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そばで感じる幸せを
登場人物一覧
桜が綻び日差しの香りが優しく感じられる、午前11時32分。
多くの店ではランチタイムの準備でせかせかと準備が進められる中、一本路地に入ったところに一店舗だけ、時間の流れがゆったりとしている店があった。
木造の建屋の白い暖簾には「蕎麦屋・大和庵」の文字。
春風にたなびく暖簾が作るわずかな隙間から見える店内の人気はまばらと言ったところである。
「ふむ……知る人ぞ知る店ということなのでしょうか」
志屍瑠璃はふと目に留まった古風で味のある蕎麦屋を前に、その足を止める。
木造建築の独特なにおいと蕎麦のつゆの香りに誘われ、ふらりと暖簾の先へと歩みを進める。
店内は思っているよりも広いものだった。
小上がりの席が壁際に4つと、テーブル席が数席、カウンターは8席ほど。客層は見た限り紳士淑女もとい年配が多い印象だ。
瑠璃はおもむろにカウンターの一番隅の席に腰かけて、メニューを眺める。
価格は割と良心的で、学生でも毎日食べられそうな価格帯をしている。
すみません、と店員であろう優しそうな年配の女性にざる蕎麦を注文し、物が出てくるのを待つ。
慌ただしさを感じるでもなく、他の客は楽しそうに談笑したり酒を出汁割りでいただくという乙なことを楽しんだりしている。
カウンターから少しだけ見える厨房の一角に目をやれば、店主だろうか、無心に蕎麦を打っている。
11時49分。ついにその時は来た。
ワサビやネギといった色とりどりの薬味が添えられたシンプルなざる蕎麦に、これまた刻みのりが横に添えられたシンプルな麺つゆ。
役者は揃った。あとはいただくだけだ。
「いただきます」
静かに手を合わせて箸を割り、器に添えられたレンゲでまずは一口、その麺を啜る。
ずるずるずるっ
「……こ、これは」
一瞬目を見開くも、すぐさま表情筋は元の状態に戻し、ずり落ちてきた眼鏡を再度上げる。
彼女はあくまでも忍者である。時には冷酷に相手を眉1つ動かすことなく仕留めることが出来る、そういった類の人間である。
だが心の中は別物。自分の本心に嘘は突き通せないのだ。
(麺つゆ……! これは椎茸のお出汁が使われてますね……!?)
ずるっ、ずるずるっ
(シンプルかつ分かり易い味だけど、それでいて麺の喉越しも相まって調和がハーモニー……!)
……ずるるるっ!
(お蕎麦のコシも良い。噛んでみるとそば粉の甘味もあって……こんなの……幸福そのものじゃない!)
食べ進めるにつれ、一度戻したはずの表情筋は無意識のうちにほころんでいく。
(薬味が豊富なのも嬉しい……! ワサビだったりネギだったりは勿論なんだけど、ミョウガやショウガもあるなんて……!)
口の中を蕎麦と椎茸が香る麺つゆが彼女を満たし、そこに加えられた薬味の爽やかな辛さが、口の中をリセットしていく。
「ん……! 美味しい……!」
満足げに緩んだ彼女の唇は、それでもなお蕎麦を食べ進める。
その顔は平静を装っているとは到底思えない、幸せが滲みだして抑えきれないような笑み。
満足そうに目を閉じ、落ちてしまいそうなほっぺたを手で押さえながら、その幸せを噛みしめ味わっている。
するりと最後の一口を平らげ、手を合わせた。
「ご馳走様でした。」
いつもの冷静な、しかしそれでいて満足げな表情でスマートに代金を支払い、店を後にする。
時刻は正午を少し回ったあたり。
白い暖簾を上げると、ピークが訪れる前兆か次のお客がちらほらと……否、彼らは並んでいるかの様にすら見える。
「今日も人が多そうじゃのう」
「まぁ、お昼御飯時ですからねぇ」
先頭から3番目に並んでいた老夫婦が、そんな話をしている。
(私が出たとき、そんなに人はいなかったんだけど……まぁ、いいでしょう。)
人だかりを他所に、瑠璃は次の目的地に向けて歩き始めた。
後日、この店が安価ながらも口コミで広がったこの店がグルメレポート雑誌に掲載されることになるのだが、それはまた別のお話。