SS詳細
『灰被りの道化師』組曲
登場人物一覧
⚫︎Prelude
寝惚け眼の空から注ぐ頼りない光と頬を擽る風はすっかり春めき、呼吸の度に嗅ぎ慣れた潮の香りは遠退いていく。これぞ旅の醍醐味のひとつ、と名も知らぬ森を進む気儘な足が響いてくるBGMに興味を持たないのは難しかろう。
————♪ ——♪ ——、——♪
張り詰めた弦が震え、溢れる。こんこんと湧き出す泉に似た静けさが時折思い出したように跳ね上がって切ない。偶然通り掛っただけの旅人の心までも揺らすあれは。
「……ヴァイオリンが泣いてる」
奥へ奥へと何処かで聴いた旋律を鼻歌でなぞり行けば空へ放たれる弓。溶け切らない余韻に無遠慮な拍手を被せたのは演者の意識を丸ごとこちらへ向けるためだ。
「やあ、朝から良い物を聴かせてもらったよ! あんまりに綺麗過ぎて胸に刺さる心地だったのだけれど、その涙の訳を尋ねても?」
観客の登場に面食らった男は乾いた目元を擦って眉を寄せる。不審と不信。隠しもしないそれは旅の者だと名乗れば幾分か和らぎ、詰まらない話さと前置いた。
ユリス・オベール。『ピアノの家庭教師をする、人と音楽に対して誠実な音楽家』。街でのその評判はつい先日、盛大に塗り替えられたばかりだ。
曰く『財産目当てで生徒の貴族令嬢に迫った』のを皮切りに『うちの子も誑かされた』だとかなんとか人々の口は回る、回る。そんな男に子供は預けないし、恋人も愛想を尽かす。
されど所詮、噂は噂。刹那的な好奇と悪意を餌にして天地逆さにだって泳ぎ出す。娯楽の種は田舎においては貴重なのだ。
『件の御令嬢がユリスに惚れた』のが発端で『断られて癇癪を起こし、世間体重視の両親が彼を街から追い出すため出鱈目を流した』だなんて真相は誰も知ろうとしない。
——以上が本人の証言に聞き込み情報を加えた事の全容だ。音色が悲鳴じみるのも無理はないな、と歪みかけた笑みは昼食の紙袋を抱え直すついでに整える。合図のノックは1、2、3回。
「ただいま、先生。留守番をありがとう」
本当は好きな声楽で食べていけたら。身の上話の締めの句を掬い上げて紡いだのは彼のための優しい嘘。
『ある女性に振り向いて欲しいんだ』
彼女は歌で告白する伝統をもつ飛行種で、残念ながら自分では勝負の舞台にすら立てない、などとまぁすらすらと口を衝く。
『この出会いはきっと運命だと思う』
奇しくも明日はあの人の誕生日。今日いっぱいで構わないから先生をしてくれないか、と。
『これは一世一代の舞台への賭け金』
ひと月は暮せそうな額を提示して真剣なのだと嘯けば、失意の青年は元の評判通りの真摯さで頷いた。
⚫︎Partita
小さなホールで始まった音楽教室は難航した。なにせ彼が選んだ課題曲は有名な演劇の一幕に使われる『真実の愛を説く姫の歌』——本来は女性のパートを男声で、しかも自称音痴が歌おうと言うのだ。
試しに聴かせてもらったあれは酷かった。キーは外れ、歌詞はとちり、リズムは崩れ放題。音楽や舞台に親しいからこそ半信半疑の曲目に「そうそう、それ」と大袈裟に喜んでいたのは、恐らく今まで誰も聞き取れなかったのだろうと苦笑が漏れた。
ピアノと即興で歌い直してみせた時の眼差しに負け、もっと歌いやすいようにとアレンジまで加えたのは我ながら調子が良すぎだろう。
「今日の終わりに、君の渾身の歌と演奏が聴きたいな」
昼休憩を挟んでの練習再開。お腹が熟れてくるうちに少しずつ歌声は安定し、雑談を挟む余裕も出てきた頃のことだった。
