、風習が願望になるのか、ゼファーは知らない。興味もない。
だから話を聞いた時もへえとくらいにしか思わなかった。ゼファーは風。吹き抜けていくだけの風。
なのでそこへ足を向けたのは完全に気まぐれだった。べつに風習へ異を唱えようとか、奇妙な願望に凝り固まった子どもを止めようとか、ましてや村全体をどうにかしようなどと、ゼファーはまるっきり思っちゃいなかった。
風がたまたま西から東へ向きを変えるように、ゼファーの脚が霊峰を向いた。ただそれだけの話だった。よって一昨日旅立ったという少年へ追いついたのも、べつに意図してやったわけではなかった。
見れば見るほどやせっぽっちの少年だ。そういえば、とゼファーは思い返す。かみさまの従者となる子どもは、野良仕事へ出る前の年齢の中から選ばれるのだという。土のついていない、まだきれいな両手で、かみさまへ奉仕するためだという。なにごとにも理屈はついて回るものだとゼファーは軽く感心した。
あまりに黙々と少年が歩き続けるものだから、ゼファーは退屈になって何度か声をかけた。だが少年は何も言わない。薄いぺたんこのリュックには最低限の水と食糧しか入っていないのが見て取れる。けれども少年はその背に信念を背負っている。自分がかみさまの従者となり、村へ豊作をもたらす偉大な存在となるのだと信じて一歩一歩確実に前へと進んでいく。なんとなくゼファーは少年を見守った。
昼間はゼファーが休憩を取り、夜は寝ずの番をしてやる。少年に火のおこしかたを教え、自分の携帯食も分け与えた。そうでもしなければ山の麓に辿り着く前に力尽きてしまうだろうと考えたからだ。だからといって少年は、特段礼は言わない。それどころか返事の一つも返さない。引くに引かれぬ不退転の覚悟が少年にはあるようだった。あるいはそう教育されているのかもしれない。かみさまの従者となるのだから、下賤のものと会話をしてはならないと。狼の遠吠えが聞こえてくるような荒野を、二人は抜けていく。
さすがのゼファーにも疲れが見えてきたころ、少年は山へ入った。見た目通り急な山だ。まるで山へ入るものを拒んでいるかのよう。道の代わりに連綿と続く鎖がある。それを命綱代わりに、少年とゼファーは山道を登っていった。最初にこの鎖を打ち込んだのは誰だろうか。ゼファーは考え、すぐにどうでもいいと頭を振った。今は無心にこの鎖をたぐり、山頂へ通じていると信じるしかない。少年は何度も足を滑らせ、そのたびにゼファーが尻を押し上げてやった。少年の方も少しずつ、ゼファーに心を開いている様子だった。相変わらず口はきかず、ひたすらに上を目指しているだけだったが。
そうやってどれだけの間、山をさまよっただろうか。斜面は容赦なく少年の体力を削り、鎖は冷たく、熱を奪う。ここまできてもまだ弱音一つ吐かない少年へ、ゼファーは心揺らされていた。そんな少年がたどりつく場所を見てみたい気持ちはさらに強まっていく一方だった。最後のリンゴがなくなった時、少年とゼファーは頂へ到達した。
見えたのは砂漠だった。灰色の、岩だらけの、なよなよとした地衣類がかろうじてはびこっている、何もない大地が延々と続いていた。生命の音はなく、吹く風はナイフのように少年とゼファーを切りつける。視線を下へ落としてみると、そこは鋭く切り立った崖になっていて、底にはなにか場違いに白いものが、いくつも絡み合うように重なっていた。それが人骨だと気づいた瞬間。ゼファーは隣の少年をふりかえった。あいにくと、そこには誰も居なかった。小さな足跡だけがなごり雪のようにぽつんと残されていた。
「……」
山頂の風はいまだ春に遠く、ゼファーの身体は冷えていく。
「生憎、私の人生の神様ってやつは店仕舞いして久しいんだけど、出来れば、懐の広い他の神様ってヤツが貴方を召し上げてくれることを祈るわ」
あえて崖下を覗き込まずにゼファーは吐息をこぼした。真冬のように真っ白な吐息だった。
帰り道、ゼファーはまた同じ集落を通った。大人がまだ幼い子どもたちを集めてなにか言い聞かせているようだった。
「というわけじゃからな、かみさまの傍にいればもう、お腹が空くことだってないし、冬のボロ屋の隙間風に震えることだってないのじゃ。わかったかな、わかった子は手をあげてごらん?」
「「はーい」」
無邪気な声とともに、いくつもの丸い白い手が青空へ向けて掲げられた。