いざという時に緊張しないようお手本が見たい。一度きり、何があっても絶対止めないで欲しい。そんな念押しだって本番さながらの緊張感を生むための仕掛けだと思っていたのだ。
⚫︎Fuga
幕が上がる。客席に着いた彼を一瞥し、僕は鍵盤へ指を滑らせた。
重々しい前奏は疑心に囚われて凍りついた王の心。そこへ姫が歌い出そうという場面で席を立つ姿が見えた。
「……っ!」
吸い込んだ息が詰まりかける。まさか。そんな。どうして。今、代わりに席に座ったのは。
——誰かの口がどんな嘘を吐いても
ぱちりと目配せ。ああ、迷子になったと帰りが遅かったのは。僕が歌う、この歌は。
——私は歌おう
——貴方への想いは揺らがないことを
恋人だった彼女へ聴いて欲しいという願いを叶えるために。
オーダーの真意に揺れる中、曲は間奏へ。瞬間、裾から現れた彼の優雅なヴァイオリンが重なる。唇が「さあ、二番だよ」と囁き、続くのは完璧な二重唱だった。何度驚かされるのか。どれだけ騙されていたのか。いっそ笑える程に。
——貴方と歌おう
——変わることない想いを伝えるために
奏でる熱はクライマックスまで駆け抜け、浸る余韻の上に図ったような24時の鐘が鳴り響く。嘘の魔法が消えていく。
お幸せに。我に返った僕と目が合ったシンデレラはそれだけ残し、さようならも聞かずに夜の闇に溶けて消えた。
おまけSS『⚫︎Postlude』
音楽家は考える。結局、何処から何処までが嘘だったのか、と。
旅人だと言った癖に住民よりも街の構造を熟知した逃げっぷりは、きっと昼食を買いに出た時に調べておいたに違いない。
『まだ信じる気持ちがあるなら此処に来て。君のためのコンサートがあるから』
彼女を呼んでくれたことには感謝するし、報酬も確かにもらったけれど。あれは昨日今日で上手くなったような歌い方じゃない。ヴァイオリンだってそうだ。まんまと下手を装った練習に付き合わせられたのだから腹も立つ。
そもそも歌で告白する飛行種なんて、いや実際に探せばいるのかもしれないが、とにかく恋のためになんて嘘っぱちだったんだ。もう全てが疑わしい。
『真』。嘘に塗れた男が名乗るのに、こんなに相応しい名前が他にあるかい?
——誰かの口がどんな嘘を吐いても
——貴方の耳が固く塞がれていても
——世界の闇に深く目を閉ざしても
——私は歌おう
——此処にある愛が変わらないことを
——貴方への想いは揺らがないことを
——凍みる雪もやがては慈雨になろう
——この嵐がもたらす春の階を待とう
——暖炉に火を灯したなら共に歌おう
——貴方と歌おう
——ふたりの愛が涙で溺れてしまう前に
——変わることない想いを伝えるために
旅人は振り返る。彼は確かに良い教師、良い音楽家だった、と。
教わった通りに口遊めば姫の想いは海洋の空を舞い踊り、離れ離れになったふたりの心を必ずや繋いでくれるだろう。
『噂が本当だって信じてるんだ? それは彼自身の言葉より信じられるもの?』
一番近くで見ていた筈の恋人に見放される悲劇を引っ掻き回す道化役。ヴァイオリンも合唱も、これから始まる物語への餞別のつもりだったのだけれど。種明かしをする度に動揺する主役の顔を思い出しては笑ってしまうのはどうか許して欲しい。
遠くで誰かが呼ぶ声に回想を打ち切り、読みかけの新聞をテーブルに置いて立ち上がる。そうして、旅は日常へ。
幻想の地方貴族が街の住民に訴えられた。小さく記された数日前の出来事を押し退けるように、各地で好評を博しているコンサートツアーが海洋に近日上陸という告知が載っている。ずらりと連なる出演者一覧に燦然と輝く『ユリス・オベール』の名を自由な潮風が吹き抜けて行った。